第45話 生じる亀裂

「なんと立派な造りであろうか」


 柳生宗矩やぎゅうむねのり高麗縁こうらいべりの青畳の艶やかな光沢を指の腹で愛でつつ頭上を仰ぐ。


 折り上げの天井には一枠ごとに極彩色の花鳥が描かれている。

 釘跡はすべて細密な彫金具で隠されており、柱も、梁も、黒漆の上質な照りによって包まれている。神々しい光景に息を呑むばかりだ。


「さすがは上様専用の御殿であるのう。贅沢にはめっぽううるさいと評判の上野介こうずけのすけ殿であったが、ここまで意匠を凝らすとは」


「それもこれも上様に格別のおもてなしをご堪能いただくため。そのように過分なお心遣いを見せるお方がよもや上様を裏切ろうなどと……ありえませぬ」


「しかし華麗な装いの中に狂気が潜んでいるとも限らぬ。それを確かめるのが我々のお役目であろう」


 井上正就いのうえまさなりは棚に飾られた壺を置くと廊下へと向かった。

 その背中を宗矩もぴたりと追う。


「しかし御湯殿も、御寝所も、宿直とのい部屋も。どこにもおかしな仕掛けは見当たりませんでした。その造りは麗しくも堅固にて、賊のつけ入る隙など微塵もございませぬ」


 天井の裏、壁奥、床下と。あますことなく確認した。

 たしかに目新しい建具が使われている箇所はあった。けれどそれは外来の建具を用いることで安全性を高めたにすぎない。


(そうだ。すべては工夫の範疇。何もやましいところなど有りはしない――)



 


 四半刻(三十分ほど)前。

 宗矩たちは宇都宮城に無事到着した。すると早速城主である本多正純ほんだまさずみに目通りを願った。


 正純は笑顔で出迎えてくれた。しかし海千山千の幕臣と名高い彼のことだ。やはり妙な組み合わせの突然の訪問を訝しまないはずがなかった。


「使いも遣らずと主計頭かずえのかみ殿自ら足をお運びとは。さて一体どういった用向きでござろうか」


 広間に重たい空気が流れる。

 前に控えた井上正就が「うむ」と口火を切った。


「お帰りもこの宇都宮城にてゆるりとお過ごしになられること、上様もそれは楽しみにしておいでにござった。しかし先刻、江戸より御台所みだいどころ様ご不例との報せが急遽到来。これを受け、上様は馬を召され今市を発せられたよし


「なに。まことであるか」


「これより壬生みぶ岩槻いわつきを経由し、明日中にも江戸にご帰還のご予定なれば、我々はその旨をお伝えしに参った所存である」


「なんと……。たしかに江戸に向かわれるには宇都宮は少々回り道よな。先をお急ぎとあらば日光西街道こそが最短経路。……うむ。事情は分かり申した。しかし御台様がご病気とは大いに気がかり。おっつけそれがしも出府いたし、お見舞いに参るといたそう」


「それには及ばぬ」


「……なに?」


「こ度の社参については色々と骨折りであったから、このまま上野は休息しておるようにと。そのように上様よりご伝言をお預かりしておるゆえ」


 正純は閉口した。

 しばらく畳の一点に視線をくれていたが、気を取り直したように頷いた。


「さようであったか。それでは上様のお言葉に甘えるといたそう。江戸には日を改めて参る所存なれど、この上野介が心配しておったと、くれぐれも宜しくお伝えいただきたい。主計頭殿。柳生殿。こ度はご足労をおかけした。かたじけない」


 彼は席を立った。そして、


「諸々用事が残っておるのでこれにて失礼いたす。お二方は時間の許す限り当城にてご休息なさってゆくがよい」


 険しい表情ながらも、相変わらずの細やかな心配りを見せるのだった。

 しかし――、


「これは願ってもない」


 井上正就が嬉々として発したその一言に彼の表情が一変したのだった。


「御意により、これより御宿所をあらためさせていただく」


 正純に続くようにして立ち上がった井上正就の背中を仰ぎ、宗矩は声を失くした。


 正就の体越しに見る正純の視線。

 なにを企んでいる。そう、疑心に満ちた瞳だった。凍てつく視線に穿たれるようにして、彼との思い出の数々にひびが生じたような、そんな気配すら肌が覚えた。





(上野介殿があのように冷たい瞳をなされたのは初めてであった……)


 宗矩が先のやり取りに思い巡らせていると、「柳生殿」と声がかかる。


 目の前に正就の顔があった。

 正就は仕方ないと言うように短く息をもらすと、宗矩の肩に手を置いた。


「だから拙者は申したのだ。やはりそこもとはここへ来るべきではなかった」


「なにをおっしゃいます。こうして上野介殿の身の潔白をこの目で確かめられた。この上なき喜びにございます」


「それこそが問題なのだ。よいか柳生殿、此度の事は」


 正就が更に顔を近づけて何かを言いかけた時だ。

 雨戸が激しく音を立てた。


「嵐か?」

 

 外の様子を窺おうと二人して雨戸に近づく。が、開け放とうとするも開かない。内側の木枠に差しこまれたかんぬきのようなものが拒んでいた。これもまた外来の建具のようだ。


「なんとややこしい錠か。ええい、開け!」


 躍起になった正就が力任せに戸を引く。なかなか開かなかったが、ようやく上手いこと錠を押し上げたようで外がのぞいた。

 瞬後、吹き荒ぶ風が宗矩たちの頬をなぶった。思わず目を細める。


「これは」と宗矩は薄目を開けて上空を捉えた。

 

 夜空に天の川のように横たわる怪しげな光の帯。

 目を凝らせば雲霞うんかのごとく妖たちが群がっているではないか。その流れは徐々に仲間を増やしつつ、ある方角をひたすらに目指している。

 

 宗矩は固まった。ひどく重要な事柄が頭から抜け落ちていたことを、この時ようやく思い出したのだった。そしてそのことを、ただただ恥じるばかりだった。


「なぜ。なぜ人ばかりが人を貶めると考えるのか。恐ろしさを彼の者の近くで誰よりも目の当たりにしていたはずではないか」


「柳生殿?」


 空を見つめてぼんやりと呟く宗矩を、井上正就が不思議そうに見つめる。


 月は雲の狭間で息をひそめている。

 異形の集団に怯えるように頼りないわずかな光が、それでもたしかに雲間から滲んでいる。


 宗矩は祈るように拳を握った。


「白夜……」

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