九年前の火事の記憶 

 ――九年前

 俺は電車から降り、さっさと改札へ向かう。


 東京都の俺の通う高校はここ、埼玉から少し遠い。

 

 そしてその上部活は遅くまである。それを終えて、長く電車に揺らされた後に今日もこうやって帰ってきたわけだが、俺はこれから塾があるのでまだ家には帰れない。


 駅の売店で夕食を買い、外に出る。ここは高いビルは無く、かと言って田舎なわけでも無いベッドタウン。 


 夜の七時の現在、帰宅ラッシュなのでそこそこ人が行き来している。そんな中俺は、あまり人通りの多くない線路沿いの道を進んで行く。


 少し歩くと、広めの二階建ての建物が見えてくる。ここが塾だ。それにしても「学校、部活、塾」の三コンボがキマる火曜は疲れる……


 塾に入り、二階の自習室のドアを開けると、


「やあ、憩野君」


 塾での友人である、亜井川遠流あいかわとおるが声をかけてきた。長めの黒髪に銀色の丸メガネ。とても優しくて勤勉な男。


「おお、亜井川。すまんが今日も横で食わしてもらうぞ」

「うん。いいよ」


 お言葉に甘えて俺は亜井川の右隣に座り、コンビニのレジ袋から筆箱くらいの大きさしか無い小さめの弁当を取り出す。


 学校が遠いと通学時間も当然長くなる。よって俺は毎回、授業が始まる数分前にしか塾に到着できない。さっさと食べないとな。  


 と、その前に、一つ聞いておきたいことが。


「で、その子は妹さんか?」


 入って来てからずっと気になっていた。なぜか亜井川の左隣に座っている小さい女の子。暇そうに足をゆらゆら揺らしている。


 亜井川はこともなげに答える。


「うん、そうだよ」

「なんでこんな塾に?」


 周りには高校生しかいないので、この空間では明らかに浮いている。まぁ、みんな勉強に集中しているので特に気にしてはいないようだが。


 亜井川はプリントの山を見せつけてきた。


「いや〜、下に母さんも来てると思う。僕としたことがこれを家に忘れてきてしまって。母さんに届けてもらったんんだ。情けない……」

「なんだ、宿題を忘れて来ただけか」


 でも確かに、先生に嫌味な顔をされるのは避けたいよな。俺なんて、何回も嫌味な顔をされてるから宿題を忘れることに慣れちゃってるけど。

 

 俺が弁当を食べることを忘れて呑気に話していると、亜井川が俺の肩を叩いてきた。


「そんなことより憩野君、かなり時間やばくない?」

「うわっ! ホントだ! サンキュー!!」


 腕時計を見た俺は亜井川にそう言って、弁当の残りを急いで口の中へ掻き込む。そして野菜ジュースのパックにストローを挿して全く味合わずに飲み込んだ。題して、「超早食い」だ。ダセェ……。


「ぐぁ〜、ごちそうさまでした」

「相変わらずすごいスピードだね……」


 おそらく体に迷惑をかけてるだけだけどな。もう料理に対して「ごちそうさま」って言うのが烏滸がましいくらいである。


 その後俺は、鞄から無造作に先週出された宿題を取り出す。


 今日はちゃんと宿題をやってきたのだ。先生の嫌味な顔を珍しく見なくて済むな。


 でも逆に、「ちっ、今日はちゃんとやってきたのかよ」みたいな意味で嫌味な顔をされる可能瀬もあるが……。


 そんなことを考えながら、ちょっと宿題の確認でもしようかと思ったその時――


「火事、だ……」


 横で亜井川がボソッと呟いた。そしてそれに釣られるように周りからも生徒たちのざわめく声が聞こえてくる。


「なんだなんだ? 火事って一体……?」


 そんな独り言を言って顔を上げると、部屋のドアがオレンジ色にメラメラと光っていた。


 変な匂いもしてくる。


 周りの生徒たちはハンカチを口に当てて、次々に部屋の奥で座り込んでいた。


 本当に……、火事だ。「防災訓練なんてある意味あんの!?」なんて思い続けてはや十年を超える俺は、ロクな対応の仕方が分からない。


 あ、そうだ! 亜井川の妹さんは大丈夫か!?


 焦る気持ちを何とか落ち着かせ、左に振り向くと


「おい……、何してんだよお前……!?」


 妹さんでは無く亜井川が、燃え盛るドアをじっと見つめながら、ただ立ち尽くしていた。

 

 肝心の妹さんはとっくに周囲のお兄さんお姉さんを見習ってか、可愛らしいハンカチを口に当てて部屋の奥に移動している。


 妹の方がしっかりしててどうすんだよ……。

 彼は今も立ち尽つくし、かけているメガネには燃え盛る炎が反射して映っている。


 俺は棒のように立っている亜井川の肩をがっちり掴み、ぶんぶん揺らしまくる。


「亜井川! 亜井川!! ……亜井川!!」

「…………はっ!」


 十秒近く経ち、やっと我に帰りやがった。

 おせぇよ……。


「さっさと奥に行くぞ!」

「あ、ああ。ごめん憩野君」


 俺たちも急いで移動し、しゃがむ。

 おいおい、この後どうするよ……。


 炎は部屋の前方まで移って来ており、すでに最前列の机が燃え出していた。


 部屋の外からはリンリンリンッと火災報知器の音が聞こえてくる。……火災報知器!? そういえば確かこの部屋、天井にスプリンクラーが設置されているはずじゃ!?


 上を見上げてみる。天井には確かにそれっぽいものが設置されていた。だったらなぜ作動しない!? こんなに熱も煙も出でいるのに……あれ?


 俺は今ふと感じた馬鹿げた違和感が正しいか、亜井川に確認をとる。


「おい亜井川、今熱いと感じるか?」

「そりゃもちろ……、あれ、熱く、無い……」

「だよな。ありがとうっ」


 やはり俺の感じた違和感は正しかった。つい目の前の光景に囚われて気づかないところだった。


 どんな原理なのかは分からないが、この炎、熱を発していないんだ。


 目を瞑って冷静になってみると、全く熱を感じない。本当に、どんな原理なのか現象なのか、俺にはさっぱり分からないが。


 でもそれなら、スプリンクラーじゃなくてこの炎がおかしいなら、自分でスプリンクラーを作動されればいい。


 物理部の俺は今、たまたまライターをポッケに持っている。


 そして改めて部屋を見渡すと……


「あ……!」


 もう手遅れだった。

 一番近くのスプリンクラーがあるこの部屋の中央まで、炎は燃え移って来ていたのだ。


 せっかく思いついたのに……


 周りを見ると、他の生徒たちは怯えて固まってしまっている。


 消防隊はまだ来ないのだろうか?


 熱くない炎を前に、焦りで汗が止まらない。


 なにか、どうにかしてあのスプリンクラーを起動させる方法は……!? ――待てよ、よく考えなくても、俺一人が火傷するだけでこの部屋全員を救う方法があるじゃないか。


 不意にそんなことを思ってしまった。なんでこんなこと思いついちゃったかなぁ……


 そうだよ。とにかくこのライターの火をあのスプリンクラーに当てさえすればいいんだから。はぁ……。


 俺は緊張と恐怖で思うように動いてくれないかもしれない自分の足を叩いて、立ち上がる。


「うおぉぉぉぉ!!」


 そして、カチッと火を点けたライターを片手に炎の中に飛び込んだ。


 ***


 数秒後、気がつくと俺は大雨に打たれながら自習室の中心に立っていた。無事スプリンクラーが作動したようだ。


 目の前には自習室のドア。さっきまで燃え盛っていたが、今では焦げたての得体の分からない何かになっている。


 よかった……あれ、俺は一体どうなったんだ?


「憩野君……!?」


 後ろから亜井川の声がした。振り向くと、俺を見て亜井川が慄然としている亜井川がいる。


「どうしたんだよ……!?」

「……いや、何でもないよ。それより、無事で良かった」


 そう言った彼の言葉に、感情はこもって無かった。

 ……そりゃそうだよな。俺も薄々感じてはいた。そして、俺も自分に対して恐怖を覚えていた。


 だって、どこを見ても俺の身体は全くもって無傷で、火傷のしている箇所なんて一ミリたりとも見当たらないんだから。


 もちろん、痛みも何も無い。取り合いず俺は、亜井川にこう伝える。


「お前も見ただろ、あのおかしな炎。きっとあれの影響だよ」

「……そう、そうだね! きっとそうだ!」


 亜井川は一生懸命自分に言い聞かせるようにそう唱え、無理矢理笑顔を作った。


 そして、それは俺もさっきからやっている。全部あの炎のせいだと。でも何度言い聞かせても、とても納得できそうにない。


 なぜなら、俺の服は全部焼けたのだから。


 俺の身体だけが、無傷だなんてこと、あの炎のせいというだけでは片付けられるわけがない。


 まぁ、それはそうとして俺は今全裸なわけであって、女子もいる後ろをずっと振り返られないでいる。俺は亜井川に懇願した。


「ごめん、なんか隠すものちょうだい……」

「う、うん……」


 頷くと亜井川は足早に自分のリュックに何かを取りに行ってくれた。タオルでも持ってきてくれるのだろう。

 

 ……それにしてもなぜ、炎は全く受けなかったのにスプリンクラーの水は豪快に浴びることができたのだろうか。

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