第11話
光弘は鞄を抱え、一つしかない出入り口へ向かった。脚立も移動させたまま、鍵もチェーンロックに差し込んだまま、ついでに言えば電気もつけっぱなしだが、委細知ったことではない。それに、ここの電気を消して暗闇の中を戻るなんて絶対に嫌だった。文句があるなら、ドアから入ってすぐのところにスイッチを設置しなかった間抜けに言ってくれ。
むかむかしながら無言で階段を上り、ときおり男がちゃんとついてきているか確かめた。そうするうち、怒りが恐怖を抑えてくれるものの、代わりに何かミスをするのではないかという不安に襲われた。うっかり画像を消してしまうとか、確認すべきポイントをすっかり失念してしまうといった不安だ。それで、今上っている、いわゆる「いってこい階段」の段数と折り返しの回数を数えることで気を落ち着けようとした。そして五回目の折り返しに差しかかったとき、いきなり背後で男が声を上げた。
「火だあ!」
光弘はぎょっとなって顔を上げた。目の前の粉塵が積もった階段ばかりを見ていたため、漂い出した煙とおかしな臭いに気づいていなかった。この干涸らびた空気のせいで、焦げ臭い異臭が加わったことさえ今までわからなかった。
火だって? 本当に? いったいどこで何が燃えるというんだ? 発電機さえ動いてないのに。
『火が出た』
火災が発生する可能性がある場所を確認するために反射的に鞄からタブレットを取り出そうとしかけたが、もちろんそんな場合ではなかった。問題は煙だった。煙が降りてきているということだった。今すぐ移動しなければならない。狭い階段で、有毒かもしれない煙を浴びせられながら、のんびりタブレットで図面を確認していいわけがなかった。
光弘は慌ててズボンのポケットからハンカチを引っ張り出し、それを自分の口元に当てた。だが背後の男がおろおろする様子を見て、ついハンカチを差し出してしまっていた。
「これで鼻と口を覆って」
男が、ぱっとハンカチを受け取った。そのあとで、それが妻と娘から父の日に贈られた品であることを思い出したが、ときすでに遅く、男はハンカチを口元に当ててしまっていた。
たまらなくむかつくものを感じたが、光弘は軍手をしたままの手で鼻と口を覆い、可能な限り息を詰めながら階段を上った。脚立をのぼっていたときと違って背後からの恐怖に襲われることはなかったが、それが頭上からの恐怖に変わったまでのことと言えた。どちらがまだしもましと言えるかは微妙な問題だ。脚立をのぼりながら穴に吞み込まれそうな気分になるのと、階段を上りながら火災に巻き込まれるのと。甲乙つけがたいものがあるが、はっきりしているのは、終わったほうは安全で、今まさに進行しているほうが危険だということだ。光弘は息をこらえながら階段を上り続けるという苦痛に耐えながら、そんなことを考えるおのれを心底愚かしく思った。恐怖を繰り返し味わったせいで、だんだん思考が支離滅裂になっているのかもしれなかった。
『息が苦しい』
気づけば軍手越しに親指の付け根のあたりに嚙みつき、鼻と口を覆うというより右手でおのれの顔全体をつかんでいた。指と指の間から覗き込むことで少しばかり目が安全になるはずという錯覚を信じ切っていた。ヘッドライトの灯りを反射させる煙と、粉塵が巻き上がる階段を交互に見て、とにかく転ばないことに注意を払った。膝と
もう限界だと思ったが必死に足を上へ上へと運び、しばらくしてまた限界だと思ったもののそれでも耐えに耐え、今度こそ本当に限界だと思って力尽きる予感に襲われたとき、階段からフロアへ飛び出していた。
『鎭』
壁に書かれた文字がヘッドライトの灯りに一瞬浮かび上がり、すぐに白煙のまっただ中に入り込んでしまった。慌てて振り返ったが、前後左右を煙に囲まれたせいで何も見えなかった。
男の無事を確かめたかったがままならず、右手で顔をつかみ、左手で鞄を抱えたまま、そばの壁にぶつかった。もたれるようにしながら肩で壁の位置を確かめつつ、頭の中の図面を頼りに上階へ続く階段を目指した。
頭ががんがんして、そろそろ気を失うか、頭の中の血管がどうにかなって命を失うのではないかと思った。ひどく手が痛んだが嚙むのをやめられず、軍手をしていたおかげで顔に爪を立てずに済んだことがゆいいつの不幸中の幸いだった。
ふいに前方から人影が現れたかと思うと、左腕をつかまれ、引っ張られた。
「こっちです! こっち!」
事務所にいた
雨の音がどこからか聞こえてくる。冷たく涼しい風が吹き込むのを感じ、これぞ正真正銘の安全地帯だという思いに包まれた。
暗く湿り気のある床に膝をつき、鞄を置いて這いつくばった。ぜえぜえ息を荒くするばかりで、助けてくれた礼を口にすることもできない。目も鼻も喉も痛いし、頭痛がひどく、胸を踏みつけられているような苦痛が治まらなかった。できれば今すぐ担架か車椅子に乗せてもらって、そのまま病院に連れて行ってほしいほどだ。
「水を持って来ます。ここにいて」
作業員が光弘の呼吸音に異常を感じ取ったらしく、ヘッドライトをオフにし、ゴーグルとマスクをずらしながら早足で事務所へ向かった。二分ほどで戻ってくると、水の入った未開封のペットボトルを差し出した。
光弘はそれを大急ぎで受け取り、開封してごくごく音を立てて飲んだ。息がしたくてたまらないが口を離す気にならず、ひりひりする鼻で思い切り息を吸っては水を飲むということを繰り返し、あっという間に一本分を飲み干してしまった。
ペットボトルを口から離すと、げえーっと大きなげっぷが出た。思わず口元を押さえたが、作業員は聞かぬふりをしてくれた。痛みを覚えて右の手の平を見ると、親指の付け根の辺りに血が滲んでいた。それからその手がまばゆく照らされていることに気づいて、震える手でヘッドライトをオフにした。
灯りを消しても暗闇に包まれない。ちくちく痛む目を
「警報が鳴ったんで、急いで来たんです。どこで火が出たかわかりますか?」
作業員が、光弘の呼吸が落ち着くのを待って尋ねた。
光弘は両膝をついたまま、わかりません、と痛めた喉を震わせて言った。
その作業員がさらに何か尋ねてくる前に、飾り気のない鉄板作りの階段を、若い方の作業員が上がってきた。ヘルメットに、ゴーグル、防塵マスクをつけ、消火器具を持っている。光弘には見えなかったが、年嵩の作業員と一緒に降りてきてくれていたのだ。
「消火する必要があったか?」
年嵩の方が訊くと、若い方がうなずいた。
「B2で、積んであった資材とビニールシートの一部が燃えてました」
年嵩の方がゴーグルの奥で目を剝き、絶句した。
光弘は今ひとつ事態が飲み込めなかったが、
「原因はわかりませんが、少なくとも火をつけた人間は見当たりませんでした」
若い方がマスクをずらしてそう続けたので、さあっと血の気が引くような思いを味わった。
「放火ですか……?」
思わずその言葉を口にした。作業員たちは、そうだとは言わなかった。だがその可能性は高いと態度で告げていた。その上、二人とも光弘を注意深く観察しているような感じだった。ややあって、まさにこの自分が疑われているということに気づき、光弘は慌てて言った。
「わ……、私は知りません。地下から出ようとしたら、階段で煙に囲まれたんです」
二人が何も言わないので、光弘はひりひりずきずきする鼻や喉の痛みを我慢してさらに言い募った。
「撮影していただけで、失火の原因になるようなことはしていません。配電盤や発電機にも触れてませんし。火を起こせる道具だって持ってませんよ。地下にいた人だって私と一緒にいましたし」
最後の言葉に、二人がぎょっとした様子で顔を見合わせた。
光弘も、自分が助かったことに安心するあまり、穴の底にいた男のことを口にするのを忘れていた。いや、若い方が何の問題もないという感じで上がってきたのだから、当然、男も救助されたと思い込んでしまったのだ。
「地下に、誰かがいたんですか?」
年嵩の方が信じがたいというように尋ねた。
「ええ……理由はわかりませんが、地下の
若い方が、年嵩の方へ、心配そうな顔を向けた。
「それって、一番下にあるっていう入れない部屋のことですかね?」
年嵩の方はその質問には答えず、体を階段の方へ向けながら、光弘へ言った。
「とにかく捜して来ますよ。放火か……まあ、まだわからんですし」
年嵩の方に促されて、若い方も一緒に階段を降りていった。
光弘は座れる場所を探して腰を下ろした。風とともに細かな水の粒子が降りかかってきたが構わなかった。むしろ心地よかった。そればかりか、自分を蝕みかけていた何かが身の内から退散してくれる気がした。
あの男から忘れずにハンカチを返してもらわないとな。そう思った。それから、さて、どういう順番で何を聴取すればいいだろうと思案した。誰かに閉じ込められたことは確実だ。その誰かの名前と所属をはっきりさせねば──
放火。
火をつけた人間が、まだこの現場のどこかに潜んでいるかもしれない。穴の底で男を鎖につないだことに関係しているのかわからないが、光弘が男を解放して一緒に上がってきたとたんに火が出たことは事実だ。まるで二人を地下に追い返そうとするように。
その人間がすぐそばにいる気がして、思わず立ち上がった。だがそこではたと、いや、本当に放火だろうかと考えた。
『ここでも火が出た』
調査の原因となったツイッターのつぶやきを思い出すや、こめかみがずきずき脈打ち始め、首筋がちりちりする感覚に襲われた。あの地下の穴底から何か有害な気体が漂い出していて、それが火を起こしているのでは?
科学的な根拠もなく、飛躍しすぎていて報告書にも書けないほどだが、あの異常に乾燥した空気の中にいた身としてはそう信じたくもなるではないか。そう頭の中で抗弁したが、やはりどうにも突飛すぎた。もし気体が出火の原因なら、あの穴がある地下室がまず火の海になるはずだ。
現実的には放火した人間がいると考えるべきで、そいつの目的がなんであれ、作業員として出入りしているに違いない。そして、穴の底につないだ男を解放した光弘に怒りを抱いているかもしれず、今にも襲ってくるかもしれなかった。
膨らむ一方の不安をなんとか抑えつけるうち、作業員たちが階段を上がってくるのが見えて、光弘は胸をなで下ろした。
「あの男性は──?」
二人とも黙ったまま光弘を見つめ返した。その様子から、光弘は新たな問題が生じたことを悟った。その問題を解決するため、再び地下に降りていく自分を想像して、いわれのない咎めを受けているようだと思った。おかげでせっかく治まってきた頭痛や胸の苦痛に加えて、腹の底をつねられるような、じわじわとした不快な感覚まで味わわねばならなくなった。
いったいどうしてか、あるいはどうやってかも不明のまま、地下の穴の底にいた男は、光弘の持ち物を一つばかり借りたまま、忽然と姿を消してしまったのだった。
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