第7話 就職
7-1 1週間後
芳江が大連に来てから、1週間ほどが経った。その日の午前、芳江がいつものようにホテルの自室にいると、自室の扉を叩く音がした。
扉を開くと、いつものフロントのスタッフと共に、見知らぬ若い男性が来ていた。彼は自分を地元の中国人だと言い、アナスタシアの会社の使いの者で、
「張」
と名乗った。
張は日本語で言った。
「倉本芳江様でいらっしゃいますね。先日、弊社のアナスタシアができれば、倉本
様に仕事を紹介したいと言っていましたが、何とか、働き口が見つかったようなの
で、お連れするように、とのことでした。ホテルの正面玄関に車を停めてありま
す」
「有難い」
芳江は思った。上手くすれば、早速、新たな生活が始められるだろう。
芳江は張に続き、1階に降りると、正面玄関前の自動車の後部座席に乗り込んだ。運転するのは張である。
芳江は、車窓から大連の街を眺めていた。
1週間ほど経って、芳江は大連の街にも慣れて来たらしい。仕事があれば、自身で自立し、「歯車」に振り回されて来た人生とお別れできるだろう。
「アナスタシアが紹介してくれる仕事はどんな仕事なのだろう」
芳江としては、零戦製造工場や女中としての失敗経験もあるので、細かい作業のなるべくない仕事ならば良いのだけど、と内心で思った。
芳江を乗せた自動車は30分程、走った後、市内のある洋館の前に停まった。張の案内で、洋館の3階に上がった。
3階で、張の案内で、廊下からある部屋に入った。その部屋は、別の部屋の正面玄関であり、もう1つの扉があった。
張が扉をノックすると、中から日本語で
「どうぞ」
という声が返ってきた。芳江が到着したことを悟ったのであろうアナスタシアの声であった。
改めて、張は
「どうぞ」
と言って、扉を開き、芳江を部屋の中に入れた。
「!?」
芳江は一瞬、息が詰まる程、驚き、天地がひっくり返るような感情となった。
正面奥に、壁を背後にデスクに座っているのは、確かにアナスタシアであった。しかし、ソ連赤軍の軍服を着ていた。背後の壁にはレーニンとスターリンの肖像画が掲げてある。アナスタシアは、長いブロンドの髪を後頭部で丸くまとめ、髪飾りで縛る形で髪形を変えていた。
「いらっしゃい、よく来たわね」
そう言うと、アナスタシアは立ち上がって、張に促し、張を一旦、室外に出した。
芳江は事情が呑み込めない。何を言って良いのか分からないものの、何かがおかしいことだけは気付いた。
芳江は辛うじて、一言、発した。
「これって・・・・・」
アナスタシアは言った。
「さて、何でしょう」
芳江は気を取り直して言った。
「貴女、白系ロシア人なんでしょう」
「勿論、違うわ。私はKGB将校のアナスタシア=カトウコフ中佐。ソ連のエージ
ェントよ」
芳江は瞬間的に悟った。黒龍丸の中で友人ができたと思っていたのは、騙されたことだったのである。日本という目に見えぬ歯車から、ソ連という歯車へ、自身の人生を自身で委ねてしまったのである。
動転している芳江にアナスタシアは言った。
「黒龍丸での約束通り、貴女に仕事を紹介するわ」
芳江は言った。
「仕事って、何の仕事?」
7-2 受領
アナスタシアは芳江に告げた。
「今日から貴女は、駐蒙ソ連赤軍第12〇師団4×連隊配属で、階級は中尉」
思いもよらない
「紹介」
である。否、「紹介」というより、配属命令による
「任官」
であった。
アナスタシアは、先程から立ったままで、半ば動転している感じの芳江に、デスク正面の椅子に座るように促した。芳江は力が抜けたような感じで椅子に座った。
デスクを挟んで向かい合う状態になった芳江に
「黒龍丸での船室の時と同じ形になったわね」
と前置きして言った。
「貴女、あの時、死体遺棄に加担したって、言っていたわよね。犯罪に加担した以
上、もう、日本には帰れないわよね」
確かにその通りであった。そして、芳江自身が、「離日宣言」として藤倉妙子の手紙に書いたように、祖国を捨てるつもりなのである。故に、
「私は、これから、どこかへ流れて行きます。さようなら」
と書いたのである。
アナスタシアが微笑しつつ、言った。
「任官を拒否するのは自由よ。しかし、そうならば、外にいる張に指示して、貴女
を現地の警察に突き出す。きっと、警察はソ連のエージェントと接触した貴女を厳
しく取り調べるために拷問だって厭わないでしょう。駐蒙ソ連赤軍全体の情報等
は、貴女に与えていないから、警察は貴女から多くの情報は得られないでしょうか
ら、貴女を抹消しても問題ないと判断して、貴女をそのまま殺すかもしれない」
アナスタシアの声は静かなものであった。しかし、最早、芳江は日本に戻ることができない、という事実によって、圧倒的な重みを持っていた。
アナスタシアは改めて、芳江に問うた。
「どうするの?赤軍中尉に任官するの?しないの?」
最早、日本に戻れない芳江にとっては、任官以外の道はなかった。
芳江は嘆息しつつ、言った。
「いいわ、赤軍中尉に任官します」
「賢明な選択ね。では、貴女に任務を命じます」
芳江がなすべき任務とは、満蒙国境の前線に築かれた満州国の満州里市近くにて築かれた外郭要塞の攪乱であった。この外郭要塞は、ハイラルに築かれたハイラル要塞の外郭陣地であり、満蒙国境にて、駐蒙ソ連赤軍を睨み、満州国軍、或いは関東軍にとっての赤軍との戦いの最前線として、満州国側が築いた要塞なのだという。
満蒙国境地帯はなだらかな地平線の続く平原地帯である。ナチ軍を壊滅に追いやったT34型戦車等を有するソ連赤軍が一挙に侵攻しようとすれば、赤軍側にとってはうってつけの地形である。そうした事情もあり、満州国側としては自国の防衛を強化せんとしているのであった。
又、要塞は勿論、移動はできないものの、外郭要塞を築くことで、ソ連、蒙古人民共和国に対してのみならず、満州国の一隅にして最前線の街である満州里市の住民にも、その存在を見せつけることによって、満州国、ひいてはそれを建国した大日本帝国は、自分の勢力圏を具体的に主張しようとしているのであった。
しかし、ソ連側にとっては、例えば、この要塞で反乱が発生し、ソ連側に援助を求める、といった事態が発生したら、どうであろうか。このような事態になれば、ソ連側には
「援助を求められた」
という名目での対満侵攻の口実ができ、満州里にて、親ソ政権を樹立する等の口実になり得る。よって、外郭要塞内部にて、内部を攪乱し得る人材が必要なのであった。
アナスタシアは、内部の攪乱について、具体的に説明した。
「この外郭要塞の責任者が、満州国軍中校に任官したハシダシセイ。この男を殺し
なさい」
「ハシダ?」
芳江は何処かで聞いたよう名前であることを思い出した。それを察したかのようにアナスタシアが言った。
「貴女が文殊旅館に行った時に、奥座敷にいたハシダ、あの男のことよ」
芳江は驚いた。すでに、あの時点から芳江は、アナスタシアをはじめ、ソ連側に監視されていたらしい。どのように監視されていたかは、素人の芳江には分からないものの、やはり、目に見えない歯車の下にいたことは確からしかった。
アナスタシアは更に続けた。
「貴女の下には、キムという朝鮮人青年がつく。赤軍での階級は准尉。満州国軍の
一員ではあるけれども、我々のエージェントよ。何かあれば、キムは貴女を助ける
けれど、同時に貴女への目付け役よ」
アナスタシアによれば、駐蒙ソ連赤軍の対満侵攻は9月下旬から、10月初旬であり、それに合わせて、要塞の責任者たる橋田至誠を殺し、侵攻作戦を円滑にする必要がある、とのことであった。
7-3 質疑
橋田を殺せ、という任務は分かった。しかし、突然、中尉に任官した芳江に、職業軍人としての経歴を積んできた橋田を簡単に殺害できるとは思われなかった。
芳江は赤軍中尉に任官した以上、この任務を遂行せねばならないことは言うまでもなかった。しかし、成功の自信がないことも言うまでもなかった。
芳江は、とにかく、任地に向かわねばならない。しかし、赴任前に、なぜ、そんな重要な任務が自身に与えられたのかを確認しておきたかった。
「なぜ、私に、そんな任務をあたえたの?」
「貴女、女でしょ。だからよ」
芳江には理解できない。芳江の表情から察したのか、アナスタシアは続けた。
「男のエージェントよりも女性のほうが都合がいいのよ。典型的に男尊女卑的な日本の将校というべき橋田の感覚であれば、まさか、女が自分に逆らうとは思えないだろうから、要塞の中心たる橋田に取り入り易いのよ。橋田をどのように始末するかは、キムが助言する予定。彼は数日後にホテル〇〇にあなたを迎えに行くから、その時に教わりなさい」
そう言って、アナスタシアは、部屋の外で待機していた張を呼び、芳江をホテル〇〇に送るように言い、その際、部屋を出ようとしていた芳江に
「期待しているわよ、同志中尉」
と言って、見送った。
往路と同じ道を、張の運転する車でホテル〇〇に戻った芳江であった。外の風景は往路とは違って見えた。どこに、自分を監視するエージェントがいるか分からない。今、自動車を運転している張もまた、何らかのエージェントなのだろう。
ホテル〇〇に戻った芳江は思った。
今ならまだ、日本関係の建物に入れば、先程、アナスタシアの言ったことを暴露し得るかもしれない。しかし、恐らくは、日本でのことを根掘り葉掘り聞かれて、再び、日本という歯車の下へ連れ戻されるだろう。それは絶対に嫌な芳江にとっては、最早、日本という国家は自身にとって頼り得る存在にならないのは全く明らかなことだった。
そして、ホテル〇〇に芳江が泊らされたのも、芳江を監視下に置くためであったのであろう。そうであれば、ホテル〇〇から脱出できるものでもあるまい
芳江は自由を求めて渡満したにもかかわらず、改めて、目に見えぬ歯車の下に置かれている自分を再確認し、恐怖した。
ホテル〇〇は半ば、キムが迎えに来るまでの座敷牢なのであった。
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