恋の景色と夏の記憶

リウクス

初デートの煌めき

 7月23日金曜日


 今日は幸せな日。

 なぜなら、明日は翔平しょうへいと花火を見に行く約束をしているからだ。


 花火は明日なのに、なぜ今日が幸せなのかと聞かれれば、その答えは明白。

 子どもの頃、誕生日やクリスマスの前日は誰だって心が躍ったものだと思う。


 約束された幸せを待つ時間ほど幸せなものはないのだ。


 私は小さくスキップをして、門を開けた。

 いつもは耳障りなその雑音も、始まりを告げる悦びに満ちていた。


 今日は何もかもが輝いて見える。

 全てが私を祝福しているような気がする。


 軽く目を瞑ると朝ごはんの匂いがした。

 白味噌の優しい香りが鼻腔を滑らかにくすぐる。


 穏やかな朝だ。


 私が笑みを浮かべると、そよ風が頬を撫でた。


 それを肌で吸い込むように味わって、大きく目を見開いた。


 視界が広がる感覚。

 目の前には夏色の空が続いている。


 少し歩くと、スズメのさえずりが耳に入った。

 今日はやはり良い天気らしい。


 学校への道程には長い信号待ちの時間がある。

 でも、私はその時間が好きだった。

 赤信号を見つめて立っていると、いつも、私を呼ぶ男の子の声が聞こえるから。


蒼井あおい!」


 私の心臓は高鳴った。


「おはよう、翔平」

「おう」

「良い天気だね」

「だな!」


 なんてことのない会話だけど、日々の平穏を分かち合えるこの瞬間は大切だと感じていた。


「いよいよ夏休みだな」

「そうだね」

「蒼井は宿題溜め込むタイプ?」

「割とすぐ終わらせるかな」

「真面目だなー」

「逆だよ。あとで遊びたいから早めにやるの」

「はは、それもそうだな」


 信号が青になって、私たちはせーので足を踏み出す。


「でも、今日と明日は何もしないかも」

「どうして?」

「明日は……翔平と遊ぶから」

「そ、そうだな」


 翔平は恥ずかしそうに目を逸らして、口を噤つぐんだ。


 少し悪戯っぽいその顔は、年頃の男の子にしては可愛らしかった。


「もう夏だね」

「だな」


 校舎沿いの歩道を歩いていると、フェンス越しに学校のプールが見えた。

 先月取り替えたばかりの水は透き通っていて、浅葱色の中でゆらめく波間は7月の輝きを受けて、強く白光していた。


「好きだなあ」

「え」

「夏」

「……ああ」


 そうして一分一秒を噛み締めているうちに、私たちは学校に着いた。


 私たちを自転車で追い越すクラスメイトたちが口々に「おはよう」と言って去っていく。


 心なしかみんな表情が明るい。


 校内の喧騒も、色めいているような気がする。


 かくいう私もやっぱり浮かれていて、夏休み前の学校は、こういう空気だったと思い出した。


「じゃあ、また放課後な」

「うん、またね」


 私たちは挨拶を交わして、各々の教室へ向かう。


 振り返ると、友達と笑う翔平の横顔が見えた。


 ――今日はきっと良い一日になる。


 そんな予感がした。



 翌日、早まる鼓動を抑えながらベッドに横たえていると、屋根を叩く雨音に気がついた。


「雨」


 不安になって窓の外を覗くと、暗雲が立ち込めているというわけではなかった。


 夕立のようだ。

 実際、数十分で止んだ。


 しばらくすると、楽しげな表情を浮かべた姉が私の部屋に来て、


「虹、見えるよ」


 と言った。


 言われた通り、向かいの部屋から東の空を臨むと、オレンジ色を纏った空を背に、綺麗なアーチを描く七色の光が宙をかけていた。


「わあ」


 その半円に、思わず手を伸ばした。


「綺麗でしょ」

「うん」

「……今日は花火大会だっけ」

「うん」

「楽しんできなよ」

「うん」


 目を輝かせて身を乗り出す私の隣で、姉は微笑んだ。


「なに」

「ううん。なんでも」


 それから時計に目をやると、約束の時間が迫っていた。


 胸の内が熱くなるのと同時に、指先が震えた。


そらちゃん、忘れ物ない?」

「うん」


 母が玄関で私に呼びかける。


「頑張んなさいよ」

「なにが」

「なんでも」


 どうやら浮き足立っているのは私だけではないらしい。


 そんな家族に背中を押されながら、私は水溜りを飛び越えて、彼の元へと駆けていく。


 ――もうすぐだ。


 ひぐらしのが慎ましく響き渡る。



「や」


 私たちは少々ぎこちなく合流した。


「雨、止んだね」

「ああ」

「よかった」

「な」


 改まって意識すると、照れ臭さを隠しきれない。


「……じゃあ、行こうか!」

「うん」


 歩幅は僅かにずれていて、緊張が露呈していた。


 だから、足元を見て、ゆっくり、呼吸を落ち着かせた。


「……そういやさ」

「うん」

「髪」

「ん?」

「おろしてるなって」

「ああうん、今日は校則とかないし、いいかなって」

「意外と長いな」

「うん、割と伸ばしてる」

「へー」


 変化を指摘されたことが嬉しくて、私は毛先を束にして指先で擦った。


「良いと思う、それ」

「え?」

「おろしてるのも似合う……てこと」


 明後日の方を向いて、翔平はそう言った。

 耳の縁がほんのり赤い。


「恥ずかしいなら言わなきゃいいのに」

「んな、せっかく褒めてやったのに」

「ふふ」

「なんだよ」


 私もまた、内心は顔から火が出そうなほどに当惑していた。


 でも、張り詰めていた気持ちは、ほんの少し柔らかくなって、緊張はとけた。


 そうして弾性を帯びた私たちの会話が、水風船のように跳ねかえる。

 小刻みに、控えめに弾んで、それでも動的に流れるものがある。


 さりげないけれど、楽しいという言葉を定義するならば、今のことを指すのかもしれない。


「屋台、たくさん並んでるな」

「うん」

「何か食べるか?」

「うん、お腹減っちゃった」

「だよな」


 あたりを見回すと、私たちはすっかり橙色のあかりに包まれていた。


 そこかしこから魅力的な香気が漂ってきて、食欲を掻き立てられる。


 道ゆく人々の手には焼きそば、たこ焼き、りんご飴、じゃがバター。

 古き良き祭りの食文化が花めいていた。


 私たちは二人分の焼きそばと、自販機で買った麦茶を携えて、空いているベンチを探した。


 なかなか見つからないね、と彷徨っていると大学生くらいのカップルがこちらを見て、何かを察したのか席を譲ってくれた。

 去り際の表情は「ごゆっくり」とでも言いたげだった。


 今頃「初々しかったね」とでも言われているのだろうか。

 そう考えると少し恥ずかしくなって、汗をかいた。


「どうした?」

「いや、なんでも」


 とりあえず今は目の前で湯気を立てている焼きそばを頬張ることにする。


「にしても不思議だよな」

「何が?」

「祭りで食べるとこれが世界一美味いって気がしてくる」

「確かに」


 翔平と一緒にいるからかな、とは言わなかった。


「花火までどれくらい?」

「45分ちょいだよ」

「じゃあ、直前は混むだろうし、これ食べたら場所取りに行くか」

「そうだね」


 それから食事と雑談に区切りがつくと、私たちは立ち上がって、河川敷の方へと足を運んだ。


 仰向くと藍色の夜空が、煌々とした星々が、優しく地上を見守っていた。


 天地の色彩は対照的で、朧げな輪郭が世界を二分している。


 ――この空は明日も変わらないけれど、この景色は今日だけのもの。


 きっとそれが思い出になるのだと、少し先の未来へ思いを馳せた。



 会場はすでに人で溢れていた。


「立ち見かな」

「だね」

「疲れてない?」

「うん、大丈夫」


 翔平はいつも私のことを気にかけてくれる。

 そこに義務感はなくて、ただ純粋な誠意が私を充足する。


 でも、その先を求めてしまう自分がいることも確かで、桃色の感情はとっくに私の心を独占していた。


 そんな気持ちを抱いて遠くの星を眺めていると、翔平が口を開いた。


「俺が花火誘ったときさ……どう思った?」

「え?」

「いや……その、夏休み最初が俺でよかったのかなぁなんて……」

「うーん、別に。嬉しかったよ?」

「本当に?」

「うん」

「なら、よかった」


 正直嬉しいの一言では形容しきれないほどに幸せだった。


 でも、それを口に出すのはなんだかずるい気がしていた。


「晴れてよかったな」

「うん」


 屋台の香りが印象的で忘れていたけど、思えば今日はずっと雨の日の匂いがする。

 夕立で湿った草木がまだ乾いていないからだろうか。


「もし晴れてなかったら、俺……」

「……何?」

「……あ、いや。なんでも、ない」


 そう言葉を詰まらせる翔平は、なんだかきまりが悪そうにしていた。


 微かに震える唇は何かを訴えている。


 私はそれを自分にとって都合の良いように解釈して、小さな拳を握りしめた。


「もうすぐだね」

「ああ」

「なんか、寂しいなぁ」

「まだ始まってもいないのに」

「でも始まったら終わっちゃうでしょ」


 私がそう言うと、翔平は目を丸くしていた。


「……今日が終わっても、夏休みは終わらないだろ」

「それって」

「……また一緒に遊ぼうか、てこと」

「……!」


 翔平の視線は真っ直ぐ私を貫いていた。


「うん!」


 それから私は大きく頷いた。


 そして、尾を引いて空を昇る曲導が笛を鳴らし、全員の関心が一点に集中した。


 思わず息を呑む。


 それは一瞬闇に消え――



 ――大輪を咲かせた。



 次々と咲き揃うそれに見惚れて、私たちは呼吸を忘れた。


 濡れたアスファルト、滴り落ちる雫、人々の瞳に、千輪菊が色彩を与えて、世界を輝かせる。


 きっと、あの空に咲く全てに心が宿っているのだと、そう感じた。


「好き」


 口を衝いて出た言葉は、花火の音にかき消される。

 それでも私は、紡ぐ。

 きっと彼には聞こえないけれど。


 だけど――


「……そら、綺麗だな」


 それに応えてくれたような気がして、涙が滲んだ。


 霞んだ視界の先に見えるその顔は、花火の光を反射して少し赤く見えた。


 隣り合った肩が触れるたび、胸の奥がじんわりと暖かくなる。



 それから長い時間が流れた。


 人混みはまばらになって、辺りはすっかり元の様相に戻っている。


 まるで夢でも見ていたかのような感覚だ。


「……じゃあ、かえろっか」

「うん」


 こうして、待ちに待った今日は終わりを告げた。


 目を閉じれば、これまで見た全ての景色が蘇る。


 私はそれを心にしまって、翔平の一歩前に踏み出すと、振り返って微笑んだ。


「ありがとね」


 それを聞いた翔平が口を綻ばせて言う。


「こちらこそ」


 これからきっと、もっと思い出を作っていくんだと、そんな気がする。



 ――そしてその日、私たちは初めて手を繋いで帰り道を歩いた。

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恋の景色と夏の記憶 リウクス @PoteRiukusu

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