第9話



「大丈夫ですか!?」

 みつひろは、穴の底にいる男に向かって叫んだ。

 ぼさぼさのゴマ塩頭の男が壁に背を預けたまま、投げ出した両脚のうち鎖につながれたほうを、びくりと引きつったように震わせ、膝をちょっと曲げてまた伸ばした。

 つながれた足首の違和感を無意識に追い払おうとしたような、眠っている人間がするような唐突な動作だった。そのせいで、、という鎖の音が返ってきて、光弘をたじろがせた。

 地下何階にあたるかも判然としない空間に反響するその音は、総身に鳥肌が立つほど不気味だった。今ではヘルメットのヘッドライトに加えて、四隅に点るオレンジ色の灯りが暗黒を押しやってくれているとはいえ、相も変わらず異常なほど乾燥した空気が肌をチリチリさせることには、不快と苛立ちのみならず、はっきりと恐怖を感じるようになっていた。

 とりわけ臭いがよくない。地下にありがちなかび臭さや、下水の悪臭とはまったく違う。猛火の名残のような臭い。光弘はなるべく、火を止めるのを忘れたオーブンとか、大量のゴミを焼いたばかりの焼却炉といったものを連想しようとしたが、どうしても別の光景が脳裏をよぎるのを止められなかった。

 棺の中に横たわる正装の父の微動だにせぬおもてに見て取れる、何かから解放されたというような弛緩した表情と、周囲に漂っていた火葬場独特の臭い。

 頭の中で、これから炉に入れられる父の姿が、火に焼かれて出てきたときの姿になるのが怖かった。

『人骨が出た穴なのに』

 今この地下でそんな記憶をよみがえらせるなんてナンセンスだ。これではいつまたパニックが忍び寄ってくるかわからないと思ったところへ、、と鎖がみたび音を立てた。

 やめて下さい、お願いですからその音を立てないで下さい、と思わず口にしたくなった。だが、もちろん相手とて望んでやっていることではないだろう。

 光弘は穴の縁から可能な限り首を伸ばし、男へまた声をかけた。

「聞こえますか? 何があったんですか?」

 だが男は眠っているのか、浴びせられる光を嫌がるように頭をねじり、顔をうつむけるだけだった。いったいなぜこの人物は地下の穴の底にいるのか? 真っ先に思いついた理由は、作業員同士のリンチの犠牲になったというものだ。

 ひと昔前はけっこうそういうことがあったと聞いている。荒っぽい連中が、ばくや金の貸し借りで揉めたり、仕事を回す回さないで争いになったり、あるいは単に弱い者を脅して言うことを聞かせるためにやるのだ。しかもただ暴力を振るうのではなく、文字通り吊し上げたり、炎天下でコンテナに閉じ込めるなど、思いつく限りのことをしでかしたらしい。

 いずれも労働者が余るほどいて、仕事の奪い合いが激しかった時代の話だ。極端な人手不足が顕著な現代にそんなとんでもない事件が起これば、優秀な働き手は速やかに現場を去ってしまう。

 いや、もしかして、あの男こそ、一連のつぶやきを発信した人物であるとか?

 急にそんな考えがわいた。現場をあしざまに記したつぶやきの発信者を、作業員たちが突き止め、独自に制裁を下した。辻褄が合うような気もする。穴の底にいる男が、とてもツイッターなどやりそうにない風体であることを除けば。

「あのう。聞こえませんか? 意識はありますか?」

 光弘は繰り返し呼びかけたが、二つのことが怖くなってやめた。一つは、いんいんと反響するおのれの声が、鎖の音についで不気味に感じられてしまったからだ。そしてもう一つは、身を乗り出して声を放つうちに、穴の縁が崩れて自分も一緒に穴に落ちてしまうのではと思い、ぞっとしたからだった。

 光弘は、握りっぱなしだったハンカチでまた口と鼻を覆い、いったん穴から離れた。ハンカチは手ににじんだ恐怖の汗で湿っていたが、どうせすぐに乾くだろうと思った。

 無意識に神棚のあるほうへ後ずさると、そこにもっと安全に、穴の底にいる相手へ呼びかけることができる手段があることを思い出させられた。いや、呼びかけるだけでなく、もっと近くで相手の状態を確認することができる手段を。

 テーブルの前に置かれた、大きな脚立。

 光弘はハンカチを顔から離すと──神棚のそばにいる限り口を覆う必要がないほど空気が潤っていることに疑問を抱かず──ズボンのポケットに入れた。

 抱えていたかばんにタブレットを入れてテーブルに置き、ジャケットのポケットに突っ込んでいた右手用の軍手を取り出した。それを手にはめながら脚立を見て考えた。これが穴の底まで届く可能性は高いはずだ。もしそうでないなら、いったいなんでわざわざこんなに大きな脚立を運んだのかわからない。この脚立が役に立たないなら他の手段を求めて地上に戻らねばならなくなる。ここに来るまでの階段の数を思い出すと、げんなりするというより怒りに震えそうになった。それが、恐怖と対をなすパニックによる怒りの発作であると薄々わかっていたが、ひりひりする空気に包まれるたび冷静に考えることがいよいよ難しくなってきていた。喉の渇きが忍耐を奪いにかかっていることは間違いない。無用に苛々させられる分、恐怖といった他の感情を押さえつける力が目減りしている。ゆっくりと冷たい水を飲むことさえできれば、ずいぶん落ち着くはずなのに。たとえまたすぐに渇きを覚えるとしても、飲んでいる最中は冷静でいられるはずだ。今度から現場に来るときは水の入ったペットボトルを二本持って来るべきだろう。いや、三本にすべきかもしれない。

 。またしても鎖の音でびくっと体をこわばらせたが、余計な思考を中断させてくれたのはありがたかった。ぐずぐずすればするほど状況が悪くなるのだ。目も喉も痛いし、心はもし何かのせいで四方の電気が消えたらと思うだけで絶叫したくなっている。

 だが、ぐずぐずしてしまう理由もわかっていた。この神棚から離れたくないのだ。テーブルにすがりついて、目の前から穴が消えてくれるよう祈りたかった。そんな思いが込み上げてくるほど、あの穴に降りていくことに本能的な恐怖を刺激されていた。

 もちろんその恐怖がいくら抗議の声となって光弘の中で膨らもうとも、ここで何もかも放置しては、上司のたけなかに猛烈に叱られることもわかっている。危機管理チームの一員として、このような事態に遭遇しながら、聴取一つせず、事実関係の確認もなく逃げるわけにはいかないのだ。もし逃げたら? チームから外されて、やり甲斐のある仕事を失うことになるだろう。父のようにはならないという思いから選んだ仕事を──

 また余計なことを考えているぞ。

 さあ、動け。さっさと片づけて本社に戻り、このちょっとした武勇伝を冗談交じりに報告してやれ。

 やっと脚立を持ち上げようと心に決めたとき、テーブルの上にあるものに視線を引き寄せられた。和紙とが敷かれた膳の一つに、鍵が置かれている。

 ここのドアの鍵だと考えていたが、そうではないのでは、という推察がふいにひらめいた。脚立とセットで置かれているものだとしたら、この鍵を持っていくべきではないだろうか。その考えはきわめて合理的に思えたし、自分が冷静さを取り戻せた証拠のような気がした。

 光弘は鍵を取ってジャケットの胸ポケットに入れた。

 それから、よし、と声を出しながら脚立を抱え上げ、穴の縁へ近づいていった。

 これを抱えたままであれば、穴に落ちても何とかなるという安心感があった。今度は神棚ではなく、脚立を抱きしめたくなるほど、その頼もしい品にすがりつきたくなっていた。

 脚立をA字形に開くことはせず、閉じたまま穴の縁に置いた。そのまま滑らせるようにして、ゆっくりと下ろしていった。うっかり下にいる男に激突させてしまわないよう気をつけながら、接地部が壁に近づくよう角度を調整していく。

 滑り止めがついた支柱の先が穴の底についたのが感触でわかった。天板が穴の縁のやや下にある恰好だった。十分だ。思った通り穴の底から今いる地面までのぼれる長さがあった。

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