第46話 祈りの声
幼き頃より仕込まれた大切な舞い。それを薄汚い芝居小屋で披露する毎日。
しかし客の目当てはそれではないとばかりに、いつだってある一点に集中した。
女物の衣から垣間見える白き柔肌。その瑞々しさを暴くように食い入る視線が、少年は吐き気がするほどに嫌だった。
けれど求められれば応えるしかなかった。
それこそが少年が唯一生き残る術であったからだ。
役者が色を売る。それ自体は決して珍しいことではない。
しかし彼はかつて戦国の世に栄華を誇った一族の末裔である。
それでも彼の「生きる」意志は決して折れることはなかった。
家族を失い、身分を失い、男子である誇りすら奪われて尚、彼の心の奥底では熱い炎が揺らめいていたからだ。
その炎とは――復讐だ。
それだけだった。それしか許されてはいなかった。
きっと父上も、兄様たちも。
それを成し遂げる瞬間を望んでくださっているに違いない。
彼はいつだって自らに言い聞かせるようにして呟いていた。
だから、
「憎い、憎い、憎い。なにもかも壊してくれようぞ……っ」
気づいていなかったのだ。
そうして日々憎悪と悔恨を
思い思いに空を駆る連中。どれもこれもが醜い。
しかしそれを率いている者こそが今や彼だった。
行軍の主たる堂々たる姿。
煉獄の炎に身を焦がしたように皮膚は赤くただれ、ところどころ皮膚を破って突出した骨はひしゃげている。
背中から生えた翼は闇に溶けるように広がり、薄い皮膚の内側を這う筋肉は、羽化の瞬間を待つ
これまでに取り込んだ異形どもの名残だ。
今や甚大な妖気が彼の全身を包んでいた。これより更に力を得れば、この都すら覆い尽くしてしまえるほどに。
最後の仕上げは自ら当たる。
そうしてこの社を落とすことが出来れば、忌々しい結界は
「そうじゃ。もう一度。もう一度、取り戻すのじゃ。すべてが完璧で、美しく在ったあの日々を! 恩情などかけ、今日まで我を生き永らえさせたこと。後悔させてくれようぞ……」
しかし九年越しの彼の野望を阻む光が、今、眼下にちらついていた。
同胞を無造作に打ち払う人影。
鳥居の前に立ちはだかり、光を纏って踊るは上等な法衣。
数珠を巻いた手を引っ込めて、一人の老僧が彼を仰ぎ、
「この社は最後の砦。そなたらに決して落とさせはせぬ」
ならばたった一人で阻むとでも言うつもりか。この行軍を止めると。笑止。
彼は老僧の必死な様を嘲笑った。この異形の数を相手になにが出来るという。
しかし老僧の唇が破滅の言葉を唱えれば、同胞は次々と姿を消していく。
なにより厄介なのは坊主の背後に立ち塞がる光の膜だ。
打ち破ろうと一斉に攻撃を仕掛けるも、敵わない。これでは社を破壊するどころかこちらの士気が殺がれてしまうではないか。
案の定、痺れを切らした同胞たちが暴れ始めたのだった。
各々が強さを求めて共食いを始めた。
「ふむ。生き残ったものが結界を食らいにかかるか。どこまでも野蛮なものたちよ」
老僧の顔が歪む。
けれど目を細めているのはどうやら嫌悪のためだけではないらしい。
この距離からでもはっきりと見てとれる。細い肩が上下している。踏み張る足にわずかに震えがある。
彼は確信した。
(ああ、ここもまた時間の問題じゃ)
「老いぼれが。笑わせる!」
彼は羽ばたきを増して上昇する。
そうして真っ直ぐ先を見据えた。目指す先は直ぐそこなのだ。
縦横を走る無数の小路。その内にひしめく粗末な民家。くまなく張り巡らされた運河に螺旋状の濠。そしてその渦中には――堂々たる城。
「いよいよじゃ……」
千代田城。その広大な敷地が忌々しい結界の内側に控えている。
これから訪れる地獄などまるで予期せぬように、城下は夜の静けさに身を任せていた。
彼はそれが愉快でたまらない。
人々が家を飛び出し、燃え盛る炎の中、自分たちから逃げ惑う様はさぞかし見物だろう。それよりも城を破壊にかかり、恐怖に怯える公儀の連中の右往左往をしばし堪能するのもいい。最終的にはなにもかも壊してしまうのだが。
「アハハハハハハ!」
愉悦が絶頂に達したその時だ。
《
彼は再び真下に視線をくれる。
坊主は相変わらず同胞を相手するので手一杯だ。
こいつではない。
では、では、この声は。
「なんじゃ……」
《砕破したまえ。憤怒したまえ。我が前に立ち現われたる魔を焦土と焼き払いて、人々を救い上げたまえ。障難を滅尽に滅尽し、現世来世にわたりその力、世を加護したまえ》
複数の人間の声が四方より木霊する。
すると一本、また一本と遠く彼方に光の柱が立ち上がった。
色鮮やかな五色の光柱。その輝きはあまりに眩く、「これはダメだ」と拒絶を示すようにこの身が強張る。
「――さて。そなたらを導く声を聞いたな」
なぜだ。なぜ今頃になってそんな顔をする。そんな余裕げな顔を。
彼は坊主の態度を心底不思議に思った。
そして首元の皮膚を裂くようにしてわずかに首を傾げれば、直後、不思議なことが起こったのである。
世界から一切の音が消えてしまった。
何も聞こえず、何も動かず。まさに永遠ともとれるような時間の訪れ。
遠くに立ち上がる五本の光柱からそれぞれ強烈な光が爆ぜた。
それをただ見つめるしか出来ない。
気づいた時には視界が焼かれ、熱波が押し寄せていた。
遮断されていた聴覚がにわかに戻る。周囲の断末魔を次々と記憶する。
奴らが次々と消えゆくのが分かる。妖気の残滓すらあますことなく食らい尽くされ、後には何も残らないだろう。そしてそれは自分も同じ運命――。
(否。こんなところで果ててなるものか!)
その思いだけで、彼は溶けかけた翼で上へ、上へと浮上する。
そして意を決し、最後の賭けに出たのだった。
残る全ての妖気を費やし、そこに控えているであろう光の膜へと体当たりを挑んだ。
「まだじゃっ、まだなのじゃああぁっ!」
蒸気を上げて溶けゆく体。
それでも彼は諦めない。意識の続く限り、何度も、何度も、その身を打ち当てる。
しかしとうとう彼の意識はその途中で絶えてしまったのだった。
力尽きた肉塊は大地へと還るようにして、深い夜の闇へと沈んでいった。
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