第43話 ナミル氏の聖域


 

 この時刻じこく、ナミル氏は拳闘場けんとうじょうに出かけているはずだった。

 拳闘場のことはクリフもよく知っている。

 夜毎よごと、腕に覚えのある男たちがなぐり合いを披露ひろうする、ただでさえ暴力的な迷宮街のなかでもいっそう野蛮やばんな場所で、金が無いときはクリフも何度か世話になった。

 もちろん殴り合う側ではなく、賭ける側である。

 二度ほど、ただでさえ少ない元手がけて消えるのを目にしたはかない思い出の場所なのだった。


 おそるおそる様子をうかがいながら地下に続く階段を降りていくと、まだ営業時間までずいぶんあるのにガスランプの光の下に見張みはりが立っていた。

 きっと、中にナミル氏がいるにちがいない。


 クリフは見張りが何かを言いかけたのを無視してほこりっぽい店内に押し入った。

 店の中は真ん中に安っぽいいたかこわれたリングがあり、観客席がそれを取り囲んで、後は酒を売るカウンターがあるのみだ。

 開店時刻になれば客が押し寄せ、リングの中で殴り合う半裸はんらの男たちに罵声ばせいびせかけるだろう。

 店はそれにぴったりの薄暗くて薄汚い空間である。

 まず真っ先にナミル氏がカウンターの前にふんぞり返って部下にあれこれと命じているのがみえた。

 クリフは歩みを止めようとすがりついてくる見張りを引きずるようにしてナミル氏の前に出ていくと、床にモーリスから借り受けたいくばくかの紙幣しへいと自分の財布に入っていたわずかな小銭を叩きつけた。

 そしてそのかたわらで自らもひざまずいてみせた。

 どろあせや誰かがいた酒や煙草の吸殻すいがら、食べかすざりあいヘドロのようにこびりついた床であったが、いっさいの躊躇ためらいなく額を地面にこすりつけたのである。部屋のすみでどぶネズミが死体になって転がっているのもハッキリと見えていたが、それは土下座をしない理由にはならなかった。


「これががね全部だ、どうか許してくれ! 足りなければ必ず働いて返す!」


 ナミルは不気味な琥珀色こはくいろの瞳を真ん丸に見開き、二度ほど葉巻はまきをゆっくりとった。

 クリフは反応がないと見るやいなや腰のベルトからさやごと剣を外してかねの横に置き、再び頭を下げた。

 するとナミル氏は何度かのどの奥からむせるような笑い声を発した。


「ずいぶんな挨拶あいさつじゃねえか。ジュリアンをぶちのめした話題の冒険者とは思えねえな」

「あれはただの、たちの悪い噂だ」

「ふうむ。噂の真偽しんぎはともかく俺達みたいな路地裏者ろじうらものにも礼儀作法マナーってもんがあってな、そいつをすっ飛ばかしていきなり出された金をハイそうですかと受け取るわけにはいかねえんだ。そいつは財布さいふにしまっときな」

「こっちもラトを返してもらうまでは、ここからテコでも動かないぞ。殴るなりるなり好きにすればいい」

「ほほう、おかしなことを言うもんだ。お前さん、あの頭のネジが飛んだおチビちゃんのためになら、何でもできるっていうんだな、えっ?」


 ナミル氏にすごまれ、クリフはびくりと体を揺らす。

 その低い怒声どせいに、恐ろしい想像が頭をめぐる。


「それじゃあまずは、今夜のリングに立ってもらおうか」

「……え?」


 クリフの口からは、思いがけず間抜けなひびきがれた。


「うちの店からは自慢じまん拳闘士けんとうしを出すぜ。だ。それと迷宮街の稀代きたいの新星のビッグマッチなら、今夜の賭けは盛り上がること間違いなし、迷宮街のクソ野郎どもがうなるほど店に押し寄せるだろうよ。どうだい、これ以上ない名案だろうが」


 内心クリフは激しく狼狽うろたえていた。

 拳闘は文字通りこぶしでの戦いだ。

 武器を隠し持ったり、仕込みができないよう男たちは上半身裸になって殴り合う。

 もちろん店が雇っている拳闘士は試合のために厳しい訓練を積んでいる。

 クリフには万に一つも勝ち目はないだろうと思えた。リングに立っても衆目しゅうもくの面前でなぶり殺しになるのが目に見えている。


「クリフ君が本気にしてしまいます、そろそろ許してやってください、ナミル氏」


 そのとき、クリフは信じられないものを見た。

 店のバックヤードとの仕切りからひょこりとラトが顔を出したのだ。

 そして懐中時計を差し出した。


「さあ、25分ですよ、彼がこの店のドアをくぐるまで、きっかり25分!」


 クリフは何のことやらわからず目を白黒させる。

 反対にナミル氏は怒るでもなく平然へいぜんとしたままである。


「ああ、そうだったそうだった。こいつがカーネリアン邸からここに来るまで、何分かかるかってけだったな。いいだろう、賭けはお前さんの勝ちだ。賭場とばでのおイタはチャラにしてやろう」

「わあ、ありがとうございますナミル氏!」

「…………なにやってるんだ、ラト」


 クリフは嫌な予感がして、うめいた。

 その予感はおおむね、当たっていた。ラトはけろりとした表情で言う。


「ナミル氏と賭けをしてたんだ。僕が連れ去られたことに気がついた君が、いったい何分でここに到着するかっていう賭けをね」

「俺の居場所をさぐるのに、三十分以上かかると思ったんだがなあ……」

「俺を賭けの材料にするな!」


 クリフは思わずそうさけんでから、ナミル氏に「いえ、あなたに言っているわけじゃないです」と言い訳をする。

 ナミル氏はその姿を面白そうにながめている。


「なにひとつ不思議がることはありませんよ、ナミル氏。クリフ君は、最初からあなたが拳闘場けんとうじょうにいることを知っていたんですよ。僕は以前、彼の部屋で賭けの半券はんけんを見かけたことがあるんです。まさしくこの拳闘場のものですよ」


 クリフは何となくぎくりとした。自分のかせぎを何に使おうが誰に口出しされることでもないのだが、カーネリアン邸に世話になっている身の上で、しかも常日頃つねひごろラトに対して「不道徳ふどうとくなことはするな」と口をっぱくしていることを思えば、賭けをしたことがバレるのは気まずいことのように思えたのだ。

 ラトはそれすら見透みすかしていたようだ。


「先に言っておきますが、こちらのクリフくんは真面目まじめで誠実な男です。賭けに興じて我を失うことはありません。ちょっとした出来心ってものでしょう。しかし、どんな出来心にも理由がある。世間の噂によると、ナミル氏は大の拳闘愛好家けんとうあいこうかなんだそうですね」


 ナミル氏はほがらかにうなずいてみせた。


「おう、そうだとも。拳闘は俺の唯一の趣味と言ってもいい。賭けではなく、男たちが正々堂々せいせいどうどうと殴りあうのが好きなんだ」

「毎週木曜日は、必ずすべての仕事をやめて拳闘を楽しむとも聞いています。そんな人物が所有する拳闘場だから、この賭場では不正がない――クリフ君はそんなふうに思ったんじゃないでしょうか。カードやデックのすり替え、ルーレット台に仕込まれた磁石じしゃく、客とディーラーが組んだイカサマ……賭け事ギャンブルには不正がつきものですから」

「ふむ、あながち見込みこみ違いとは言えないな」

「そして今日は木曜日。ですので彼は普段のあなたの居場所である裏路地の酒場には立ち寄らず、カーネリアン邸から直接この拳闘場に来ます。休むことなく走って! だから25分です」


 ナミル氏は何がおかしいのか声を立てて笑い出した。

 そして「小遣こづかいだ、とっときな」と言って、小遣いには相応ふさわしくない大金をラトの手ににぎらせた。

 そしてクリフに立ち上がるように言った。


「もともとこの坊ちゃんをどうこうしようという気はねえ。そしてそれ以上に、下げてもらないお前さんの安いプライドにゃ興味がねえんだ」


 その台詞せりふに、クリフはどきりとした。

 心臓を素手すでで触られたような、うすらさむいものを感じた。

 クリフは――確かに、ラトがナミルの部下にさらわれたものと思って走り通してここまで来た。


 しかし頭の片隅かたすみにはどこかしら打算的ださんてきなものがあった。


 ナミル氏の言う通り、頭を下げても減るものはない。

 ただ地面に両手をつけてこうべれるだけのことだ。

 ふところは痛まないし肉体も傷つかない。プライドなんてものはあってなきようなもの、かすみのようなものだ。

 もっと最悪なことを言えば、ラトが殺されていたとしてもクリフは傷つかなかっただろう。それよりも『ラトが窮地きゅうちおちいっていると知っていたのに何もしなかった』とカーネリアン夫人に思われるほうが、より強くクリフを打ちのめしたはずだ。

 そしてその根っこにあるのが『とりで』だった。

 その考え方はすべてがなのだ。


「ラトのぼうやの唯一無二ゆいいつむにの長所はそのお利口りこうな頭脳だ。殺しちまったら何にもならねえんでな。しかし俺が大の拳闘好きだということを知ってるっていうんなら、話が早くて助かるぜ。お前さんたちを呼び出したのは、ちょいと面倒めんどうな仕事を片付けてもらうためだったんだ」


 ナミル氏は億劫おっくうそうに立ち上がると、ラトとクリフをバックヤードに連れて行く。

 さらに地下に向かう階段を降りる。ちょうどリングの真下に当たる空間に、店の専属拳闘士たちの控室ひかえしつが並んでいた。

 控室といっても部屋の中に木でできたベンチや棚が並ぶだけの簡素かんそなものだ。

 だが、一番奥の部屋だけは様子が異なる。

 そこだけかぎつきのドアがあり、内部は贅沢ぜいたくしつらえだった。

 高級な毛足の長い絨毯じゅうたんが敷き詰められ、他にも高価な調度品がそろっている。棚に並ぶ酒も、混ざりものが入った安酒は一本もなかった。

 部屋にはソファや寝台まで備えられていたが、ただ、その貴族のもののような猫足ねこあし寝台ベッドの上は先客によって占領せんりょうされていた。

 真っ白な敷布シーツの下には人ひとりぶんのふくらみがある。

 その客がすでに生きていないことは、部屋中に立ち込めた腐臭ふしゅう死臭ししゅうでクリフにもわかった。


「部屋じゅうがらされているね。これはコーネルピンどものしわざだな」


 ラトはそう言って不快そうに眉をしかめた。

 コーネルピンは街の衛兵隊の隊長の名である。


「これは、もしかして事件現場なのか?」


 クリフが問うとナミル氏は初めて怒りの表情を見せた。

 氏が部下に命じてシーツをめくらせると、そこにはなんとも無惨むざんな死体が現れた。

 背格好せかっこうは三十代後半から四十代の男性のものだ。ひどくせているため、拳闘士ではないだろうことだけはわかる。

 その頭部はひどく損傷そんしょうしていた。何者かに激しく殴打おうだされたらしく、顔の原型げんけいとどめていないほどだった。


「昨晩の興行こうぎょうが終わった後に、この部屋で倒れているのを掃除夫そうじふが見つけたんだ」

「ふむ、では、そのあとに衛兵隊に知らせたのですね」

「この店は俺の聖域だぜ、ここに関しては、やましいところは何もないからな。で、親切にも市民の義務として通報してやったところ、連中はろくにこっちの言い分を聞かず、調べもせず、客を追い出して、犯人がつかまらないようなら店は一ヶ月の休業だと命じて帰っていきやがったのさ! 無能むのうどもめ!」


 ナミル氏はだみ声で怒鳴どなった。

 どうやら拳闘が好きだと言っていたのは本当のことらしい。

 ナミル氏は、一ヶ月の休業命令をただ甘んじて受け入れるなんぞたまったものではないと遺体だけでも取り戻し、こうしてラトを呼び出したのだった。


 驚くべきことに、彼は事件の解決を依頼しようとしているのだ。それもラトに。


 しかしラトは、それについては当然と言わんばかりの笑顔で「ひとつだけ訂正ていせいをお願いします。コーネルピンは無能で、しかも無知で、きわめて怠惰たいだだと」と付け加えていた。

 コーネルピン隊長のことを嫌っているのは、なにもナミル氏だけではない。

 ラトもそうだし、迷宮街でしばらく暮らせば、クリフも彼らが働き者であるとは口が裂けても言えなかった。


「彼らは犯罪捜査の何たるかが欠片かけらもわかっちゃいないんです、現場に大勢で、しかもずかずかと土足で入ってきては証拠を踏みつぶし、現場に置かれたものを持ち去ってなくす。今度から、衛兵隊なんか呼ぶ前に僕を呼んだほうが賢明けんめいです」


 ラトはそう言ってかなにため息を吐く。


「犯人を見つけてくれ、それができたら、相応そうおうの報酬を払う」

「いいでしょう。遺体は僕にあずけてください。それから関係者と自由に話をする権利を僕にください」

「客をふくめると山ほどいるぞ」

「とりあえずは、このバックヤードに出入りした人物だけで結構」


 ここまではクリフの思った通りの展開だった。

 しかし……ナミル氏がラトを呼び出したのは、純粋な犯罪捜査のためではないだろうとクリフには思えた。いくら拳闘好きでもだ。

 ナミル氏は迷宮街の犯罪者の総元締そうもとじめだ。

 彼が本当に気にしているのは犯人が誰かということではなく、自分の店の利益と面子めんつをいかにたもつかである。

 ラトは手袋をはめて死体に近づき、その様子を観察していた。頭のてっぺんからつま先まで目で見て、近づいて香りをいでいる。


「おい……ラト、ちょっと待ってくれ。本当に引き受けるつもりなのか?」


 クリフは夢中むちゅうになっているラトを遺体から引きはがすと、小声で話し掛けた。


「これは裏社会からの依頼なんだぞ」

「依頼者が誰であれ、名探偵の仕事に変わりはない。真実をあばいてみせるのみさ」

「そういうことじゃない。考えてもみろ、ナミル氏は犯人を衛兵隊に連れてくなんてことはしない。犯人は裁判を待つ事なくドブ川に浮かぶことになるんだ。それか首をられてさらし物になるかもしれない。犯罪に手を貸すようなもんだぞ」


 ヒソヒソ話をしている二人にナミル氏は言った。


「解決してくれるなら店の売り上げの一ヶ月分を支払う。コーネルピンの言いなりになれば、どうせ俺のふところには入らん金だ。丸ごとお前らにくれてやろう。それで俺も裏社会での面子めんつが立つ。誰もそんはしねえ取引のはずだぜ」


 クリフは以前、店に来たときの光景こうけいを思い出した。店には拳闘好きが押し掛け、満員の大入りだった。

 そしてごくりと音を立てて生つばを飲み込んだ。

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