第21話



 はっと光弘が目を開いたとき、娘を焼くおぞましい火の輝きはどこにもなく、寝室の暗い天井があるばかりだった。手は、耐えがたい熱を感じているはずだと思ったが、それもなかった。

 代わりに全身が小刻みに震えており、凍えたように奥歯がかちかち耳障りな音を立てている。遅れて、どっと恐怖の汗がにじみ出した。額を拭った手の平がびっしょり濡れるほどだ。

 こんな恐ろしい夢は生まれて初めてだ。

 虚脱感に襲われて目を閉じたが、そのまま寝入るのが怖くてまた目を開いてしまった。

 のろのろと身を起こし、隣の美世子を起こさないよう気をつけながら寝室を出た。

 キッチンに行って灯りを点け、シンクの辺りを凝視した。

 咲恵が使う踏み台が壁際に置かれている。むろん、何かが焼けた痕跡はない。咲恵が頭をシンクに突っ込んでいる様が思い出されたが、恐怖はだいぶ薄れていた。

 棚からコップを取り、水栓を開いて水を汲んで飲んだ。思った以上に喉が渇いており、あっという間に飲み干していた。体に潤いが戻るとともに、安堵の念に襲われ、ほーっと深い息をついた。まったく、とんでもない夢だ。

 それにしても、どこまでが現実だったのか? コップを置き、ダイニングの灯りを点け、椅子に置いたままの鞄を開いて書類をめくった。

 美世子が引いてくれたアンダーラインがあった。最後に見た、何枚もの古い覚書のコピーがあった。その書類を鞄にしまい、バスルーム横の洗面所で顔を洗って歯を磨いてから寝室に入ったことが思い出された。夢はその記憶の途中に差し込まれたもので、現実ではないと断言できた。咲恵が起き出して水をがぶ飲みしたこともなければ、インターホンの音がまたもや鳴り出したこともない。

 そう。全ては、ただの夢だ。

 鞄を閉じて椅子に戻し、また安堵の息をついた。夢であっても、あんな光景は二度とごめんだ。もし現実にあんなことがあったら、とても立ち直れないだろう。自分という人間が木っ端微塵に壊れてしまうに違いない。

 それこそ一杯やりたい気分だが、そうはしなかった。時計を見れば四時を回っているし、そもそも部屋のどこにもアルコール飲料は置いていない。

 光弘は代わりにキッチンに戻って水をもう一杯飲んだ。水を汲んだコップを手に咲恵の部屋に行き、そっとドアを開けて様子を見た。咲恵は手足を大きく広げ、毛布を跳ね飛ばして寝ていた。念のためその小さな額に触れたが、高熱を発している感じはしなかった。

 光弘はコップをベッド脇の勉強机の上に置いてやり、音を立てずに部屋を出た。そのまま寝室に戻ろうとしたが、もう一つコップを取って水を汲んだ。それを手に寝室に入り、ベッドサイドの小さな棚の上に置いて横たわった。

 美世子がかすかな吐息をこぼし、一方の手をこちらの肩の辺りへ伸ばしてきた。光弘はその手を軽く握り返し、目を閉じた。ひどく疲れた気分だった。

 すぐに眠りは訪れた。

 今度はもう夢は見なかった。

 七時に時計のアラームが鳴り、目覚めたときには、光弘の夢の記憶はおぼろなものとなっていた。けまなこでベッドサイドのコップを見つめ、自分がこの水を汲んだんだっけ? と自問するほどだった。

 コップを持ってバスルーム横の洗面所に行き、明け方に汲んだ生ぬるい水で口をすすいだ。そうか、喉が渇きそうだと思って汲んでおいたんだ。そう思ったが、どうでもよかった。手早くひげを剃ったところで、美世子が起き出してきたので場所を譲り、キッチンに行ってコップを置いた。

 そこへ咲恵が同じコップを手に現れて言った。

「ねえ、パパ。起きたらお水があったの」

「ああ……、パパが置いたんだ」

「なんで?」

「喉が渇くかなと思って」

「美味しくない。咲恵ちゃんも、ママが飲むお水がいい」

「はいはい、ちょっと待ってね」

 光弘はコップを受け取り、中身をシンクに捨て、冷蔵庫からペットボトルを出して冷たいミネラルウォーターを注いでやった。咲恵が嬉しげにコップを受け取り、「つめたーい」と喜んで、ちびちび飲みながらダイニングへ行った。

 寝室で身繕いをして出てきたときには、美世子が朝食の用意に取りかかってくれていた。光弘もネクタイを肩にかけて分担しながら、家族で朝食を摂れるほど余裕のある朝に感謝した。ひとえに通勤時間の短縮のたまものだ。やはりこのマンションを購入してよかった。この先、二十年でも三十年でも、ここで踏ん張ろう。

 朝食ののち、学校の黄色い帽子をかぶり、ランドセルを背負った咲恵とともに、美世子に見送られて部屋を出てエレベーターに乗った。

 エレベーターを降りてエントランスに入るや、咲恵が唐突に訊いてきた。

「ねえ、昨日、お客さん来た?」

 夢だったのかどうか問うような調子だ。光弘はさして深く考えずにこう返した。

「機械の故障だよ。もう直ったから大丈夫」

「そっか。咲恵ちゃんね、そういう夢見たかと思っちゃった」

「何度もピンポン鳴って怖かったよね」

「ううん、大丈夫」

 咲恵が、にこっとした。その髪に火がつく光景がかすかに光弘の脳裏をよぎったが、無意識のうちにそれを押しやり、咲恵と一緒にエントランスから外に出た。

「いってらっしゃい、咲恵ちゃん。気をつけてね」

「はーい。パパ、いってらっしゃい」

 お互い笑顔で送り出し、光弘が駅に向かおうとすると、咲恵の声が追いかけてきた。

「見えないお客さんも、いってらっしゃい!」

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