キョエイシン
諸井込九郎
巨影蜃
──ふと見上げた遠い峰に、霧がかかっていた。
「聞いてんの?」
漠然とそんなことを考えていた僕の顔の前で、
「…ねえ、聞いてんのってば」
楸は、今度は僕の頭を小突いた。
「聞いてなかったんだ、つまんないの」
そういう態度だから、嫌われるんだよ。危なく口を突いて出そうになる文句を飲み込み、生返事を返す。
「…そんな態度だから嫌われるんだ、って言いたげな顔してるけど。」
嘲笑うような声。こういう変に察しのいいところも、彼女の人を寄せ付けない雰囲気を強めていた。まあ今回に関しては、態度がすぐに顔に出る僕自身の問題のような気もするが…。
「じゃ、ね。」
「…は?え、なんか用があったんじゃ…?」
「さあね?聞き逃したのはそっちだし、私はアンタと違って忙しいから。」
彼女は踵を返し、坂をスイスイと登っていく。ホント、いい性格してるよ。
今日は終業式だった。体育館で教師の長話を聞いて、見たくもない成績表と無駄の権化みたいな宿題の数々を受け取る…それだけのために学校へ行く日。そんな日なのだ、学校までの坂道が普段の倍も長く感じてしまう。はあ、とため息をつきながら、明日からの休みの事を考え──おや。
ふと、校舎の方へ目を遣る。────霧だ。おかしなこともあるもので、坂の下は快晴にもかかわらず、丘の上がすっぽりと霧に覆われているではないか。大した風もないのに、霧は瞬く間に校舎を飲み込んだ。小説だったか映画だったかにこんな話があったような…なんて雑な思惟をこねくりながら、僕は霧の中へと進み──
──足を、止めた。
視線。それに、息遣い。〝何か〟が僕を見ている?霧そのものが脈を打っているような錯覚──肌に纏わりつく微細な水滴が、ひどく生物的な動きをしているように感じる。頭の天辺から足の爪先まで、肉の壁に包み込まれているようだ。まるで巨大な生物の体内に取り込まれてしまったような……嫌な思惑を振り払いながら周囲に視線を走らす。こちらを見ている者などいない。突然の霧に困惑こそすれ、巨大な気配に足を竦ませ顔を青くしているような人間は見当たらない。──そうだ、これは単なる幻覚だ。霧の中は気温も下がっているだろうし、外との温度差で感覚がおかしくなっただけ。そう言い聞かせながら歩調を速めて──
刹那、僕は眼前の光景に釘付けとなった。いや僕だけでない、そこに居た人間は校舎を…正確には、校舎のあった方を、愕然と見ていた。地響きのような鈍く巨大な音──腹の底にビリビリと振動が伝わってくる。断末魔のような壮絶な音を立て、建物の輪郭がぐにゃりと歪む。コンクリートが砕ける音──鉄筋がひしゃげて折れる音──鼻を突く埃臭い風、揺らめく霧──そして、人の悲鳴。
僕らの目の前で、校舎が潰れた。それは──まるで何か、見えない何かに押し潰されたような、いや──そんなバカなこと、あるわけが
「──ねえ」
あっけにとられていた僕の目の前に
「聞いてなかったでしょ、また」
いつの間にか楸が立っていた。
「…はあ、まあいいけど。これじゃあ学校行けないし、私帰るから、よろしく。」
僕はよほど素っ頓狂な顔をしていたのだろう、楸は笑いを堪えるような表情で、言った。
「ああ、そうそう──よかったね。」
──楸は目の前に立っていたのに、僕は彼女の顔を、感情を、意図を読むことができなかった。楸はただ、張り付けたような嘲りの笑みを浮かべて──
「これで自由じゃん、この夏はさ」
そう、言った。すべての責任が、まるで僕にあるとでも言いたげに。
七月二十七日、〝原因不明〟の校舎の倒壊から一週間が経った。奇跡的に死者はゼロだったが、教員や生徒に少なくないケガ人が出た。夏休みの間に仮設のプレハブ校舎を建て、二学期からはそこで授業を行うという。事故の原因は目下調査中…とのことだが、目撃者は口をそろえてこう言っている。
「巨大なモノが校舎を押し潰した」
当然ながらこんな証言、公式には取り合っちゃくれない。それでも、校舎の残骸は〝上方向からの強い押圧で潰れた〟としか説明のしようがない壊れ方をしていたし、あの場の誰もが〝上から潰れていく校舎〟を見ていた。しかし、あの霧の中で視線を感じたのは僕だけだったらしい。こんな話は誰も信じないだろうし、悪目立ちするのは嫌だったから、まだ誰にも話してはいないけど…。あれは、校舎を壊した〝モノ〟の視線だったのだろうか?それならなぜ、僕だけが視線を感じていたのだろうか?
近所の海岸、夕暮だった。雑多に転がされたテトラポッドの上に座り、僕は纏まらない思索をなんとか纏めようとしていた。この一週間、僕は事故と楸と霧のことばかり考えている。昔から一人で考え事をするときは、よくここに座ったものだ。…霧とあの〝視線〟は結び付けていいとして、楸は?誰もが崩壊に目を奪われる中、楸だけはそれに背を向けていた。小学生の頃、「ヒサギに近づくと事故に遭う」なんてくだらない噂が流行ったことがあるが…それは関係あるのだろうか?ともかく楸は今回の事件について、少なくとも何かを知っているのだろう。そうでなければ…いくら冷淡なヤツといえども、あんな状況で笑っていられるものか──
「別に。笑えるけど?」
不意に、思索の真ん中に声が飛び込んできた。澄んだ鈴みたいに透明で、そのくせチェシャ猫みたいに挑発的なあの声──いつもいつも耳に飛び込んでくる、楸の声だ。声のした方に目を遣ると──楸が、知らない男と歩いていた。楸はどこか事務的な、本当に笑っているのか怪しいような笑顔を男に向けながら、いつもと違う落ち着いた声で囀っていた。そしてその無感動に細めた目を──テトラポッドに座る僕へ──ほんの一瞬だけ、焦点をあわせて────そのまま何事もなかったように歩いていった。
カモメの鳴き声で現実に引き戻される。なぜ、僕は動揺しているんだ。別に、楸が何処の誰とも知れない人間と好い仲になっていようがいまいが僕には関係ないしそんなことは楸の自由であってそもそも僕に関係あったとしてもどうこう言う性根もなければ資格は無いし言われる筋合い自体が楸にはないのだから、だからこんな言い訳みたいな御託をひねり出して並べて手に取って今見た光景を必死に忘れようともがき苦しむ必要なんて絶対におかしい、絶対に必要ない、はず、なのに…………なぜ僕はどうして…こんなに──動揺しているんだ?
…そういえば、相手の男は年上だったようにも見えた。…楸にまつわる最近の噂には、その手の話もあった。前にそのことで問いただした時には、バイト先は喫茶店だとか言ってたけど…。これは純粋に楸の身を心配しているだけだ──また必要ないはずの御託を並べながら、僕はテトラポッドから飛び降りた。
────向かう先、街の方角に雲が低く降りてきていることにも気づかないまま。
楸と男が商店街の裏手の路地へ消えるのを見届けてから、僕は路頭に迷っていた。…いまさら迷っているのだ。尾行なんてしたこともないし…ここからの入り組んだ路地に入られてしまえば、無我夢中のヤケクソも通用しなくなるだろう。そもそも、他人の後をコソコソと付け回すこと自体が倫理にもとるというものではないか。ただ幼馴染が心配だというだけなら、それこそ然るべき機関へ相談するのが筋というもので──あ
路地を出てきた楸の顔がこちらを向く寸前で、どうにか物陰に入り込むことができた。速くなっていた鼓動が破裂寸前まで追いつめられる。
「そこに居んのはわかってるよ、出てきなよ」
心臓が止まった。と、思った。〝血の気〟のようなものが引いていく、サーッという幻聴が聞こえたような気さえする。
「また警察の人?はあ…これで何回目だっけ、ああ、今度はホゴカンサツショブンとかになるんだっけ?」
心臓が再び動き出した。なんだ、僕じゃなかったのか。そう安堵しつつ、何度目という言葉に引っ掛かる。果たして、以前に何度も補導を受けたということじゃないか。
「なあんだ、アンタか」
思わず叫んでしまった。足音なんてしなかったのに、いつの間にか楸はすぐそこまで迫っていて、僕の顔を覗き込んでいた。
「へえ…後付けてきたんだ。親愛なるオサナナジミが、知らない男と居るの見て……へえ?嫉妬?」
「…いや……それは…楸が心配だったから!あの人、年上でしょ?未成年がそういう犯罪に巻き込まれるって、よく聞く話…だし……」
無意識のうちに練っていた言い訳が口を突いて出る。我ながら思う、よくもまあそんな──
「よくもまあそんな、嘘をぺらぺらと噛まずに言えるよね」
「嘘……じゃ、ない。楸が心配なのは…!」
楸が一歩、近づく。
「本当?」
う…
「私が心配?」
また一歩、近づく。
「心配してくれてるの?へえ……」
また一歩、踏み出して、そして──通り過ぎた。思わず、情けない声が出てしまう。
「え?」
「あは、なにその顔?キスでもされると思った?女同士なのに、ていうか幼馴染なのにね。今どきそういうの、無いから。オサナナジミとか、いちばんそういうのから遠い存在だよね」
「…ふふ、そう。私たちの場合は特に、ね。家族でもなきゃ赤の他人でもない────面倒臭い関係。」
楸は独りごちたあと、振り向きもせずに嗤った。
「ふふふ、別にあんな男はさ、小遣い稼ぎだよ?クラスなら伊藤とか高橋とか、佐々木もやってたっけ。アンタは?」
「僕はそんなこと…!」
「やってない?汚いから?そんなことをしてる私は穢れてる?おかしいよね、それ。アンタ、こういうコトを蔑むタイプの人間だよね、昔からそう。人間には汚いヤツと綺麗なヤツがいて、上か、下か、常に気にしてる。私は下でアンタは上?そうでしょ、そういうヤツなんでしょ?」
「そんなことは…」
「そんなことあるでしょ?アンタのことで私が知しらないことなんて無いよ。だから────今はアンタが下で私が上なんだ」
「何を言って…」
楸は私に背を向けたまま、大きく息を吸って、吐いた。深呼吸のようで、しかし力のないその吐息が、空間全体に響き渡るような錯覚に陥る。──霧が、降りてきた。
「──別に今日がハジメテでもないし、面倒臭いオトナに見つかったこともあるけど……アンタに見られたのだけは最悪。もっと面倒臭い勘違いして絡んでくるし…訳知り顔で踏み込んでくるし……オサナナジミとか言ってさ。ホント、最悪。」
楸が振り返った。その顔は、なぜかとても悔しそうだった。
「見られたくなかったんだよ」
それは、あの時と同じ、〝視線〟だった。巨大な、不可視のモノが、僕を見据えている。それは目前の楸の眼であり、遥か上空から見下ろす巨影の眼だった。咄嗟に振り返ると、頭上の霧の中で何かが蠢いていた。濃霧の中で、不可視の実体が輪郭を得る──大腿、腕、胴体……頭。それは人型をしていた。巨影は踊るように片足をもたげ、振り下ろす。途端、路地の奥で建物がメキメキと音を立てて潰れてゆく──校舎と同じだ。この巨影が校舎を破壊したんだ。それは、つまり──
「だから、アンタのせいなんだよ」
「何が、僕のせいだって…?」
「校舎を、壊したのが。それに私が、こんなになっちゃった理由も。」
「一体僕が何をしたって?」
「何もしなかったからでしょ?察しの悪いヤツ」
「察しが悪いって…なんで今そんな話なんだよ、逆にオマエは察しが良すぎなんだよ!その癖に一匹狼気取って、格好つけて!」
「バカ」
こんなにストレートに感情をぶつけてきた楸は初めて────いや、一度だけ…あれは確か、小六の──
「もう、いいよ」
走り出す楸に、僕は待ってと声を掛けられなかった。何もしなかった人間には、いまさら何かを言える権利などない。そう、思った。悲鳴やうめき声、鳴り響くサイレンをよそに──霧は、どこまでも深くなっていった。
それから三日、霧は晴れることなく市街を覆い続けた。原因不明の濃霧に街はざわめいていたが、それ以上に多発する原因不明の建造物倒壊事故に恐怖していた…と思う。あの日から僕はほとんど部屋に籠りきりで、窓の外すらろくに見ていない。楸に声を掛けられなかったあのときに、僕の心は死んでしまったのかもしれない──そんな絶望と戯れながら今日、やっと窓の外を見た。霧の奥に街の輪郭が沈んでいる。時折、ドォーン…ドォーン…と太鼓のような地鳴りが響いてくる。──あの巨影の足音だ。根拠はないけど、僕はそう確信しながら…またベッドに倒れこんだ。
楸は「アンタのせい」だと言った。あれは五年前の夏の、楸が転校する直前だったはず。楸が昔住んでいたマンション──そのすぐ近くの河原、高速道路の高架下で、僕らはよく遊んでいた。とは言っても、そこは腐っても思春期に足を突っ込んだ悪ガキたちの遊びだ。それに楸はそのころ、すでに非行少女だった。その日も楸はどこからか〝拾ってきた〟というタバコを口に咥えていた。
「ほら、オトナっぽいでしょ?」
どこか自慢げに目を細める楸を、僕は慌ててたしなめた。
「ヒサギ、ダメだよこんなの…」
「ダメじゃない。バレなきゃヘーキでしょ。」
「バレるよ!ここ、ヒサギの家から近いもん。」
「ママに見つかったってなにも言われないし、ほかの大人だって、アンタがチクらなきゃ私のことなんか叱らないもん。」
「でも…」
「こわいんだ?私はこわくないよ、アンタと違ってもうオトナだから」
ニヤニヤ笑いながら放たれた楸の言葉に、当時の僕はカチンと来てしまった。
「で…でも、じゃあなんで火をつけてないのさ。タバコなら火をつけて、ケムリを吸うものだろ!」
…その時の楸の顔は、今でも覚えている。いつもの飄々とした態度とはまるで違う、凍り付いたような表情。──思えば先日の浜辺で目を合わせたとき、楸の眼に宿っていた感情はそれと同じだった。
「ライター、持ってないから…だし。」
「ホントに?ライター持ってたら、吸うの?」
「吸うよ、ホントに」
「ウソじゃない?」
「しつこいなぁ。もとはと言えば、アンタがこのまえタバコ吸ってる人がカッコイイって言ってたから…」
しまった、という顔。この時の僕には何がなんだかわからなかったけれど、まあつまり、そういう事だったんだと思う。
「…」
「…」
「…ねえ、アンタはさ」
「…うん」
「私のこと、どう思ってるわけ?」
「どうって…友達でしょ」
「そうじゃなくて。私のこと、スキかキライか、それで答えてよ」
「好きか嫌いかって…そんなの、好きだけどさ、幼馴染だし。」
「…察しの悪いヤツ」
「何が?変なコト聞いてくるヒサギだって悪いじゃん、そんな、普通なら男子に聞くようなこと、僕に聞いたって…」
楸は微妙な間を置いてから、僕の頭を小突くと、咥えていたタバコを僕のポケットに捻じ込んだ。
「え、あ、ちょっと、こんなのいらないよ、見つかったら怒られるから!」
「うっさいな、黙って受け取んなよ。センベツってやつなんだから」
そう言って、楸は僕の前から姿を消したんだ。身勝手な奴。本当に身勝手で、自己中で………
巨影の足音が、遠くで響いていた。ベッドから飛び起きて、引き出しを開ける。あった──あの時のタバコ。カビなんか生やして、このクソッタレ。それでも、煙草をポケットに捻じ込んで、適当なライターを手に取る。僕は家を飛び出した。
アイツの家、いない。帰ってすらいないらしい。街、見当たらない。一緒に行ったことのある場所には全て行った。SNS、反応なし。まあ当たり前だよね、僕は今まで何もしてこなかったんだから。立ち止まって、息を整える。電話が鳴った。
「…もしもし、僕。」
「…私。河原に、いるから」
それだけで、電話は切れた。
楸は、高架下の壁にもたれ掛かっていた。
「ママから電話来たよ、アンタが私を探してるって。……まったく、自分で探す気なんてさらさら無いってイヤミのつもりなのかな。」
彼女は煙草を咥えている、あの時と同じだ。でも今度は、火がついていた。
「あは、シラけた面。煙草ぐらい吸うもんだよ──オトナはさ」
ドォ──ン。腹の底が引き攣るような地響きとともに川面が爆ぜた。巨影が、すぐそこにいる。
「見てよ、アレ。アンタがずっと何もしてくれないからさ、あんなになっちゃったんだ」
ドォ──ン。地響きとともに、橋のたもとが足形に凹んだ。巨影が、近づいている。
「二人目のパパがさ、いなくなってからなんだ。なんか変なことになっちゃってさぁ。収まらないんだよ、〝あれ〟。」
「楸の、虚栄心が?」
「キョエイシン。」
巨影が腕を振り上げ、橋を掴む。硬いものがひしゃげて折れる音、そして爆発のような轟音とともに、橋が崩れ落ちる。──でも、僕も楸も一歩も動かなかった。
「なにそれ?挑発のつもり?逃げなよ──私に何もしてくれなかったアンタを、きっと私のキョエイシンは許さない。…殺されちゃうかもよ」
楸の声が震えているのがわかった。
「…僕が今まで何もしてこなかったのは、楸──オマエが嫌いだからでも、好きだからでもない。僕が、知らなかったから。」
「言い訳?」
「違う、決意表明。楸──僕も、たぶん…楸のことが…その、好き……だと思う」
「…は!今更それで?なに?命乞いの方がまだカッコイイよ」
──ドン。至近距離で轟音が響き、僕のすぐ横に立つ木立が地面ごと吹き飛んだ。自分の唾を飲み込む音がはっきりと聞こえた。
「…だからこそ、楸にはもっと自分を大切にしてもらいたくて」
「みんなそう言うんだよッ!私が死のうが涙の一つも流さないような奴らに限って、寝覚めが悪いから死ぬなって言うんだッ!!」
震える手で、ポケットのタバコを掴む。
「…はあ?なにさ、それ?まだ持ってたの?」
「ああ、そう…まだ持ってたんだよ、あの時の、オマエの背伸びを」
「フン。それで、今更そんなもんをどうするって?」
「吸うんだよ、僕も──オトナだからさ」
咥えたタバコにライターを近づける。五年前のカビ臭いタバコだ、唇に乗せただけで変な味がする。震えているのは、それが理由だ。怖いわけじゃ──ない。
思い切りホイールを回し、着火する。湿ったタバコにはなかなか火が付かず、格好なんかつきやしない。その間に楸のキョエイシンは僕のすぐ背後の地面を抉り取る。目の前を踏みしだく。顔のほんのすぐ横を掠める。
「楸、ビビってるのはオマエのほうだ!その木偶の坊、ホントにただの虚栄心だな!あんだけ派手なパフォーマンスを見せびらかして、いまさら僕の一人も殺せないのかよ!」
声が震えているのが自分でもわかる。でもそれは楸だって同じだ。楸の足が震えているのが見える。
「何がァ!そう……そうだ、いまさらアンタの一人や二人、殺したって──」
上ずった楸の声に呼応するように、刹那、〝視線〟に確かな殺意が宿るのを感じた。ゴウ、と一際大きい風切り音が響き、凄まじい風圧が意識を刈り取る。
あ……これは────
──やってしまった、私はそう思った。アイツの挑発で、ほんの一滴のかすかな激情で、すべてが黒く染まったように感じた。キョエイシンだけじゃない。私そのものが瞬きの内に黒く染まり、また次の瞬間に色を喪った。やってしまった。またやってしまった。またこれだ。ああ──私はなんてバカなんだろう。ただの虚栄心で、ただひとつの大切な思い出も、ただ一人の大切な人さえも壊して────
──目を疑った。アイツは立っていた。その肩も膝もガクガクと震えていたけれど、目だけは私を睨みつけていた。
「そんな強がりに溺れて、僕を殺した気になってんなよ!バカヒサギ!」
ドォン────。腹の底に響くような衝撃と、頭を殴られたような感覚。見上げれば────霧が、歪んでいる。違う、私のキョエイシンが、別の巨影に殴り飛ばされているんだ。霧の塊が吹き飛び、雲が裂かれて、空が晴れ渡る。ウソだ、そんなこと、あるわけ
「オマエだって──まだ子供、なんだよ…僕と同じでさ、虚栄心ばっかの、背伸びしたただのガキで──」
キメ台詞を言い終わらないうちに、アイツはむせて座り込んだ。正直カッコ悪い。気付けばもう、アイツの後ろに巨影はない。──当たり前か。アイツも、私と同じ──子供だもんね。
マズい、気持ち悪い、ケムい…というか臭い。呼吸するための筋肉が、必死こいて煙を体外へ排除している。…タバコがこんなに不味いなんて思わなかった。カビてるからかもしれないが、こんなものが嗜好品だなんて冗談じゃない。そう思いながら、僕は視線を上げる。
「ンフッ、ちょっと大丈夫?」
吹き出しそうになるのを必死でこらえながら楸が近づいてくる。なんだか、憑き物が落ちたような顔だった。僕は慌てて立ち上が──れなかった。とっくに腰が抜けていたのに、無理して立っていたんだ。やっぱり、オトナのふりなんてするもんじゃない。
「…楸こそ。もう大丈夫なわけ?」
「さあ?コドモだから、わかんない」
「そういうのは、言い訳に使うもんじゃ…まあいいや。」
まったく、いい性格してるよ。──僕も、もうしばらくは子供のままでいよう。そう思った。
キョエイシン 諸井込九郎 @KurouShoikomi
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