慣れない生活①

 外観からずいぶんな広さであることは予想できたが、ポーチからエントランスに入ると想像以上の広さに言葉を失った。あまりにも広すぎる。高い天井ではシャンデリアが煌々と灯りを振り撒いて外壁とおなじ白さのエントランスホールを照らしている。電気がないのにどうやって明かりがついているのだろう? という疑問はとりあえず頭の隅に追いやった。考えたところできっと答えはでないだろう。ホールの右奥にはゆるやかに円を描きながら二階へと向かう階段が伸びていて、そのあたりからぱたぱたと微かな足音が聞こえた気がした。

「いや、広っ!」

 開いた口が塞がらないとはこういうことだろうか、調度品から内装まであまりにも現実離れしすぎていて、言葉が出ない。おおきな花瓶が乗ったアンティークな猫足チェストもやはり白く、抽斗ひきだしの金色だけがきらりと光を反射している。裕子も「すごいわね……」と呟いたきり何も言わず天井を仰いで目を細めた。俊一はある程度知っていたのだろうけれど、それでも落ち着かなげに周囲を見回している。そもそも中に入ったはいいものの、どこに行けばいいのかもよくわからない。それは俊一も同じようでまたイラッとする。しばし三人が立ち尽くしていると、どこからともなく美味しそうな香りが漂ってきて、おなかがグゥと鳴った。そういえば朝からずっと移動していて、高速のサービスエリアで昼ごはんを食べたきりだ。なおタピオカジュースは食事に含まれない。

「ようこそいらっしゃいました」

 は、と気がつくと目の前に一人のメイドが立っていた。膝下丈の黒いワンピースに白いエプロン、ボリュームのない袖もスカートも、実用性重視なのがよくわかる。キャラメル色の髪の毛をきっちりと結い上げたメイドは、表情を変えずに一礼した。

「お待ちしておりました。長時間のご移動、お疲れ様でした。お夕飯ができておりますので、お召し上がりください」

「ええと……あなたがブラウニー?」

 じろり、とメイドの灰色がかった目が値踏みするように紬を見た。その一瞬で、完全にバカにされたらしい。ついと目を逸らした彼女は、

「わたくしはメイドでございます。ご存知ないようなのでお伝えしますが、ブラウニーは姿を見せるものではございません。探そうなどと思われませんように」

 とだけ言って、背中を向けダイニングルームと思われるほうへと歩き出した。はぁ? なんなのその態度。眉を跳ね上げた紬を落ち着かせるように、裕子が背中をぽんと叩く。

「いちいち怒ってたら身が持たないわよ」

「そンっなこと言っても、あれなに? すっごいムカつくんだけど!」

「これからお世話になるメイドなんだから、うまくやりなさい」

「あんな奴が作ったご飯なんて食べたくなぁい!」

 出された料理はこれまで食べたことがないほど美味だった。

 

 夕食後、天蓋付きのベッドに寝転がりため息をついた。今日いちにちで、すっかり世界が変わってしまったみたいだ。朝起きて荷物をまとめたこと、森の中で開催されていた妖精たちのお祭り、タピオカミルクティーの甘さ。そういえばあのプラカップどうしたんだっけ、捨てた記憶がない。きっとフヌイユが持っていってしまったのだろう。ゴミ箱ってこの世界にあるのかな、そもそもゴミ、出るの? 次々と浮かんでくる疑問に答えは出ない。暮らしていくうちにわかってくるだろう。今はまだ、旅行にきたような感覚が抜けない。夏休みに家族と、三泊四日くらいの、ちょっとゆったりできる旅行みたいな。実際には人間界に戻る目処はたっていないし、いま眠っているおとぎ話のプリンセスが寝ているような天蓋付きベッドはホテルのものではなく紬のものだし、窓から差し込むLEDとは違うやわらかな光はよくわからないけれど電気じゃなく魔法とか炎とかそんな感じのもので生み出されているのだ。

 エミリアと名乗ったそのメイドは、百数十年前に妖精界の食べ物を口にした元・人間なのだと俊一は話した。人間界との決別を決め、妖精界で生きていくことにした人間。寿命がなくなりヒトではないけれど魔力や羽を持つ妖精とも違う、どちらでもない存在。

 人間界で生きていくことができない体にはなってしまったけれど、考え方や感情は人間のそれと変わりない——もっと長い時間を経ると妖精に近しくなってしまうかもしれないけれど——エミリアは、大使館の管理を任すにはうってつけの人材だった。見返りがないと仕事ができないうえに、気まぐれで気難しい妖精とは違う。そんなわけで大使館が創設されると同時に、彼女は働くようになったのだという。

「だから、僕たちより妖精のことに関しては詳しいからね。仲良くやるんだよ」

「無理じゃん?」

「身の回りの世話をしてもらうんだから……」

「ママひとりじゃ、ここの掃除に何日かかるか分からないのよ」

 言いたいことはわかるけれど、あの態度! しかもエミリアに割り当てられている部屋は紬の部屋とすぐ近くで、掃除がゆきとどいた絨毯が伸びる廊下を挟んですぐ向いにある。館内を動き回っているからあまり遭遇しないとは言われたけれど、それでも気が乗らない。夕飯の時もいやに愛想がなかったし。会ってしまったら挨拶くらいはしないといけない。

「あーあ……」

 いま、日本だと何時くらいなのだろう。こちらの時刻と向こうの時刻は合ってないと思えと言われている。学校の友人たちが既に懐かしい。

 ただ疲れ切っていた紬に、感傷に浸るほどの体力は残っていなかった。重い瞼を閉じると、あっというまに夢の国へ移住したのだった。

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