凍てついたままでいて
登美川ステファニイ
凍てついたままでいて
1章 序
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1 序
明るい病院の壁は、まるでどこまでも続く迷宮のように感じられた。母の病室の番号を探しながら、俺は何度も階段を上り下りして病院の中をうろついていた。同じ壁、同じ部屋、同じ階段。五歳だった俺は、階とフロアの位置関係により病室の番号が割り振られていると分かっていなかったので、とにかく八〇三号室を探し出そうと歩き続けた。
そしてようやく八〇三号室を見つけた。
母はその一人部屋の奥側、窓際のベッドの上にいた。上体を起こしてクッションに背中を預けて座っていた。窓からは暖かな陽光が差し込み、母の姿を照らしていた。
母は窓の方を向いていたが、ドアの開く音に気づいてこちらを向いた。そして俺を見つけ、驚いた顔をしていた。来ている服は入院患者用の衣服で、壁紙と同じようなクリーム色をしていた。母の顔は青白く、クリーム色の色彩と明るい日差しの中で、どこか人形の顔のような、現実感を欠いた表情に見えた。
「雁人」
「お母さん……体は大丈夫?」
当時五歳だった俺は状況をはっきりとは理解していなかった。自分が何かをしてしまったらしいことは分かっていたが、それが何なのかは分かっていなかった。
兄は俺を責め、父は紅潮した顔で部屋に戻れ、出てくるなというだけだった。
ハウスキーパーロボのアーウィンは俺を部屋に連れていくと、何も心配ないと繰り返し言い続けていた。
母が倒れ救急車で運ばれていったのに、心配ないわけないじゃないか。そう癇癪を起し、俺はアーウィンに当たり散らしていた。しかしアーウィンにとっては子供の癇癪などどれ程の事もなく、俺はやがて疲れ果てて眠ってしまった。そして目覚めた時には、アーウィンは俺の部屋からいなくなっていた。
見張りのアーウィンがいなくなり、俺は母のいる病院に行くことにした。当時の俺にとっては病院と言えば白くて大きな建物の岳夏総合病院しか頭になかったが、そこの八〇三号室にいるという父と兄の会話を盗み聞きして、俺は無鉄砲にも家を抜け出したのだ。具体的にどう行ったのかは覚えていないが、よく迷子にもならず、事故に遭わなかったものだと今では思う。
病室のベッドに近づいていく俺を、母は見つめていた。しかしその表情は愛情や優しさといったものではなく、不安や恐怖とでも言うべきものだった。
「ええ……大丈夫よ。ちょっと怪我をしたけど……すぐ治るわ」
母はぎこちなく笑った。
俺は少しうれしくなった。大好きな母に会う事が出来た。そしてすぐに家に帰ってきてくれるだろうと思ったからだ。
今なら分かる。母のぎこちない笑みに潜んでいたものは、それは紛れもない恐怖だったのだと。他ならぬ俺に、母は恐怖していたのだ。しかし母性か、あるいは人としての優しさか、母は俺を見捨てようとはせず、受け入れようとしてくれていたのだ。
「お母さん、寒くない?」
俺は部屋を見回した。母は薄い毛布一枚だけをかぶって寝ていた。いつも家では羽毛布団を使っていて暖かくして寝ている事を俺は知っていた。部屋の温度はちょうどよかったが、母はもっと暖かい方がいいだろうと思ったのだ。
しかし寒ければ、この部屋くらいの広さならメタフォーミングでなんとかなる。実際には環境寛解タワーの出力に負けて個人でのメタフォーミングなどほぼ不可能だが、その時の俺は習ったばかりのメタフォーミングの事をまだ理解しておらず、何でもできる魔法の力だと思っていた。
大人になれば何でもできる。雨も降らせるし、風も起こせる。夜にだって昼にだってできる。メタフォーミングの一面的な情報だけを知り魔法のような力だと思っていた。だから母も寒ければ自分で暖かくするはずだ。そうは思ったが、怪我をしているから今は力が使えないのかも知れない。そして俺はまだ能力が使えないから、母の為に部屋の温度を上げることも出来なかった。
「温度はちょうどいいくらいよ……ねえ、雁人は一人で来たの?」
母は毛布を体にかけ直し、両腕で自分を抱きしめるように腕を組んだ。まるで不安から身を守る様に。その様子を俺は不思議に思ったが、思っただけで母に理由を聞くことはなかった。
「僕一人で来たんだ。本当はお父さんに部屋にいろって言われていたんだけど、アーウィンも他のことしてたから、こっそり出てきちゃった」
俺はベッドのすぐ横に立って母の顔を覗き込んだ。母は何故か俺から離れるようにベッドの端に寄った。
「そうなの……いけないわ、雁人。お父さんが心配するじゃない……早く帰らないと。今、お父さんに連絡するわ」
母の手が背後のケーブルをつかみ、端についている丸いスイッチを押した。ナースコールで呼び出しをしたようだった。
母は怪我が痛むのか包帯を巻いている右腕を左手で押さえた。顔色が悪くなっているようにも見えた。そして、なんだか怖い表情をしているが、怒っているのとは少し違う。今までに見た事がないような表情だった。
「お母さん大丈夫?」
俺は母に手を伸ばした。
「触らないで!」
まるで毒蛇でも追い払うかのように、母は俺の手を払いのけた。
俺は突然のことに、信じられない気持ちで母を見つめた。引きつった母の顔、見開かれた目。そこに込められているのは愛情などではなかった。
怒られた。嫌われた。俺はそう感じた。しかし、何故そうなったのかが分からない。病院に来たから? 触ろうとしたから? 何故? どうして? その気持ちが俺の胸に一杯になり、心が張り裂けそうになった。俺の心の中で何かが蠢いているようだった。
「雁人、ごめんなさい……でもあなたに触れられると、また凍り付いてしまう……ごめんなさい。まだ怖いの、あなたの力が……」
凍り付く。そうだった……あの時、俺は母に怒られていた。そして母は俺の目の前で倒れた。周囲のコップや果物まで凍り付き、アーウィンの体も冷凍庫に入れっぱなしのアイスみたいに白い霜で覆われた。俺は驚きながらも急なめまいに襲われ倒れ、次に気づいた時には自分の部屋のベッドの中だった。母はもう家にはおらず、病院に運ばれた後だった。
俺はおもちゃを片付けもせずにおやつを食べていて、アーウィンの小言も無視していた。それで母に怒られて……拙い言い訳と一緒に心から何かが溢れた。体から力が放出されたのだ。特異型メタフォーミング能力。メタドームでも唯一人だけの力。氷点下六十度の凍てついた環境を生み出す力だった。
「お母さん……怒らないで……」
ベッドの上の母を見ながら、俺は胸が苦しくなった。怒られて力が溢れた時と。そう、あの時と同じだ。感情が、気持ちが抑えられない。何かが自分の中で暴れている。それが溢れそうだった。涙をこらえるようにその衝動をこらえ、俺は小さな体を震わせて母を見つめていた。
「雁人、やめて! この部屋から出て行って! 出て行きなさい!」
母はそう叫んだ。見知った母の顔ではない。まるで化け物を見るような顔だった。
その表情に、その声に、俺の心は耐えられなくなった。堰を切ったように体と心の内側から何かが溢れ出す。衝動、感情が、俺の力が、触れるもの全てを凍てつかせる力が、俺の周囲に発現する。
母は恐怖に顔を歪ませ、その表情のまま痙攣するように体を揺らした。喉が引きつりか細い声が母の口から漏れる。母は喉元を押さえて、苦しそうに身を捩じらせた。
「お母さんごめんなさい! 僕……僕、どうしちゃったの?」
俺はベッドから離れる。母は咳込んで何も答えられる状況ではなかった。異常はベッドの周囲にまで広がっていた。ベッド脇の手摺は白い霜で覆われ、置いてあった花瓶は中の水が凍って内側から割れてしまった。床や壁も白い霜が降りていく。暖かな日差しの中で、母とその周囲の空間が凍り付いていった。
ああ、何てことだろうか。俺はまた、何かをしでかしてしまったらしい。俺は、ただ一目母に会いたかっただけなのに。優しく笑う母に抱きしめてもらいたかっただけなのに。
「お母さん……」
その時の気持ちはうまく言葉にできない。悲しいのでもなく、怒りや恐怖でもない。名状しがたい感情が俺の心を支配し、そして俺のメタフォーミング能力は、自分でも自覚できないうちに垂れ流しになっていた。それも、最悪の形で。
「雁、人……」
母の声さえもが凍り付いていく。充血した目は焦点が合わず、まるで母ではない別の誰かのようだった。両腕で自分を抱きしめた形で、母は動かなくなった。
「お母さん! お母さん!」
母が遠くに行ってしまう。俺はそう思った。しかし、出来ることは何もなかった。母を殺したのは他でもない俺自身であり、俺の特異型メタフォーミング能力が母を包み、氷点下六十度という極寒の環境で母の命を凍り付かせたのだ。
それは俺が自分の能力を知るきっかけだった。そして、俺の人生はそこで一度終わった。母を殺し、俺は人ならぬ存在へと成り果てたのだ。
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