第17話


第2章 たまい



「あっ。これって、工事費だけじゃなく、そのあとの維持管理費も入ってるのね」

 が言った。赤ペンを持ったまま印刷された数字を目で追い、かと思うと、さっと線を引いた。

 みつひろが覗き込もうとすると、美世子が書類をこちらへ向けてくれた。見ると契約期間が『二〇四五年六月末日』までであることを示す欄に、赤くアンダーラインが引かれている。

「本当だ。気づかなかった」

「私も。さいの工事に関係するものだけ、普通の発注書とだいぶ体裁が違うせいで、すぐには意味がわからなかったな」

「どう違うんだ?」

「ものすごく古いって感じ。こういう項目も旧字ばっかり、ほら」

 そう言って美世子がペン先で示す欄に、光弘も目を向けた。『當該』『支拂』『諸對應につき』といった具合に、わざわざ旧字で記されており、とつに違う読み方をしてしまいそうだ。

「へえ……。二〇四五年ってことは、三十年分も払ってるってことか? それってどれくらい一般的なんだ?」

「借地契約なら原則三十年だけど。でも地下鉄のトンネルみたいに、地下を使用する権利を買ってるってわけじゃないと思う」

「だとするとたま工務店の土地ってことになるのか」

「そうなら土地使用料って書かれてないとおかしいし。純粋に、維持管理のお金よ、これ。警備とか、街路樹の植栽費用みたいな。祭祀場っていうのが、どんな場所かわからないけど」

「土とコンクリしかない暗い地下室に、神棚だけぽつんと置いてあったよ」

 美世子が眉をひそめた。不気味な光景を連想したのだろう。

「本当にあるんだ、そんな場所」

「おれもびっくりした」

 何しろ、大きな四角い穴の底で、人が鎖でつながれていたんだから。そう頭の中で続けたが、口には出さなかった。ひとえに、美世子を気味悪がらせたくなかったからだ。

 今夜はが早めに寝てくれたおかげで、美世子と落ち着いて話す時間を持つことができていた。仕事の話をするつもりはなかったのだが、見ておいてほしい書類があると話すと、美世子のほうから今見たいと言い出したのだ。ずっと家事ばかりで、仕事に飢えてるの、と美世子は冗談めかして言ったが、それが紛れもない本心であることを光弘は知っていた。美世子はもうずっと、出産を機会に退職するのが当然だと考える両親に反発し続けていた。光弘とて、いつまで娘を働かせる気だ、そんなに稼ぎがないのか、などと義父母から責められたことも一度や二度ではない。光弘としても美世子が家事に専念してくれれば助かると思うものの、キャリアを積みたがる彼女の気持ちを無視したくはなかった。部署やグループにもよるが、少なくとも光弘と美世子が勤めるシマオカ本社は、女性の出世を毛嫌いする企業ではない。光弘にとって幸いなのは、政府が「女性の社会進出を」と訴えてくれていることだ。権威に弱い義父母などは、もう時代が違うのだと政治家も言っている、と話すと納得こそ示さないが黙ってはくれる。

 そういうわけで、美世子にとって良い刺激になるならと思い、書類を見せたのだ。穴の底に人がいたなどと話せば、怖がらせるだけだった。いや、怖がるあまり体調を悪くするかもしれない。今は落ち着いたが、つわりがひどかった時期の美世子は、まるで全世界から叩きのめされるかのようだった。吐き気や気分の悪さが常につきまとい、ちょっとした刺激、嫌な話題一つで、たちまち強烈な肉体的不快感や、負の感情に襲われる。光弘も美世子も、テレビを見る習慣がなくなって久しいが、これも一時期、美世子をさんざん打ちのめしたからだった。料理が登場すればたいてい吐き気を催し、痛ましい事故や事件のニュースを見れば愁訴に襲われる。咲恵が好んで見たがる番組の中でも、とりわけ『アンパンマン』など食べ物を擬人化したものは、正直きつい、と光弘にこっそり訴えていたものだった。

 今しがた口にした地下室と神棚についても、美世子の表情が「それ以上聞きたくない」と明白に告げていたので、光弘は意図して話を逸らした。

「地鎮祭のときに作った神棚らしい。それに一千万も払ってる」

 美世子がうなずき、ふわあ、とあくをこぼして言った。

「それも三十年分の一括支払ってことみたいね。工事もふくめて、年に……二百万くらいかしら。再開発の規模が規模だから、大した金額じゃない気もするけど。追加費用が発生する契約なのかみてみないと……」

 そこまで言って美世子は口元を手で覆い、また欠伸をした。

 眠気もつわりの一種で、とても耐えがたいと訴えるうちに寝入る彼女を光弘は何度も見たものだ。咲恵のときは吐き気より眠気がひどかったような気がする。といっても、時刻を考えれば、大変健康な反応ともいえた。

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