第6話

 すぐ真後ろにあるはずだ。ヘッドライトの光をコンクリートの壁に当ててゆっくりと左右数メートルを照らした。何もない。さらに数メートル間隔を広げた。

 真っ平らな壁があるだけだ。方向感覚が狂っているのだろうか。穴へまっすぐ歩み寄ったつもりが弧を描いたのかもしれない。それで見当違いの壁を見ているのではないか。

 いや、待て。足跡だ。それを辿っていけばいい。

 慌てて地面を照らしたが、光が強すぎて足跡がよくわからない。一面、真っ白に光を反射しているせいだ。いや、新たに白いものが降り積もって足跡を消してしまったのではないか。高温で焼かれたあとの白い灰が。そんなおかしな考えがわいた。心臓がばくばく鳴っていた。

 光弘は、自分が恐慌に陥る一歩手前であることを悟った。

 落ち着け。出口は必ずある。必死に頭の中で繰り返し、うっかり穴に落ちないよう気をつけながら、時計回りに穴のそばを移動した。

 まるでスタンプラリーで迷った子どもだ。

 各駅にスタンプを用意して巡回させる、鉄道事業ではお決まりのイベントだ。そう考えて鳥肌が立った。

 もし、あの七つの「つぶやき」の画像の目的がそうなら?

 つまり、誰かをこの地下空間に呼び寄せるためにやったとしたら?

 まさか。そんなことをして何の意味があるというんだ。

 慌てて否定したあと、すぐに次の連想がわいた。トイレの落書きだった。

 目の前の壁に『右を見ろ』などと書いてある。そちらを見ると『上を見ろ』などと続く。

 そうして順々に見ていったあとで待っているのは、これもお決まりの言葉だ。

『馬鹿を見ろ』

 今の自分がそれだ。途方もなく馬鹿な目に遭っている。都会のまっただ中で真っ暗な地下に引き寄せられ、閉じ込められてしまった。

 下らない。落ち着け。出口が消えるなんてことがあるはずがない。

 もしひとりでにドアが閉まってしまったのだとしても、それがなくなるなんてことがあるものか。もし出られないとしても、すぐに異変を察して誰かが捜しに来るはずだ。

 

 いよいよパニックに支配されそうになったとき、名案がひらめいた。壁沿いに移動し続ければ出口を見つけることができる。まったく合理的な考えだ。

 光弘はヘッドライトに浮かび上がるコンクリートの壁に向かって前進し、タブレットを挟んだほうの肩を接触させた。ほとんど走っていって打ちつけたようなものだった。肩に重い衝撃を感じた。ヘルメットが壁にぶつかって跳ね返る音がした。

 動作が極端に慌ただしくなっている。おかげで壁に付着していた粉が、ヘッドライトの光の中で舞い上がった。

 臭気がいよいよ強まるのが感じられた。まったく唐突にMRIのことが連想された。人間ドックなどで脳を検査されるときに入れられる狭い空間のことが。その検査の最中、生まれて初めて閉所恐怖でパニックに陥りそうになった経験がよみがえった。

 なぜなら、まるで自分が棺の中に入れられたかのようだったからだ。

 死んだ父のように。

 棺に入れられた父の前で、誰かがこう言っていた。

「これが故人との最後のお別れとなります。お顔はもう見られません。どうかお近くで最後のお別れをして下さい」

 最後のお別れ。

 なぜ最後か。

 火葬場。

 

 壁に肩をこすりつけ、よろめくように歩を進めながら、光弘は突如としてわいて出た答えにがくぜんとなった。

 

 スーツで装われた父の遺体が棺に入れられて、かまどの中へ押し込まれていったあと、かすかに漂ってきた臭い。

 

『人骨が出た』

 動悸がものすごいことになっていた。自分の鼓動のほかは何も聞こえなかった。いや、そのせいで地下の静寂がかえって強まったようで痛いほど耳鳴りがした。

『いるだけで病気になる』

 このままでは脳の血管がどうにかなってしまいそうだ。せめて飲み物があれば少しは落ち着いたかもしれないのに。

『喉が痛い』

 いや、あればあるだけ飲んでしまうだろう。光弘はぞっとしながら思った。この渇きはそういうものだ。焼かれたあとの灰が、潤いをすっかり奪ってしまうのだ。

『息が苦しい』

 

 

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