第32話 茜色のアリーナは羨ましいほどの豊満な肉体ですこと


 そうこうしているうちに空は茜色から濃紺に変わりつつあり、ところどころには星が煌めくのが見えてきた。

 ジュリエットは自室へ一旦下がり、今日の出来事や覚えたことなどを日記に綴ることにした。

 日記帳はこの生活の為に新たに準備したのもので、市井の暮らしや感じたことなどを書いてみようと邸から持参した荷物に忍び込ませてきたのであった。


 仕事のこと、食事のこと、スチュアートのこと、書くことは多くあって集落での二日目の日記のページはびっしりと埋まったのである。


「邸でいた頃にはこんなに多くのことを書くことはなかったわ。それ程までにここの暮らしは実りが多いのね」


 そう言って満足そうにパタンと日記を閉じたジュリエットは、水浴びをする為に着替えを持って自室を出るとリビングで過ごすキリアンへ声をかけた。


「キリアン様、水浴びをしてきてもよろしいでしょうか?」

「足の傷はどうなんだ?」


 ジュリエットは靴と靴下を脱いで昨日キリアンに巻かれた布を解き、足を見せる。

 全ての傷口は瘡蓋かさぶたになっており、化膿したりもしていないようだ。


「見ての通り順調に治っております。キリアン様のお心遣いの賜物たまものですわ」

「……まあ治ったんならいいけどよ」

「それではご一緒に参りますか?」


 そうして二度目の水浴びに向かう為、もう暗くなった道のりを並んで歩くジュリエットとキリアンは遠目に見れば本当に夫婦らしいのであった。

 歩きながらジュリエットは開いた左手のひらを前に突き出し、薬指に嵌められた銀の指輪を見つめた。


「何してんだ?」

「これがあるだけで私は幸せだなあと感じるのです。仕事をしていても洗い物をしていてもふと見えるこの指輪が私を元気付けてくれるのですわ」

「……ただの安物の指輪だぞ」


 突き放すような言葉を放ちながらもキリアンの口の端は僅かに上がっていたが、薄暗い路地ではジュリエットは気づかない。


「それでも、キリアン様もきちんと身に付けてくださっていますわ」


 そう、婚姻の儀からキリアンの左手薬指にはジュリエットと同じ銀の指輪が煌めいている。

 義務だ契約だなんだと言いながらも、きちんとそういうところはしてくれるようだとジュリエットは喜んでいた。


「まあ俺の戸籍や薬指なんざ、五千万ギルに比べれば安いもんだ」

「そうですの? 私はそれでもそれが嬉しいのですから構いませんわ」


 そうこう話しているうちに、再び森の泉に到着した。

 キリアンと別れて女性用の泉へ向かうジュリエットは、その自然の美しさに再度心を奪われた。

 今日も変わらず泉はエメラルドブルーの透き通った水に木々や星、月を写し込んでいる。

 しかし昨日と違うのは、泉の中に先客がいるようだということである。

 ジュリエットがゆっくりと泉に浸かれば、それによって起こる緩やかな波にこちらへと気付いたようで、泉の中を近寄ってくる。


 月明かりに照らされた先客は赤く燃えるような茜色の髪を持ち、つり目がちの茶色の瞳が放つ視線は好奇心と燃えたぎる何かをたたえているようにジュリエットへ向けられている。


「ねえ、もしかしてキリアンの奥さんって貴女かしら?」

「はい、ジュリエットと申します。このような格好で申し訳ございません。これからどうぞよろしくお願いいたします」


 ジュリエットは泉の水に浸かっている裸身を隠すように手をやり、その場で丁寧にお辞儀をした。

 茜色の髪の女はそんなジュリエットを舐めるような視線で見つめてから、フンっと鼻で笑った。


「私はアリーナ。キリアンったら、婚姻なんか一生しないって言ってた癖にこんな乳離れも出来てないような世間知らずのお嬢様をもらうなんてね。一体どんな事情があるのかしら? ねえ、貴女妊娠でもしたの?」


 アリーナと名乗る女は華奢なジュリエットと違ったタイプで、男好きしそうな豊満な肉体を見せつけるようにして腕を組み、めるような視線を突き刺す。


「いいえ、懐妊などしておりませんわ。キリアン様はただ私と婚姻を結んで下さっただけです」


 ジュリエットはこのような悪意に晒されることはあまり慣れてはいなかったものの、ここで負けてはならぬと女としての本能が告げていた。


「ふうん……。私ね、キリアンとは長い付き合いなの。この集落でも一番多く夜の時間を過ごしているわ

。キリアンが他人の物になるなんて想像もしていなかったから驚いているの。ねえ、キリアンって貴女に優しい?」

「……キリアン様は出会った時からずっとお優しい方ですわ。世間知らずの私のことを助けてくださいますし、常に尊重してくださっております。ですから私はとても幸せなのですわ。ご心配、痛み入ります」


 大人しいお嬢様かと思いきや、言い返されたことにムッとした様子のアリーナは松明だけの暗がりでも分かるほどに顔を紅くさせ、水面を思い切り叩きながら言葉を放った。


 


 

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