第13話 風の守人

 風が吹き渡った。

 窓の向こうで木の葉が一斉に騒いだ。燭台の炎が揺らめいて、文机に影が躍った。

天海てんかいは滑らせていた筆を止め、立ち上がる。

 戸を開けて板敷きの廊下へと出れば、まだまだ冷たい空気が肌を突く。果たして春は本当に目覚めたのか。そう疑いを抱いてしまうほどに寒い夜だ。

 座禅院ざぜんいん。日光山の奥地に構える名刹めいさつは未だ深雪に埋もれたように静けさが辺りを覆っていた。


「夜分にご無礼つかまつります」

 

 中庭を見下ろせば、火を欠いた灯篭とうろうの裏から声が飛んできた。天海は微笑む。


「やはりお前さんだった。かまわないよ。いかがしたかな」


「ご社参行列の先発隊の面々、無事宇都宮にご到着なさいました。将軍様ご一行におかれましても夕刻には美作守みまさかのかみ様のお城にお入りになられましたので、そのご報告に上がらせていただきました」


「そのようだね。つまり本日も道中怪しい気配はなかった。そういうことでよろしいかな」


「城下において多少の混乱は見られましたが、この機に乗じて悪さを企もうとする輩の気配はございませんでした」


「そうかい。ご苦労だったねえ」


 こちらにと天海が手招きをすれば一礼する気配があった。

 月明かりに照らされたその肌は血が通っていないように淡白い。頭の天辺で結わえた白髪が銀糸のようになびいて、まるで神仏のような尊さが光に滲む。しかしこの世に形ある者と主張するように骨格はしかと構えられており、肉も適度に盛られているのだ。

 これこそが大事な我が子。不動明王様からの大切な預かり子だ。


「一昨晩はなにやら大変であったそうだねえ」


「無事落着いたしました」


 匂欄こうらんの前までやって来た青年。その装いはたっつけ袴に腕には手甲をはめた身軽なものだ。しかし物騒にも腰に一振り差している。武家の者でもなければ名のある町人の子でもないその身が帯刀を許されているということは、そのまま青年の身の尊さを示していた。


「しかし困ったものだねえ。間が悪いと申すか。せっかく現れたその子にも会えるのはまだどうにも先であろうなあ。お前さんはなにか言葉を交わしたかい」


「いえ。直ぐにもこちらのお役目に戻りましたので」


「それは残念。その子、名を透夜と申すらしいねえ。するとお前さんとはまるで兄弟のようではないかい。や、と、や、と。ほほ。歳はお前さんが二つ上のようだねえ。仲良くしておやり」


「私はその者の兄者あにじゃではございません」


「むこうはそのように慕うであろうよ。素直で優しい子だそうだ」


 青年が押し黙る。天海は薄い唇を嬉しそうに震わせた。


「血は水よりも濃いと申すが、水がなければ命は生まれず、血もまた巡る定めを知りはすまい。それにだよ。一昨晩はわざわざお前さんが向かわずとも事は足りたはず」


 これは意地の悪いこと、とは思いながらもついつい口が出てしまう。


「只今は大樹たいじゅご一行の露払つゆばらいに専念してくれればよいと。そう申したはずであったがねえ」


 またしても青年が押し黙る。その沈黙こそが天海には愛おしくて仕方がない。


「私や姫様のお告げを聞き、お前さんにも予感があったのではないかい。そしてそれは見事的中した。いよいよその晩、五色が揃うたわけだ。いやあ、めでたい。めでたいねえ」


 そう言って天海はふぉっふぉっと梟よろしく鳴く。


「朱門から届いた式によりお前さんもすでに心得ておろうが。その子は今、ただただ不安であろう。突如来世より現世へと誘われたのだ。心の拠り所が欲しくて然り。お前さんも忙しい身であろうが、その子の心にどうか寄り添ってやっておくれ」


「ですが……、ですが私はっ」


 戸惑ったような声に「うん?」と、とぼけたような声で誘う。赤い瞳が遠慮がちに天海を見た。


「私は、その……。兄弟とはいかなるものか。それを心得ておりません。みなと同じように接すればよいというわけではないのでございましょう? しかし具体的になにをどうすればよいのか見当もつかずに、その」


「持て余すと」


 天海は思いがけない収穫に笑みをこぼす他はない。


「ふぉっふぉっ。風はただ吹くことを躊躇ためろうてしまうか。そうかい、そうかい」


和尚かしょう、私は真面目に」


「おおそうだったねえ。これはすまない。ただね、白夜びゃくや。お前さんはちとその真面目が過ぎるのだよ。もっと心とは軽くもあってよいものだ」


「軽く、でございますか」


結跏趺坐けっかふざし、くうすれば自ずと知れよう」


「空に帰す……無の境地に至れ、と」


「さすがによく分かっておるねえ」


「私の兵法の師が常々おっしゃっておられます。剣禅一如けんぜんいちにょ。剣も禅も達すべき境地は同じ。空であり無であると」


「いかにも。しかしその境地に達すること、これがなかなかどうして難しい」


「はい」


「我らも到達することの叶わぬその高みを、その子はその身をもって証明する者であろうか。ほほ。早く会いたいものだねえ」


「空の守人、黒須透夜……」


「なんにせよだ。互いをもっとよく知ることさねえ。とは申せ、そうした時間をことごとく奪ってしまったはこの坊主。お前さんもさぞかし私を恨んでいることであろう」


「滅相もないことでございます。このお役目に私を選んで下さったこと、感謝しております。お蔭様でこうして私はを得ることが出来たのですから」

 

 白夜が刀の柄に手を添えると力強く笑んだ。


「……そうだったねえ。お前さんには守るべき者がたくさんおる。どうかその力、存分にふるってやっておくれ。この坊主のためにものう」


「心得ております」

 

 そうして。また風が吹いた。先ほどよりも強いそれに木々はいっそうざわめいた。


「はて」


「いかがなさいましたか」


 天海が訝しげな声を漏らせば、すかさず白夜が訊ねてくる。


「いやあ、まったく困ったものだあ。こちらはこう身動きが取れんというに」


 天海はそう一人ごちて天を仰ぐことを止めた。


「ふむ。どうやら、ちと忙しくなるかねえ」

 

 白夜に微笑みかければ、彼の赤い瞳が今度は不思議そうに天を仰いだ。

 空は相変わらずただの黒一色に覆われている。その中で星々が懸命に光を放っている。溺れまいともがくように、叫ぶように、瞬いている。

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