15:00 本日の授業終了

「うーっ、今日も終わったぁ」


 クーラーが効きすぎて寒気を覚えるサテライトキャンパスの教室の片隅で、トールの横に座っている伊藤いとうが大きく腕を伸ばす。その腕をおもむろに机の上に下ろした伊藤は、一瞬だけ、机の上にばらついたノートと筆記具を見下ろして動きを止め、しかしすぐに机の上のものをざっくりと自分のくたびれたディパックの中に収めた。


 その伊藤の、躊躇いと決意が同時に見える横顔に、小さく頷く。昼にトールが助言したことを、伊藤は、……実行するつもりだ。


「じゃ、また明日、な」


 筆記具を筆箱にしまうトールの耳に、伊藤の、少し急いた感じの声が響く。


「ああ」


 青ざめている気がする伊藤の頬に、トールはにやりと笑ってみせた。


 トールの笑みに釣られたのか、伊藤の顔が少しだけ、普段の色を取り戻す。大丈夫。きっと上手くいく。トールより少しだけ背の高い伊藤の背で揺れるディパックに、トールは胸の痛みを飲み込み、トールの横に座ったままのサシャの方に顔を向けた。


「良いなぁ、あの布」


 片付いた教卓から去って行く老年の講師が持つ大きめの鞄をうっとりと見つめるサシャに、胸の痛みが少しだけ癒える。トールと伊藤が受けているサテライトキャンパスの授業内容は、地元で活躍する人々が自分の経験や携わっている事業について説明するオムニバス形式の講義。今日の講師は、地元でも老舗である布と布製品を製造している工場の会長さんだった。その人が持って来ていた、鮮やかな模様が染められた手触りの良いサンプル品の布のことが気に入ったのだろう、授業中に回ってきた布の手触りを思い出すように何度も指先を上下に動かすサシャの、心を奪われたような表情に、トールは吹き出すのを辛うじて堪えた。


「着心地良さそうだし、何回洗濯しても色落ち少ないって言ってたし」


 サシャが暮らす異世界『八都はちと』にも、染料や鮮やかな色の布地はある。だが、色によっては洗濯時にかなり色が落ちるので、サシャが一時期お世話になっていた、八都の最高権力者である『神帝じんてい』の命で八都を守る黒竜こくりゅう騎士団や、『神帝』の近衛隊である白竜はくりゅう騎士団所属の騎士達の中には、自分の上着を洗濯に出さない輩もいた。


「やっぱり、服は清潔にしておかないと」


「派手な上着、騎士達なら喜んで着そうだな」


 『八都』で信仰されている『唯一神』の教えの中にある言葉を呟いたサシャに、目立つことが好きな輩が多かった騎士団員達を思い出しながら声を掛ける。


「ヴィリバルト猊下とか」


「ラドヴァンさんも、毎日違う柄の上着にしそう」


 これまでにお世話になった人達のことを思い出したのだろう、微笑んだサシャの瞳から涙が零れる。


「大丈夫」


 その涙を慌てて拭いたサシャに、トールは何気無さを装って言葉を紡いだ。


「多分、時期が来たら戻れると思う」


「そう、かな?」


「うん」


 サシャとトールが時折遭遇する、古代の神殿で神々の像に触れると見知らぬ場所に『飛ばされて』しまう現象と、今回の現象は同じなのではないか。午前中に考えていたことを小さな声でサシャに話す。現在トールとサシャがいる場所は、トールにとっては『見知った場所』ではあるが、この推測でほぼ合っているだろう。古代の神殿の気まぐれも、どうにかしなければ。


「じゃあ、待ってれば」


 戻れる。その言葉を飲み込んだサシャの、小さく震えた肩に、そっと触れる。サシャだけが『戻る』のか、それともトールも、サシャの世界で再び『本』として生きることになるのか、それはトールにもサシャにも『決められない』こと。『運命』ならば、従うしかない。それも、確か、サシャが信じている『唯一神』の言葉を集めた『祈祷書』、サシャの世界におけるトールの中に書いてあった、はず。


「とりあえず、今はここを楽しもう、な」


 誰もいなくなった教室を見回し、素早く荷物をまとめる。


「俺の世界の『図書館』、見せてやるから、な」


「図書、館?」


 トールが口にした、サシャならば目の色を変えると判断した言葉に見事に食いついたサシャに、トールは吹き出すのを何とか堪えた。


「この下の階に、あるんだ」


 サシャが元気になってくれれば、今は、それで良い。忘れ物が無いことを確かめると、トールはそっと、サシャの、少しだけ温かくなった手を掴んだ。

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