第62話 幼き日に見た人魚姫のように
無事集落へと戻り、一刻も早く身を清めたいとジュリエットが言うのでキリアンは泉へと連れて行った。
ジャンも一緒に三人で歩く道のりでは、出会う集落の人々が長らく見かけなかったジュリエットへ心配の声をかけている。
「少し風邪で寝込んでいましたの。身体は元気になりましたからまたお会いいたしましょうね」
ジュリエットは皆にそう返事をしていた。
「いつの間にか、集落の人間もあんたがかけがえのない存在になってるんだな」
「まあ、どうしましたの? 急にそんなことおっしゃるなんて。ねえ? ジャン」
ふふふっと笑うジュリエットは、ジャンの方へと振り向いて何か合図のようなものをしているようだ。
「何だよ、二人して……」
キリアンが少し不貞腐れたように言えば、ジャンが笑いながら答えた。
「キリアンが突然お嬢に甘くなったから、お嬢はすっごく照れ臭いんだってさ!」
「ジャン! そのようなこと私は申してませんわ! キリアン様が甘い言葉を囁いてくれなくなったらどうしてくれるのですか⁉︎」
「あはは……! ごめんごめん! いやあー、なんか嬉しくてつい……」
ジュリエットはキリアンの方へと向き直って真剣な表情で人差し指を立てた。
「いいですか、私はちっとも照れてなんかいません。むしろもっとたくさん愛を囁いてくださっても構わないほどですわ。だって今までは私ばかりが愛を囁いていたんですもの。これからはキリアン様もお願いいたします!」
「なんだよ、それ。お前、そんなこっ恥ずかしい事よく真顔で言えるな」
「こっ恥ずかしいことなどありません! お約束してくださいませね!」
そうこうしているうちに泉に着いたので、これ幸いとばかりにキリアンはジュリエットを女性用の入り口へと送り出した。
ジャンと二人でさっさと水浴びを済ませて出てきたが、ジュリエットはまだ出ていなかった。
「なあ、遅くないか? 見に行った方がいいんじゃないか?」
「キリアンが気になるならどうぞー。俺はここで他の女性陣が来ないように見てるから、ちょっと覗いてこいよ」
「……。じゃ、ちょっと様子を見てくる」
ジャンに入り口を任せて、キリアンは女性用の泉をそおっと覗いた。
パシャンという水音と広がる波紋の中心で、ジュリエットは自分の身体を見つめていた。
泉を照らす月光と松明の明かりはジュリエットの身体を優しく包んでいる。
「本当に、呪いは解けたのだわ」
静かな場所で、聞こえるジュリエットの声は確かに安堵していた。
足首に付いた内出血の痕は痛々しかったが、もう鉄枷は付いていない。
集落に戻ってすぐに鍛冶屋のような仕事をしている仲間に外してもらったのだ。
ジュリエットは急に水の中へ潜った。
キリアンからはローズピンクの髪が水中でゆらりゆらりと揺れているのが見える。
急に不安になって思わずキリアンは名を呼んだ。
「ジュリエット!」
その時、思い切り浮上して水面に顔と上半身を出したジュリエットはこちらに気づいてしまう。
「キリアン様! 何をなさっているの? ここは女性用でしょう?」
水面から出た上半身の胸元を急いで隠してジュリエットは言う。
「悪い……。あんまり遅いから心配になって……」
「もう、すぐ出ますから外でお待ちください!」
「わかった」
怒られたキリアンは、どこかシュンとした様子でジャンの待つ入り口のところまで帰って行った。
「どうだった? お嬢、大丈夫だったか?」
「……なんか、昔お前ん家で読んだ本あったろ。俺らが字の勉強したやつだ」
「は? 本?」
突然おかしなことを言い始めたキリアンに、ジャンは
「あっ! もしかしてあの絵本のことか? キリアンが何度も読んでた! 異国の話だとかいう……。何だったかなー! えーっと……」
「そうだ……『にんぎょひめ』」
「ああ! そうそう! 人魚の姫さんが死んじまう話な!」
本の名前は分かったが、それがどうかしたのかとジャンはキリアンの方へ疑問の視線を投げかけた。
「まるであの挿絵みたいでさ。ジュリエットが……」
「うーん、どんなだったかなあ? 僕は覚えてないや」
考え込むジャンを
「甘い言葉……ねぇ……」
そう呟いたキリアンの声は、まだ思い出そうと悩むジャンには届かなかった。
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