7
どれぐらい、朋香はそこに座り込んでいたんだろう。気がついたのは、有二の「ああびっくりした」という大きな声だった。
「そんなところで、電気もつけないで、座り込んでいたら、びっくりるするじゃないか」
有二は、稽古場の明かりをパッとつけた。急に明るくなって、朋香は目をしばたたかせた。
「朋香まで、変になっちゃったんじゃないだろうな?」
有二は、まじまじと朋香の目をのぞき込んだ。
「あ、だいじょうぶよ」
朋香はぶるぶると頭を振った。
「そうか、よかったよ。お前まで変になったら、もうどうしようかと思っちゃったよ」
「おばあちゃん、いないよ」
「そうらしいなぁ。台所を見たよ。何日も帰ってないみたいだね」
「うん」
「なにやってんだ。おふくろは……。心配させるにもほどがある……」
「有ちゃん、何かあった?」
朋香は、有二が今までないぐらい怒っているように感じた。
「いや……」
有二はくちびるをかんだ。
「何かあったのなら、私にも教えて欲しい。分からないのは、もう、嫌」
朋香は、有二の方に手をあげた。その手を有二はしっかりと握った。
「実はね……」
うんうんと朋香はうなずいた。
「ぼくの教え子にね、能楽師の子供がいるんだ。彼がね、名前は立花佑慶っていうんだけどね、変なことをいうんだ」
「変なこと?」
「そう。ぼくは、ばあさんのあの白紙の謡本のことを話してみたんだ。そしたらね、それは昔から謎として伝わっていますよ。ぼくの流派には謎の『白本』があるってね。それは、秘伝だというんだ。なぜ何も書かれていない本が今まで伝わってきているのか、誰も分からないっていうんだ。ぼくは、今まで、古典文学を研究してきたけれど、そんな話は聞いたことがないんだ。佑慶ともよく話をするけど、そんなことを聞いたのは始めてだ。と、その時は、思った」
「何、それ?」
「だから、よくわからん。その時は、そんな馬鹿な話は聞いた事が無いと思っていたのに、その夜から、そういわれれば、そんな話をどこかで聞いたような気もすると、だんだん思うようになってきた。そういえばそういう謎本があったなぁって」
「そんな話だったら、どうしてあの時教えてくれなかったの」
「だから、忘れてたようなんだ」
有二は、怒ったように口をぐっとむすんだ。
「それでな、調べてみたんだ」
有二は、何かをいっしょにはき出すように大きな息をふーっとはき出した。
「そんなこと、おこるわけ無いんだ……。常識があれば、信じることができないよ。俺だって大人なんだし…」
有二はしきりにくちびるをなめた。
「話して……」
朋香がいうと、有二は朋香の手を放し、後ろを向いてやっと話しをしだした。
「能楽にはいろんな流派があるんだ。室町時代の観阿弥、世阿弥という人から始まっているんだ。詳しくいうとややこしいから省くけど、いくら流派が別れていても、だいたい演目は同じなんだ」
有二が振り返った。
「おばあちゃんと佑慶の流派は同じなんだけれど、そこの『白本』と呼ばれる演目は何か? 他の流派にあって佑慶の流派にはない演目がそれにあたるんじゃないかと、考えたんだ。でも、そんな簡単な事をなぜ今までだれも調べず謎だと伝わっているのか、それがわからない」
有二はそこで黙ってしまった。いっていいのかどうか、また考えているようだった。
朋香は、じっと待っていた。
有二は、また一つ大きな息をはいた。
「ネットで調べると、簡単に答えが出た。うちのばあさんが持ってるぐらいだから、『白本』は素人にも分かるぐらいの演目だと推理して調べていったんだ。何本か違う演目があった。ばあさんの持っている本と照合していった」
有二は、たんたんと話した。
「それで?」
朋香は聞いた。
「え?」
有二は一瞬、何を言おうとしているのか分からないというように朋香を見つめた。
「ああ、それはね、他の流派では『黒塚』という……」
「黒塚?」
「そう……」
「どんな、お話?」
「鬼女……」
「鬼女って、鬼……?」
朋香は、目をパチパチさせた。
「安達ヶ原の鬼女の話さ」
「安達ヶ原の鬼ばばあって聞いたことがある。そうだ、私、小さいころ、絵本で読んだわ。それ、人を食べる鬼ばばあの話だわ」
朋香は、小さい時読んだ絵本の絵を思い出していた。
髪を振り乱して人間を追いかけている鬼ばばあの姿を。
身体がブルッと震えた。おばあちゃんの金色の目と鬼ばばあの目が、ぴたりとあった。あの日のあの影、おばあちゃんの側にいたあの黒い影は、謡本から抜け出た鬼で……。そのままおばあちゃんは鬼に……。
「そうなんだ。鬼女の話なんだ」
有二の声が朋香の想像を消した。
「白本を開けると鬼がでてくるの? 本からでてきて、おばあちゃんを食べちゃったってこと?」
朋香は、ゴクリとのどをならした。
「そこは、どうかわからない」
「でも、おばあちゃんは、謡の中の人が実際に目の前に現れたことがあるっていってたよ。桜の花も見たことがあるって」
「うーん、それは……、その話は、少し置いておこう。一緒にすると、頭が混乱しそうだから」
「おばあちゃんは、鬼に食べられてしまったんだ!」
「待ってくれ。そう話しを急がないでくれ。違うんだ。何か違うんだ。そう、能の中の鬼女は、伝説とは少しちがうんだ……」
「どこがちがうの?」
「伝説では、人間だったものが、鬼になるというところが面白く語られているんだが、能の中では、その後の話がメインになっているんだ。作者がその後を表現したかったんだろうね。そこが、作者がいる作品と伝説のちがいなんだろうね」
「わかんない……」
「うん……」
有二は眉を寄せ、どう説明すればいいのわからないというふうだった。
「伝説でも、能でも、鬼ばばぁは、鬼ばばぁでしょう? 人を食べるんでしょう? 通りすがりの人をだまして、食べるんじゃないの? 私の部屋をのぞいてはいけません、といったのにのぞいたから追いかけて食べちゃうんでしょ?」
「ああ、そうだね……」
「やっぱり、鬼は、鬼だわ」
「でもね、能をつくった作者は、鬼になった人間、鬼女はどんな気持ちなんだろうと考えたみたいだよ」
「鬼だから、もう、人間の気持ちはないと思う。人間を見ても、おいしそうとしか思わないんじゃないの?」
「でも、もとは、人間なんだ。ふっと寂しくなったりするんだ。いや、それ故によけいに寂しいとか……」
「そんなことない。そんな気持ちがあったら、そもそも鬼なんかにならないよ。おばあちゃんの部屋にいたのは、人間を食べる鬼のような気がする。おばあちゃんは、食べられちゃったのかもしれない。そして、鬼がおばあちゃんになりすまして、夜にうろうろしているのよ。私がおばあちゃんの後を付けていった時に塀を跳び越えたのだって、それだったら分かるわ。あっ、となりの内田さんのねこちゃんも、ひょっとしたら……。あっ、麻美もこのごろねこがいなくなったっていう話をよく聞くっていってた……。人間を食べることができないから、みんな、鬼ばばぁが食べてる……」
朋香は、それ以上口にできなくて、両手で口をおおった。
「待ちなさい。現実に考えれば、そんなことがあるわけないだろう。もう少し、冷静になろうじゃないか。白本を開けると鬼が出てくるんだったら、白本は封印されてるはずだ。それが謎ということでしか伝わっていない。こういうことを考えていると、何か、何かに思考を操られている感じがするんだ。筋道の通った考えができない」
有二は、指でこめかみを押さえて目を閉じてしまった。
突然、玄関から声がした。
「誰かいるの?」
おばあちゃんの声だった。
「誰?」
いつものおばちゃんの声よりも、しわがれている。
朋香たちは、立ったままそこを動けなかった。
「あら、有二。朋香ちゃんまで。どうしたの?」
サングラスをしたままのおばあちゃんが、音もなく朋香達の後ろに立っていた。
「どうしたのじゃ、ないよ。電話しても出ないし、来てみれば、テーブルの上は汚れた物でいっぱいじゃないか。それに、こんなに遅くまで、どこにいたんだよ」
振り向いて有二がどなった。気持ちを落ち着けようとして大きな声を出しているのが、朋香にはわかった。
「あら、私だってお友だちがいるのよ。ちょっと旅行でも、ってさそわれれば、行くじゃない。今回は、急だったから、誰にもいわないで出かけちゃったけど……。そんなに怒らなくってもいいじゃない」
ふふふ、とおばあちゃんは笑った。
「これからは、家を空ける時は必ずぼくにいってから出かけてください」
有二は、ぴしゃりといった。
「はいはい。それで、二人ともご飯は食べたの?」
「まだだよ。まだに決まってるじゃないか。どんなに心配したと思ってるんだ」
有二の声は、今までに聞いたことのないような恐い声だった。
「恐い声だね。朋香ちゃんが恐がってるじゃないの。ねぇ、朋香ちゃんも食べていくわよね」
おばあちゃんが朋香に向かってうれしそうにいった。
「いや、朋香は家に帰ってから食べるんだ」
有二がいった。
「で、でも……」
朋香は、いいよどんだ。
「おかあさんが用意してるから、家で食べなさい」
有二がどなった。
「はい」
朋香は、つぶやくようにいった。
はいとしか答えられないぐらい、有二の言い方は恐かった。でも、朋香は、このまま家に帰ってしまって良いのかどうか迷ってぐずぐずしていた。
「早く、帰りなさい!」
有二が、また恐い顔をして朋香をにらみつけて、ドンと背中を押した。
「あらまぁ、厳しいことをいうのね。有ちゃんらしくないわね。どうしちゃったのかしらねぇ」
おばあちゃんはぷいと後ろを向いて、台所の方に歩き出した。
「じゃあね、朋香ちゃん、またいらっしゃいね。今度は、有ちゃんのいない時にね。おいしものをいっぱいつくってあげるね」
振り向いたおばあちゃんは、意味ありげに片ほほで笑った。
朋香は、有二とおばあちゃんのことが心配で何度も後ろを振り返りながら、自転車を押して帰り道をとぼとぼ歩いた。足は家の方に向いていたが、どうしても気持ちがおばあちゃんの家の方に向いている。あれから、有ちゃんはおばあちゃんにどんな話しをしているのだろう、おばあちゃんは、有ちゃんに何を話すのだろう……。
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