第43話 ナミル氏の聖域
この
拳闘場のことはクリフもよく知っている。
もちろん殴り合う側ではなく、賭ける側である。
二度ほど、ただでさえ少ない元手が
おそるおそる様子をうかがいながら地下に続く階段を降りていくと、まだ営業時間までずいぶんあるのにガスランプの光の下に
きっと、中にナミル氏がいるにちがいない。
クリフは見張りが何かを言いかけたのを無視して
店の中は真ん中に安っぽい
開店時刻になれば客が押し寄せ、リングの中で殴り合う
店はそれにぴったりの薄暗くて薄汚い空間である。
まず真っ先にナミル氏がカウンターの前にふんぞり返って部下にあれこれと命じているのがみえた。
クリフは歩みを止めようと
そしてそのかたわらで自らも
「これが
ナミルは不気味な
クリフは反応がないと見るや
するとナミル氏は何度か
「ずいぶんな
「あれはただの、たちの悪い噂だ」
「ふうむ。噂の
「こっちもラトを返してもらうまでは、ここからテコでも動かないぞ。殴るなり
「ほほう、おかしなことを言うもんだ。お前さん、あの頭のネジが飛んだおチビちゃんのためになら、何でもできるっていうんだな、えっ?」
ナミル氏にすごまれ、クリフはびくりと体を揺らす。
その低い
「それじゃあまずは、今夜のリングに立ってもらおうか」
「……え?」
クリフの口からは、思いがけず間抜けな
「うちの店からは
内心クリフは激しく
拳闘は文字通り
武器を隠し持ったり、仕込みができないよう男たちは上半身裸になって殴り合う。
もちろん店が雇っている拳闘士は試合のために厳しい訓練を積んでいる。
クリフには万に一つも勝ち目はないだろうと思えた。リングに立っても
「クリフ君が本気にしてしまいます、そろそろ許してやってください、ナミル氏」
そのとき、クリフは信じられないものを見た。
店のバックヤードとの仕切りからひょこりとラトが顔を出したのだ。
そして懐中時計を差し出した。
「さあ、25分ですよ、彼がこの店のドアをくぐるまで、きっかり25分!」
クリフは何のことやらわからず目を白黒させる。
反対にナミル氏は怒るでもなく
「ああ、そうだったそうだった。こいつがカーネリアン邸からここに来るまで、何分かかるかって
「わあ、ありがとうございますナミル氏!」
「…………なにやってるんだ、ラト」
クリフは嫌な予感がして、うめいた。
その予感は
「ナミル氏と賭けをしてたんだ。僕が連れ去られたことに気がついた君が、いったい何分でここに到着するかっていう賭けをね」
「俺の居場所を
「俺を賭けの材料にするな!」
クリフは思わずそう
ナミル氏はその姿を面白そうに
「なにひとつ不思議がることはありませんよ、ナミル氏。クリフ君は、最初からあなたが
クリフは何となくぎくりとした。自分の
ラトはそれすら
「先に言っておきますが、こちらのクリフくんは
ナミル氏は
「おう、そうだとも。拳闘は俺の唯一の趣味と言ってもいい。賭けではなく、男たちが
「毎週木曜日は、必ずすべての仕事をやめて拳闘を楽しむとも聞いています。そんな人物が所有する拳闘場だから、この賭場では不正がない――クリフ君はそんなふうに思ったんじゃないでしょうか。カードやデックのすり替え、ルーレット台に仕込まれた
「ふむ、あながち
「そして今日は木曜日。ですので彼は普段のあなたの居場所である裏路地の酒場には立ち寄らず、カーネリアン邸から直接この拳闘場に来ます。休むことなく走って! だから25分です」
ナミル氏は何がおかしいのか声を立てて笑い出した。
そして「
そしてクリフに立ち上がるように言った。
「もともとこの坊ちゃんをどうこうしようという気はねえ。そしてそれ以上に、下げても
その
心臓を
クリフは――確かに、ラトがナミルの部下にさらわれたものと思って走り通してここまで来た。
しかし頭の
ナミル氏の言う通り、頭を下げても減るものはない。
ただ地面に両手をつけて
もっと最悪なことを言えば、ラトが殺されていたとしてもクリフは傷つかなかっただろう。それよりも『ラトが
そしてその根っこにあるのが『
その考え方はすべてがイエルクがクリフに与えたものなのだ。
「ラトの
ナミル氏は
さらに地下に向かう階段を降りる。ちょうどリングの真下に当たる空間に、店の専属拳闘士たちの
控室といっても部屋の中に木でできたベンチや棚が並ぶだけの
だが、一番奥の部屋だけは様子が異なる。
そこだけ
高級な毛足の長い
部屋にはソファや寝台まで備えられていたが、ただ、その貴族のもののような
真っ白な
その客がすでに生きていないことは、部屋中に立ち込めた
「部屋じゅうが
ラトはそう言って不快そうに眉をしかめた。
コーネルピンは街の衛兵隊の隊長の名である。
「これは、もしかして事件現場なのか?」
クリフが問うとナミル氏は初めて怒りの表情を見せた。
氏が部下に命じてシーツをめくらせると、そこにはなんとも
その頭部はひどく
「昨晩の
「ふむ、では、そのあとに衛兵隊に知らせたのですね」
「この店は俺の聖域だぜ、ここに関しては、やましいところは何もないからな。で、親切にも市民の義務として通報してやったところ、連中はろくにこっちの言い分を聞かず、調べもせず、客を追い出して、犯人が
ナミル氏はだみ声で
どうやら拳闘が好きだと言っていたのは本当のことらしい。
ナミル氏は、一ヶ月の休業命令をただ甘んじて受け入れるなんぞ
驚くべきことに、彼は事件の解決を依頼しようとしているのだ。それもラトに。
しかしラトは、それについては当然と言わんばかりの笑顔で「ひとつだけ
コーネルピン隊長のことを嫌っているのは、なにもナミル氏だけではない。
ラトもそうだし、迷宮街でしばらく暮らせば、クリフも彼らが働き者であるとは口が裂けても言えなかった。
「彼らは犯罪捜査の何たるかが
ラトはそう言って
「犯人を見つけてくれ、それができたら、
「いいでしょう。遺体は僕に
「客を
「とりあえずは、このバックヤードに出入りした人物だけで結構」
ここまではクリフの思った通りの展開だった。
しかし……ナミル氏がラトを呼び出したのは、純粋な犯罪捜査のためではないだろうとクリフには思えた。いくら拳闘好きでもだ。
ナミル氏は迷宮街の犯罪者の
彼が本当に気にしているのは犯人が誰かということではなく、自分の店の利益と
ラトは手袋をはめて死体に近づき、その様子を観察していた。頭のてっぺんからつま先まで目で見て、近づいて香りを
「おい……ラト、ちょっと待ってくれ。本当に引き受けるつもりなのか?」
クリフは
「これは裏社会からの依頼なんだぞ」
「依頼者が誰であれ、名探偵の仕事に変わりはない。真実を
「そういうことじゃない。考えてもみろ、ナミル氏は犯人を衛兵隊に連れてくなんてことはしない。犯人は裁判を待つ事なくドブ川に浮かぶことになるんだ。それか首を
ヒソヒソ話をしている二人にナミル氏は言った。
「解決してくれるなら店の売り上げの一ヶ月分を支払う。コーネルピンの言いなりになれば、どうせ俺の
クリフは以前、店に来たときの
そしてごくりと音を立てて生つばを飲み込んだ。
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