ケーキがまずいのは苺のせい

@2002_06_21

ケーキがまずいのは苺のせい


 「どうせ君には一文字も書けやしないよ」

 そう言ったのは私の彼氏。

 「そうかなあ」

 「そうだよ」

 彼はつまらなさそうにコーヒーをひと口飲んだ。彼の生ぬるいため息から安っぽい豆の匂いがする。私はそれが気持ち悪くてさりげなく鼻に手を添える。

 小説を書いてみたいと言ったのだ。なんでもいいから短いのを。

 「そもそも」

 珍しく彼と目が合った。ケーキをつつく手を止める。彼を見る。

 「君頭悪いでしょ。無謀だよ。ああいうのは、文才以外にもいろいろ必要なんだから」

 片眉をつりあげている。今日はいつもより少し機嫌が悪い。そうねと相槌を打ちまたケーキをつつく。食べたくもない苺のショートケーキ。もう少しで皿は空になる。

 「別れましょう」

 私は言う。

 彼は私を見ないまま答える。

 「どうせ君は僕がいないとだめだよ」

 きれいな眼、と思った。退屈そうに瞼が半分下がっている。睫毛が眼球を光からかばうように伏せている。茶色い瞳はそれを知ってか知らずか、無垢に日光を追いかける。

 「私、あなたがいなくてももう大丈夫」

 私はきっと今世界で一番優しい顔をしているだろう。現に私は今、慈愛っぽいものに満ちている。彼を撫でたいと思っている。

 カフェが少し混んできた。もうお昼前だ。パスタの匂いがする。隣の席の女性のもとへ運ばれてきたそれを見ると吐き気がした。ミートソースがだらしなく絡まっていてなんだか嫌だ、その上にパセリとチーズまで載せてしまうなんて。

「何か頼む?」

答えは知っているくせに、彼ったら。

「ううん」

 私も彼と同じように窓の外を見た。ちょうどミントグリーンの車が通った。同じタイミングで、今度は私の横をカレーの匂いが通った。

 彼といると、お腹がすかない。

 なんなら、眠くもならないし、性行為もしたくならない。人間としての欲求がぜんぶ無くなってしまう。私は彼といると人間でなくなる。

 思い切ってケーキをフォークにぶっ刺した。最後のひとくちだ。頑張って口に入れると途端にねちっこい甘みが広がった。柔らかいスポンジを噛む。舌で撫でる。唾液と混ざる。

 「あ」

 彼が、また、私を見ていた。正確には、私のほうを見ていただけで、目は依然として合わないけれど。私の視線より少し下の方を見ていた。少し口を開けて、大きな目をさらにめいっぱい開けていた。

 「どうしたの?」

 言い終わる前に、彼の手がゆっくり私の顔に近づいて来た。きれいな指だと思った。健康的な肌色に指の先がそれぞれ少し赤くなっている。

 彼の手は私の顔に近づくにつれて丸く折れた。そして人差し指の背が私の人中の部分に触れた。そのままゆっくり溝に沿って上がり、鼻の穴に触れて止まった。

 「チ」

 彼が呟いた。

 チ。

 「チ?」

 彼はもう呟いてはくれなかった。

 チが血であることに気がついたのはそれからほんの少し後だ。私は鼻血を出していた。

 あわててティッシュを鼻に詰める私をよそに、彼は手持無沙汰そうにおしぼりを弄りながら、

 「ほらね、どうせ君は僕がいないとだめだよ」

 私は、彼の小説を書こうかしらと思った。


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