第69話 バールストン・ギャンビット 上



 解毒薬げどくやくがクリフの体内にまれるのをラトは落ち着かない様子で見守っていた。


くすりの効果が出るまでどれくらい?」

「俺から言えるのはそれまで生きていろということだけだ」


 ラトはクリフのぐったりとしたからだひざうえいていた。

 普段のクリフなら抵抗ていこうしただろうが、その気力はまるでないようだ。

 ひたいには大粒おおつぶあせが浮かび、吐息といきあらい。

 だが呼びかけには反応があり、意識もしっかりとしている。

 ドラバイト卿はクリフの首筋くびすじうでれ、あらためてみゃくを取った。

 そして、その皮膚ひふの下に何か恐ろしいもの、それも奇跡と呼ばれるものがめられているのをたりにしたかのように大袈裟おおげさにのけぞってみせた。


「生きているぞ。脈が戻っている。いったいこれはどういうことなんだ、ラト!」

「どういうことも何もありません。クリフ君は生きている。目の前にいる。それが事実です。それ以上でも以下でもありません」

「しかし、結審けっしんした時点で彼の脈は完全に停止していた。ロー・カンの毒薬を五杯も飲んで生きていられるわけがない。なにか仕掛しかけがあるはずだ。まさか、毒に耐性たいせいがあったということか?」


 毒にかぎらず、薬というものは使い方をまちがえると効果がうすくなるものだ。

 そうした性質を逆に利用して、定期的に少量ずつ毒を摂取せっしゅすれば、苦痛くつうと引き換えにいくらかの耐性をつけておくことも不可能ではないといわれている。

 しかしドラバイト卿は提示ていじした可能性をみずから否定ひていした。


「いいや、ちがう! 我々は当然のことながら、そういう可能性は最初から考慮こうりょしていた。私やロー・カン、そしてペリドット卿は、王国にふたたびイエルクのようなやからが現れたとき、その脅威きょうい対抗たいこうし得る人材として探偵騎士団にあつめられたのだ。イエルクのやりそうな悪事はあらかじめ想定済そうていずみだ!」


 それは誰かにかせるというより自分自身に言い聞かせているようだった。

 声に出すことが彼の思考方法なのだろう。


「先にあやまっておくが、すまない」と、思考しこう没頭ぼっとうしているドラバイト卿に向けて、ロー・カンが謝った。


「なぜだ、どうしてきみが謝ることがある?」


 そのとき、法廷の出入口に立つ者がいた。

 そこにはアルタモント卿が立っていた。


「私にもぜひ謎解なぞときを聞かせてくれたまえ。まだうならね」


 彼はおだやかな微笑ほほえみを浮かべていた。


 タウンハウスに出現した盗人ぬすっとが彼の手先てさきであることはもはや明白めいはくである。

 その盗人はテーブルの向こうでひっくり返っており、死刑判決しけいはんけつくだったはずのクリフ・アンダリュサイトは生き返って、ドラバイト卿がガンバテーザ要塞で起きた事件の新しい物的証拠ぶってきしょうこを手にしているというのに、まるで何ひとつ計画はくるっていないとでも言うかのようだ。


「私も知りたいのだ。ラト、君がどうやってクリフ君をすくったのかについてを。古今東西ここんとうざいどれだけすぐれた理論家りろんかであっても、死者をよみがえらせることはできなかった。しかし君はやった。げたのだ。いったいどうやって?」


 アルタモント卿にはまるでラトとクリフの姿しか見えていないようすだった。

 だが、その眼前がんぜんにドラバイト卿が立ちはだかる。

 ドラバイト卿のまなざしはするどく、対面たいめんする二人の間ではしならないやり取りがなされているかのようだった。


「その前に説明が必要なのではないか? アルタモント卿。我々がこの探偵裁判にくわわったのは、誰かがガンバテーザ要塞でった英霊えいれいたちの無念むねんらす必要があると思ったからだ。貴殿きでんから提示ていじされた証拠品と事実とをらしわせ、クリフ・アンダリュサイトが犯人として間違いないと確信を得たからこそ協力したのだ。しかし、もしも貴殿がクリフの無実を知りつつ、意図的に証拠をかくしていたのだとしたら、それは重大じゅうだい背信行為はいしんこういだと言わざるを得ないぞ」

「……何か勘違かんちがいをしているようだな、ドラバイト卿。私も貴殿と同じく、クリフ・アンダリュサイトが犯人であると確信したからこそ探偵裁判の開催を許可したのだ。そのような証拠があったということは初耳はつみみだ」

「言いわけなどどうでもいい。あの侵入者しんにゅうしゃについて説明せよと言っているのだ!」


 ドラバイト卿はテーブルの後ろでびている影をしめす。


「ああ、そういえばそうだった。すっかりわすてていたが、あいつは侵入者なんかではないよ」


 アルタモント卿はようやく気がついた、というふうにテーブルの後ろに歩いていく。そして、先ほどラトの金の鳥が直撃したであろうあたりをステッキの先で軽く小突こづいた。


きなさい、

「うっ」


 うめき声をあげ、影が飛び起きる。


 飛び起きた拍子ひょうしにフードが後ろにねて、その下からあざやかな赤い長髪がこぼれ出した。

 その姿は先ほどまでの魔物まものじみた姿ではなく、黒い衣服を着こみ、フードをかぶった人間の姿である。

 年頃としごろは大人とも子供ともいえない。

 白く抜けるようなはだはまるで人形のようなそれだ。


 居並いならぶ探偵騎士たちを気まずそうに見回みまわしたひとみは、さらにあざやかな紅玉こうぎょくの色あいだった。


 顔立ちは清廉せいれんでまたとなく美しいのに、不思議ふしぎと男女のべつははっきりとしなかった。


無事ぶじかね、ノーヴェ」

「無事なワケがない。スゴクいたい。たぶん、あばられてるよコレ………もうちょっとててもイイ?」

「いいわけないだろう。君は私にことわりもなくペリドット卿のタウンハウスにぬすみにはいったそうだな」

「はぁ、まあ……それはそうだけど……。もう、いいよ何でも……」

「立って挨拶あいさつをなさい」


 ノーヴェはアルタモント卿のことをまるで無視むしし、胸にステッキをくと再びゆかにごろりと横になった。


 ノーヴェが所持しょじしている杖はほかの騎士たちと同じレガリアつきだった。そのレガリアは深紅しんくに輝き、柄に小さな緑の脇石わきいしがついている。


 アルタモント卿は、深いため息を吐いた。


「ふてくされている本人に代わって紹介しょうかいしよう。この子は我々のあたらしい仲間、新たな探偵騎士だ。名前はノーヴェ。《怪盗探偵かいとうたんてい》ノーヴェだ」


 怪盗かいとう

 その言葉の響きは軽快かつ軽妙けいみょうで、それでいて正体不明だった。


「かいとう……ってなんだ?」と、クリフがいきえにたずねる。

「僕も知らない」と、ラトが答えた。


 なんなんだ、とドラバイト卿もつぶやいていた。

 医者で探偵騎士で暴力担当のドラバイト卿が言うのだから相当そうとうのものだろう。

 さらに、ついでと言わんばかりにアルタモント卿は、とんでもない一言をつけした。


「ちなみに、ラトとはの関係にある」


 その一言だけで、場はこんとんとした空気におちいった。

 全員がひとしく厄介やっかいごとの気配けはいを感じ取っていた。

 クリフも死にかけていることをわすれて、おもたくてうごかしにくい人指ひとさゆびを持ち上げた。

 それをラトにきつけて言う。


「お前……い、いたのか……?」

「いや、知らない。僕が知る限り僕はひとりっ子だった」

「いくらなんでも知らなさすぎるだろう」

「そんなこと言われても……まだ赤ん坊の僕をパパ卿のところに連れてったのはアルタモント卿だし。いったいどういうことなんです? アルタモント卿」


 クリフは毒のせいでまだ幻覚げんかく悪夢あくむを見ているんじゃないかと思ったが、どうもそうでもないらしい。

 ラトはめずらしく感情の置き場に困っているらしく、眉間みけんふかしわせている。


「だれも知らなくて当然とうぜんだ。ノーヴェは私がオブシディアン家で養育よういくし、その存在は秘密にしていた。この件はジェイネルにもはなしていない、私だけの秘密だ。そして今回、探偵裁判をクリフ君とラトに仕掛けたのは、ラトの言う通り私ではない。全ての発案者はつあんしゃはこのノーヴェだ。私は彼のもとめにおうじて過去の事件を精査せいさし、場所と機会を与えたにぎない」

「なんということだ、アルタモント卿。責任逃せきにんのがれにしては安手やすてぎるぞ。暗殺者に責任をなすりつけるとはな。しかもあんな年端としはもいかない者に」


 混乱した探偵騎士たちが、再び床でころがっているノーヴェに視線をもどす。

 しかし、そこにはノーヴェの姿は無かった。

 黒いマントが丸められて置かれているだけだ。


「――おあつまりのみなさま、おはつにおにかかります」


 ノーヴェの声がまるで意図いとしないところから聞こえてくる。

 あわてて振り返ると、逆光ぎゃっこうのなかに真っ白なはだしの足と赤い髪、そして猫のようにかがやく瞳が浮かび上がっている。


 ノーヴェはだった。


 その足は完全に重力にさからい、床ではなく天井をんでいる。

 探偵騎士たちがそろいも揃ってノーヴェの姿を見失みうしない、元いた場所でていると誤認ごにんしたのは、ゆかの上で丸められたマントに靴までもがえられていたからだった。


「ボクは皆様方みなさまがたゆめからまれたです。探偵たちの夜見るゆめの、ひつじれにまじった色違いの羊。めくるめく赤い夜そのもの、それがワタシ。怪盗ノーヴェ、ゆえあって探偵として推参すいさんいたします」


 ノーヴェは手にした杖をくるりとまわし、それを小脇こわきはさんでこうべれる。

 あまりにも優雅ゆうがな逆さまのあいさつだった。


 よく目をらせば、天井にうように細いワイヤーが張ってあるのがみえた。

 爪先つまさきをずらすと、足首に取り付けたフックが見える。


 ただそれだけのトリックではあるが、重力にさからって見えるのは、まるで天井に立っているようにあたまの先からつま先まで、そして衣服のはしにいたるまでに気をくばり、完璧に重心じゅうしん制御コントロールしているからだ。


以後いご見知みしりおきを。本来なら、探偵どもの謎解なぞときなどという無粋ぶすいなものの始まる前に立ち去るのが怪盗の礼節マナーというものですが、アルタモントにめんじてボクも同席いたしましょう。なにしろ、彼が言う通り、この夜を始めたのはワタシです。ワタシがこの探偵裁判の真の主催者なのですから」


 ノーヴェは無表情に杖の柄をもてあそんでいた。

 彼の杖はひとりでに彼の手を離れ、まるで意志を持つ生物のようにノーヴェの周囲を飛び回った。

 そして体のまわりを一周すると、その両手のあいだでぴたりと止まる。

 ノーヴェの指の間には透明なテグスが張られている。

 杖はそのテグスに引っ張られ、浮いているようにみえたのだ。


「……挑戦状はアルタモント卿の名前で送られてきたはずだよ」

「ワタシの名前で送っても、キミたちは王都くんだりまで出向いて来たりしないでしょう? だからボクはアルタモントと手を組むことにしたんです。そういう意味で、彼とは共犯関係にありました」


 ラトがアルタモント卿をにらみつけると、アルタモント卿は平然として答える。


「探偵裁判の開催と二人に血のつながりがあることはなんら関係がない。ノーヴェは探偵騎士のひとりとして、探偵裁判を開催する正当せいとうな理由でもって私を説得し、私もまたその必要があると感じたからこそこうした機会を持った。ノーヴェは証拠の隠蔽いんぺいおこなったかもしれないが、しかしそのことがあったとしても開催に際して用意されたはまだきている」

「その理由とやらを先にお話になってはくださらないのですね」

「まずはだ。ラト、なぜクリフ君がいまだに生きているのか、その説明をしてくれたまえよ」


 アルタモント卿はにこやかである。

 クリフは、出会ったときからアルタモント卿がクリフに向けていた笑顔の意味がわかりつつあった。

 アルタモント卿のは、ジェイネル・ペリドットが若輩じゃくはいに向けるそれとは根本的に違う。


「いいでしょう」とラトは応じた。「まず、前提として、僕はこの探偵裁判においていろいろなものの板挟いたばさみになっていました。ご存知ぞんじの通り、パパ卿は探偵騎士団の手に落ちて、クリフ君の命は五杯の毒薬の前に風前ふうぜん灯火ともしびです。そして、姿の見えない暗殺者が僕らをねらってもいました」


「怪盗」とノーヴェが口を出したが、ラトは無視した。


 クリフも取り合う気にはなれなかった。


「僕の目標はパパ卿の身柄みがらを無傷で奪還だっかんし、そして最終的にはクリフ君の命を救うことです。しかしクリフ君は毒杯を共有することを拒否しました。なぜか? ——これが問題です。彼はガンバテーザ要塞で三十人もの王国兵を殺害した犯人に積極的にいました。裁判で、毒薬を言われるがままに飲み干すことによって。もしも彼が本当に犯人なら、そのように破滅的はめつてきな行動を取る必要はありません。しかしクリフ君の決意は異常にかたく、説得に応じる様子は皆無かいむです。おそらく誰かをかばっているのだろうと思いました」


 心の中が何一つ読み取れなくとも、ラトはクリフとセヴェルギンの間にあった信頼関係に気がついていたのだ。


「こうなったらクリフ君の意志を変えるのは至難しなんわざです。進行はなんらみだれることなく、彼がすべての毒薬を飲み干すのは時間の問題でした。でもそれでは、僕らをこの窮地きゅうちおとしいれた人物ののままになってしまう。クリフ君は死に、真実は闇の中。それだけはふせがねばなりません。だから僕は発想はっそうを変えることにしました。クリフ君が毒薬を飲むことを止められないなら、毒薬のほうを何とかするべきだと」

「まさか、ロー・カンを懐柔かいじゅうし、解毒薬を手に入れたのかね」


 ロー・カンが何かを言おうとしたが、それより先に口をはさんだのはドラバイト卿だった。


「それは不可能だ。裁判を中止にでもしないかぎり、ロー・カンが敵になさけをかけるようなことをするはずがない」


 ロー・カンが予定を変更し、自決用のナイフをクリフに持たせたのは、あくまでもその時点ではアルタモント卿がこの裁判の主催者だったからだ。

 裁判をとどこおりなく終了させるために、ロー・カンは尽力じんりょくした。たとえラトが泣きついたとしても、クリフが王国兵を殺害した犯人であるならば容赦ようしゃはしないはずだった。


「その通りですよ、ドラバイトおじさま。ですから、僕は勝負に出ることにしました。ロー・カンと、正体不明の泥棒を同時に相手取った二面指にめんざしの早指し勝負ブリッツです。ロー・カンは最後までクリフ君を殺すという意志を変えませんでした。ですが……それと同時に予定にはない行動を取り、結果的にクリフ君を生存させたのです。それは、こういうことです。彼はあらかじめ用意していたのです。それかあるいは、調ということも考えられます。いずれにしろ、その措置そちによってクリフ君の体への影響や負担は軽減けいげんしたのです」


「……なぜだ!?」と相棒に詰め寄るドラバイト卿。


「だから言っただろう、すまないと」と、ロー・カンはしかめつらである。


「ドラバイト卿、ロー・カンは悪くありません。彼はクリフ君を殺すためにそうしたのですから」

「殺すために毒薬を減らすだと!? そんなことはあり得ない!」

「そうですが、しかしありないことが起きたのです。そして、そうするように彼を誘導ゆうどうしたのがこの僕です」


 ラトは平然として言い、続ける。


「あらためて振り返ってみると、ロー・カンはこの裁判でかなりの重責じゅうせきになっていました。すなわち五杯の毒薬です。一杯でも、二杯でもありません。かならず五杯飲ませ、五杯で死ななければいけないのです。なぜなら、その間クリフ君は裁判に出廷しゅっていし続け、証言をしなければならないからです。地獄のあじあわせながら、意識ははっきりさせなければなりません。これは難題中の難題ですが、ロー・カンは天才的でした。初対面のクリフ君に対して、分刻ふんきざみで症状を制御せいぎょするという、芸術的ですらある手腕しゅわん発揮はっきしてみせたのです。これには僕も驚嘆きょうたんせざるを得ませんでした。そして何とか彼を攻略せねば、生存の道はひらけないことがわかっていました。勝利の目に必要なものは――こと」

「みごとだ、ラト。核心かくしんを言いたまえ」


 ラトは真正面にアルタモント卿を見据みすえながら、答える。


「実に簡単な一手です。僕はロー・カンが正確にはかり続けていた時計の針をのですよ。ドラバイトおじさま、クリフ君が二杯目の毒を飲んだ直後のことです。クリフ君が鼻孔びこうから大量に出血したことを覚えていますか?」

「もちろんだ。患者の身に起きたことはすべて記憶している」

「じゃあ、三杯目の後に喀血かっけつしたことも記憶にありますね。実はあれは、ロー・カンのタイムスケジュールには存在しない、まるで想定そうていしていない症状なのです。


 探偵騎士たちが言葉を失う。

 そこでは言葉は思考という光よりもおそく、もはや意味のないものだった。

 その衝撃からいちはやく抜け出したのは影の貴族であった。

 アルタモント卿がにやりとして言った。


「ロー・カンは天才肌てんさいはだで、職人気質しょくにんかたぎでもある。もしもそのようなことが目の前で起きたとしたら、クリフ君は裁判をえることなく、毒にたおれると思うだろうな」

「その通りです。被告人が証言台のうえで死刑判決を受け取る前に倒れるなど、彼にとってはあってはなりません。ロー・カンはクリフ君に現れた激し症状を見て、毒に弱い体質であるか、それとも体重が予測よりも軽かったか、あらゆる可能性を想定し、残りの調のです。彼は五杯目の毒薬でクリフ君に完璧な死をげさせるために、毒薬の量をわざとらしたのですよ」


 探偵裁判の最中、ラト・クリスタルは瀕死ひんしの相棒を前に動揺どうようしている演技をしながら、二度、ドラバイト卿と共に控室から離れた。

 クリフは毒の影響で朦朧もうろうとしており、ロー・カンが法廷に入って毒薬の量を調節したとしても気がつかない。


 ロー・カンはもはや何も言葉にはしなかったが、それは肯定こうていと同じ意味合いだった。彼は獲物えものを逃がしたのだ。


 それは彼がこれまで対面した誰よりもかしこい獲物であった。


「では、あの大量の出血は何だったのだ? 毒の効果ではないとしたなら……」


 呆気あっけにとられたように、ドラバイト卿がたずねる。

 クリフもラトも、血を流すためにわざと傷をつけたようすはなかった。

 法廷には武器は持って入れなかったはずだ。


「あれは全部ほんものの血ではなく、ただの血糊ちのりですよ。おじさま」

「血糊?」

「はい。舞台演出に使われるものです。それを使って、クリフ君が大量出血したように見せかけたのです」

「だが、裁判がはじまるまえ、お前たちの持ち物を検査したときは、どちらもそんなものは持っていなかったはずだ」

「その通りです。僕は血糊なんか持っていませんでした。持っていたら、取り上げられていたでしょう。でも、いつでも体のどこかに血糊を仕込んでいる探偵騎士がひとりだけいるじゃありませんか」


 それが誰なのかクリフにも見当けんとうがついた。

 ほんの偶然ぐうぜんではあるが、探偵裁判の直前にそれを目撃もくげきしたからだ。

 探偵騎士たちは、それぞれに同一の人物を思い浮かべている。


だね」と、アルタモント卿がおかしそうに言う。「確かに、彼ならば血糊を持っているだろう」


 パパ卿のお得意の推理術のひとつは、彼が死んだふりをして、犯人を油断ゆだんさせるという荒唐無稽こうとうむけいなものだ。

 タイミングよく死ぬためには、常に血糊を持ち歩いていなければならない。

 しかしパパ卿から血糊をもらうという単純な手段は、この場合、とてつもない難事業なんじぎょうだと言えた。


「ペリドット卿は館のどこか別の部屋にいるはずではないのかな、ラト」


 パパ卿がおりらえられたのは、クリフたちが館にやって来た直後のことだ。

 そのときに誰にも知られぬよう血糊を受け渡すタイミングはなかったし、その後の行動も監視されており、パパ卿と接触する時間も機会もなかったはずだった。


「人が悪いですね。貴方あなたは、探偵裁判に使われたトリックのことなら全部わかっているのに。別の部屋なんかじゃありません。パパ卿ならずっとここに、僕たちと一緒にいましたよ。ねえ、そうでしょう? アルタモント卿」


 ラトの言葉が理解できないのは、どうやらクリフだけのようだった。

 ドラバイト卿もしばらく思案顔しあんがおだったが、さすがに彼も探偵騎士のひとりである。

 答えに辿たどりつくのに、さほどの時間はかからなかった。


 彼はおもむろに立ち上がり壁へと近づいていく。


 そして議場ぎじょうをぐるりと一周し、扉と反対側の壁の前で止まった。

 そこは、裁判の一番最初にパパ卿の姿が映し出された壁だった。


 ドラバイト卿は突然、石壁の表面をこぶしで殴りつけた。


 普通なら拳のほうが粉砕ふんさいされる場面である。

 だが、そうはならなかった。

 石壁の表面が音を立てて波打なみうったのである。

 ドラバイト卿ははっとした表情を浮かべる。


「これは……絵がえがかれた布だ!」


 そう言って自分のステッキのつかをひねり、銀色の輝く仕込みやいばを引き抜くと石壁へと突き立てた。


 石壁はやすやすと深く刃を飲み込んでいく。


 そのまま真下へとろせば、軽い音を立てただけで切れ目が入った。

 その切れ目をめくると、明かりのない暗闇の空間に、まるで手品てじなのようにジェイネル・ペリドットが現れたのである。


「その通りです、おじさま。目のあらい布に石壁の絵を描いておくだけの単純なトリックです。薄暗い部屋の中では壁にみえるけれど、布の向こうで明かりをつけるとけて部屋の様子が見えるんです。僕も最初はだまされました。こんなにも近くにいるのにパパ卿の声が聞こえなかったからです。でも、そうじゃない。よく考えれば、音のやり取りをするレガリアがここにはある」

うたがいはじめたのはいつ頃だね」

「二杯目の裁判がはじまった頃でしょうか。探偵裁判に関する僕の疑問点ぎもんてんは、やはり監視者がこの空間にいなかったことにきます。この裁判の大前提は、僕がしたがわない場合は即パパ卿が犠牲ぎせいになるというものだったはずです。それこそ僕が探偵騎士団の気に食わない行動を取ったら、すぐにパパ卿に危害きがいくわえられなければ意味がありません。そして、パパ卿自身が脱出することがないよう見張みはっておく必要もあります。そこで、僕はひとつの仮説かせつを立てたのです。もしも盗人が、ガラスの破片はへんに変化してタウンハウスから出たのではなかったとしたら……?」


 ラトはノーヴェに視線をやる。

 ノーヴェはテーブルの上にステッキを立て、その上にあぐらをかいてラトの推理を聞いていた。それも何かしらのトリックなのだろう。

 しかしノーヴェは無表情で、何ひとつ答えない。


「もしも泥棒どろぼうがクリフ君のが隠し持った武器に変化し、法廷に入り、そのまま裁判を傍聴ぼうちょうするつもりでいたのなら、監視者がいないのも納得なっとくです。犯人は人質の管理も、僕たちの監視も、ここで一時いっときますつもりだった。でも予定外の出来事が起きた。クリフ君は隠した武器をすべてドラバイト卿に渡してしまったのです。彼のこの行動により、僕は比較的自由に動けるチャンスをました。……石壁のトリックは近づいてれればすぐにわかりました。そしてドラバイト卿と同じように布のはしを切って部屋に潜入し、パパ卿から血糊を借りることができたのです。そして、借りたものはもうひとつあります」


 ラトはクリフの服の前ボタンを外し、脇の下からゴム製のボールを取り出した。


「これが脈を止めたトリックです。止血しけつと同じ要領ようりょうで太い血管けっかんの流れが止まれば、短時間であれば血の流れを止めることができるんです。ロー・カンは僕の誘導ゆうどうに引っかかり、毒薬の量をらしましたから、クリフ君は五杯目を飲んでもすぐには死にません。でも生きていることがバレれば、その時点でトドメをされてされてしまいます。なのでこのボールが必要だったのです」


 クリフ自身は、血糊をりたくられたことをまるで覚えていなかった。

 しかしボールには気が付いており、それが何に使うものなのかも理解していた。

 そこでドラバイト卿とロー・カンが死亡確認に来たときに、脇を締めて脈を止めたのだ。それは咄嗟とっさの判断だった。


「タイミングの打ち合わせはできませんでした。僕とパパ卿は闇の中でも指の動きでサインを送り合うことができるけど、クリフ君とはできません。声を出せば、レガリアがそれをひろいあげてしまうかもしれない。だけど、クリフ君が僕の意図いとんでくれることにけました。クリフ君はそれにこたえてくれた。これで、クリフ君の死の偽装ぎそうが完成しました」

「あとは生き返ってみせるだけ……か」

「そうです。そして、法廷を去るときに花瓶の破片をクリフ君に渡したのです」


「破片はどこから?」とノーヴェがたずねる。


「キッチンのゴミ箱の中。君はタウンハウスを退出たいしゅつする際、僕の推理を邪魔するために、誰かをやとって花瓶をはこばせたんだろうね。誰に頼んだか知らないが、ずさんな証拠の始末しまつの仕方だったよ。どのみち、この館にあることは追跡者によってわかっていたから、僕は手に入れたと思うけれど……」


 ふん、とノーヴェは不満ふまんげに鼻を鳴らした。


「知ってのとおり、死んだ人間に注意をはらうものはいません。死んだ人間が生き返ることはなく、死者は攻撃をしかけてこないからです。そうした思い込みと油断ゆだんからノーヴェはクリフ君に注意を払わず、背中をみせました。これで王手チェック。いや、詰みだチェック・メイト


 事件はおそろしいまでに静かにまくを閉じた。

 犯人が明らかになり、隠されていた証拠によりクリフの無実は証明された。


 しかし――……。


 その結果としてクリフが守ろうとしていたものはすべて失われてしまった。

 セヴェルギン・アキシナイトとその部下たちが、王国の民を守るために針魔獣に立ち向かったという物語はもろくも崩れ去った。

 悲劇のとばりは乱暴に開かれて、英雄たちの墓標ぼひょうきざまれた文字も変わるだろう。


 息子を救えなかったあわれな父親だと書かれるだろう。


 クリフはそのことが何よりもくやしかった。

 自分が死ぬことよりも、恥ずかしくくやしいことだった。

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