安達ヶ原

麻々子

1

 湯船につかりながら、朋香はふっとおばあちゃんの家に行きたいなぁと思う。


 今日、学校の帰りに友だちから、塾が終わったら、ドーナツ店に寄り道するという約束をさせられた。

「ドーナツなんか食べたくないよ」

といったら、つきあいが悪いとにらまれた。

 学校でもいっしょなんだから、たまには一人で行動したいと、この仲間四人は思わないのかしら。まあ、塾までいっしょのところに行こうと思った私が悪いんだけど……、と朋香は思う。


 ドーナツ屋さんでは、テストの話と、オシャレアイテムの話と、クラスの男の子のうわさ話とちょびっと女の子の悪口。いつもいっしょの話だなぁと思って、ボーッとしてたら「ほら、白い天使が飛んでるよ」と麻美が朋香の腕をつついた。


 白い天使とは、心が空想の世界へ飛んでいってるということらしい。

「ほんと、朋香は何を考えているんだか、よくわからないね」

 三人が笑う。


 別に、朋香は空想の世界をさまよってるわけではないと思っていた。みんなの話がつまんないだけ。こんなことをいったら、即、みんなからブーイングをうけるから、黙っているけれど……。



 家に帰ると、弟の翔太が朋香の部屋を走り回っていた。翔太はまだ幼稚園児のくせに朋香となにかと張り合ってみせる。

「何してるのよ。ひとの部屋に勝手に入って。こら、走るな!」

 朋香は大声を出した。

「自分だけ部屋をもらって、悪い」

と翔太が朋香をにらみ、壁に張ったアイドルのカレンダーを引きはがした。引きはがした勢いで、肝心の朋香が好きだといっている男の子の頭の部分が破れた。

 ああ、せっかく麻美がくれたものなのに……、と朋香は思った。


 朋香は来年中学受験である。物置状態だった部屋を片付け、明け渡してもらった。翔太が部屋を欲しいというころには、きっとおとうさんの部屋が無くなるんだろうなぁと朋香はなんとなく思っている。

 そんなことを翔太にいってもわかってもらえそうにないので、「うるさい!」といって、部屋からおしだした。

「おねえちゃんのバカ」

「バカでけっこう」

 大声で叫ぶ。


 夕食が終わって、テレビをボーッと見ていたら、

「勉強しないんなら、早くお風呂に入ってよ」とおかあさんからどなられた。

 さっきから、お風呂に入れ入れっていわれていたから、どなられるのは覚悟してたけど、もう、ほんとうるさいんだから……。

 おとうさんは、それを聞いてさっさとテレビのチャンネルを変えた。

「まだ、見てるじゃない!」

 朋香がいうと、

「風呂に入るんだろ? 早く入ってきなさい」

 おとうさんは、当たり前のような顔をしてサイドテーブルの上にあったお茶をすすった。


 朋香は、顔を湯船につけて沈んでみた。辺りが静かになり、ほっとする。ああ、一人になりたい。一人っきりになりたい。うるさい人たちから自由になりたいと呪文のように頭の中でつぶやいてみる。

 もう我慢できない。バザッ

 湯船から顔を出し、息をおもいっきり吸い込む。

 絶対、明日、おばあちゃん家に行こう。



 おばあちゃんは一人暮らしをしている。好きなものは、能楽である。友だちと能楽鑑賞に出かける時は、きりっと着物を着て、颯爽と出かける。その姿は、朋香が見ても、カッコイイと思う。能が好きだから、自分の家の一部を板張りの稽古場にしていた。


 この稽古場が静かだった。朋香が一人になりたい時は、ここに来る。稽古場は周りの音が全く聞こえてこないので、本当に静かだった。生活に必要なものが一つもない。小さな飾り棚が一つと文机が一つ、大きな姿見が一つ。ひざを抱えて座っていると、周りの世界が消えてゆくような感じがした。


 朋香はからっきし能のことはわからない。時々テレビでおばあちゃんが見ているものを横から見ることがあるが、まず、言葉が分からない。舞台の上で着物を着た人が立ったり座ったりしているが、何をやっているかも分からない。きれいな着物を着て、面を付けている人は、きっとドラマを演じているのだろう。それぐらいのことはわかるけれど、後ろに黒い着物を着た人たちがならんで座っているのには、分からないを通り越して変な感じまでしてくる。


 朋香のおかあさんはおばあちゃんの娘だから、子供のころから能には免疫があるらしい。

「どこが面白いのかな」と聞くと、「好きな物というのは、そんなものなのよ」と笑っていた。

 朋香はなぜそんなに能が好きなのかと、おばあちゃんにも聞いてみたことがある。その時のおばあちゃんの答えが、朋香には面白かった。



――能楽堂でね、不思議な体験をしたのよ。こういう経験は、なかなかできるものじゃないと思うわ。

――へぇ、どんなこと?

――それがね、ほんとに不思議なのよ。

――……

――主役を演じる人をシテというんだけどね。

――シテ……?

――ええ、そう、シテっていうの。

――変な名前。

――そうね、でもお能の決まりでそういうのよ。なぜだか私も知らないけど……。

――うん、わかった。それで?

――そのシテが舞い進むにしたがってね、本当の女の人に見えてきたの。だいたいお能は女の役も男の人が演じるんだけど、面を付けて女の人になるの。

――『おもて』?

――そうよ。面と書くんだけど、おもてと読むの。

――へぇ、そうなんだ。

――女の人の面を付けた男の人がね、舞進むにしたがってそれはそれはきれいな女の人に見えたのよ。それだけじゃなく、後ろの松の絵も後ろで謡っている人も、消えてしまってねぇ……。その演目は桜の花の中を女の人が舞うという演目だったんだけど、本当に舞台がすっかり消えてしまい、満開の桜が咲いていた。私には見えたのよ。きれいだった……。それはそれは不思議な経験だったわ……。

――それって、ファンタジーじゃん! カッコイイ。

――ああそうね。今まで考えなかったけど、洋風にいうとそうなるのかしらね。

――どうしてそういうことになったの?

――さあ、演じる人がすごかったんじゃないかしら……。シテと融合していたんじゃないかな?

――融合?

――そう、一つに解け合ってたんじゃないかな? 不思議だったわ。



 おばあちゃんの顔は、話しを混ぜっ返すことができないぐらいにうっとりしていた。

 その時はなんとなく、おばちゃんが能楽好きなのが分かったような気がした。朋香もファンタジー映画にどっぷりはまって、抜け出すことができないことがある。それと同じかなと思ってみた。

 それに、あの稽古場の静けさは、別の世界に入っていってもおかしくはないと思わせた。もしかしたら、おばあちゃんは、あの部屋でファンタジーの世界と現実の世界を自由に行き来しているのかもしれない。そうだとすると、朋香は一人暮らしのおばあちゃんがとてもうらやましかった。



 おばあちゃん家に一泊して、朋香は身体も心もリフレッシュできたと思った。やはり一人でお稽古場に座っているのは気持ちが落ち着いた。お稽古場にいる時は、おばあちゃんも決して朋香に声をかけることはなかった。


「また来てもいい」

「いつでもいらっしゃい」

 おばあちゃんは、笑顔で答えてくれた。


 朋香は家に帰るため自転車で走っていた。

「あっ」

 朋香は急ブレーキをかけて止まった。

「ああ、昨夜仕上げた宿題のプリントを忘れちゃった」

 朋香は、急いでおばあちゃんの家に引き返した。



 朋香がおばあちゃんの家の玄関の戸を「忘れ物しちゃった」といって開けた。いつもなら「どうしたの」と顔を出すおばあちゃんの姿がなかった。鍵をかけ忘れて出かけちゃったのかなと耳をすますと、おばあちゃんの稽古場から謡の声が聞こえてきた。じゃまをしてはいけないと、朋香は静かに廊下を歩いて行った。

 朋香は、声がするお稽古場のふすまの前で立ち止まった。


「この声は……」

 おばあちゃんの声が、いつもの声のようには聞こえなかった。

 声は若々しいのになぜか、泣いているようにも聞こえた。だれなんだろう、こんな声で謡う人は……。そう思いながら朋香は、稽古場の前でたたずんでいた。

 朋香は、この声を出しているのはどんな人か見たいと思った。きっと、おばあちゃんも、あいさつをするぐらいは許してくれるだろう。


 朋香は、そっとふすまを開けた。

「あっ」

 その時、おばあちゃんの前にいたのは人ではなかった。黒い影だった。

「だれ?」

 朋香が、声を出したと同時に影がすっと消えた。そして、おばあちゃんが突然くたくたと倒れた。

「おばあちゃん!」

 朋香はおばあちゃんに飛びついた。おばあちゃんの肩を抱くと、おばあちゃんはふっと顔を上げ、そして、すぐに伏せた。

「だいじょうぶ?」

「何が?」

 おばあちゃんは、顔を伏せたまま聞いた。

「だって、倒れちゃったじゃない」

「ああ、このごろよくなるのよ。でも、だいじょうぶ。少し休んだらすぐによくなるわ」

「あれは、なんだったの?」

「あれって?」

「黒い影」

「そんなもの知らないわ」

 おばあちゃんは床に手をついて、ゆっくりからだを起こした。


 その時、横顔のおばあちゃんの目が金色に光ったような気がした。朋香が、おかしいと思っておばあちゃんの顔をのぞき込むようにすると、おばあちゃんは、さっと目を伏せた。


「おばあちゃん、目……」

 朋香はもう一度、おばあちゃんの目をのぞき込もうとした。

「あ、目が痛いの。朋香ちゃん、そこの机の引き出しにある眼鏡を取って」

 おばあちゃんは目をきつく閉じて、部屋の隅にある文机を指さした。

 朋香はおばあちゃんから手を離し、机の引き出しを開けた。引き出しの中には、いくつかの眼鏡ケースがあった。

「どれがいいの?」

「サングラスを取って。一番色の濃いのをね」

 朋香は引き出しの中から、サングラスを取り出した。

「これでいいの?」

 朋香は、おばあちゃんにサングラスを渡そうとした。けれど、おばあちゃんは朋香に背を向けるようにして、こちらを見ないで受け取った。


「年を取るとね、太陽がまぶしいのよ。病気じゃないから心配しないでね。ほら、こうして光をさえぎると、もう、だいじょうぶなのよ」

 おばあちゃんはサングラスをかけて、朋香の方に向き直り、にっこりと笑った。


 でも、朋香は笑えなかった。太陽がまぶしいといっても、ここには光が入っていない。それに、あのおばあちゃんの目は何だったのか。あの影は何だったのか。朋香は、あの黒い影をさがすように、部屋の中をぐるりと見回した。そこには何もなかった。


 おばあちゃんのお稽古の謡本が、見台の上に開かれていた。何も書かれていない真っ白の本だった。


 朋香がそれを不思議な気持ちで見ていると、おばあちゃんは、見てはいけませんというように、静かにその謡本を閉じてしまった。

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