10:35 小野寺とのやりとり
「
不意に明るくなった廊下に、思わずサシャの腕を振りほどく。
「数学教育の課題、出しに来たの?」
廊下の奥にある学生部屋から顔を出した細い影に、トールは頬の体温が上がるのを感じた。
「ああ」
教育学部に進学し、トールと共に数学の先生になるための勉強をしている幼馴染み、
「こっちは、今やっているところ」
高校の数学教員の免許を取るためだけに教育学部の授業を受けているトールと違い、卒業するために小学校と中学校の教員免許取得が必要な教育学部所属の小野寺が課されている課題は、トールより多い。教育実習に行くための模擬授業もある。授業や課題が多すぎて、小学生の頃からずっと通っていたサッカー&フットサルクラブからも縁遠くなっている。それでも小野寺は、愚痴一つ吐かず頑張っている。
「そう言えば」
憧憬に似た想いを振り切るために小野寺から半分だけ目を逸らしたトールの耳に、小野寺の小さくも良く響く声が届く。
「
「えっ」
すぐに、ディパックの側面ポケットからスマートフォンを取り出す。確かに、『寝坊したから直接バーガーショップに行く』というメッセージが
「じゃ、俺、バス乗り遅れるといけないから」
伊藤は、1限の教養授業を単位を落として大丈夫なのだろうか? これまでの伊藤の寝坊の頻度と、前に見せてもらった成績表を脳裏から引っ張り出す。必修の単位は落としていないし、実験や製図の授業は真面目に出ているらしいから、卒業は大丈夫だと思うが。溜め息が口をつく前に、トールは時間を確かめ、スマートフォンをディパックの側面ポケットに入れ直した。
「あ、そうだ」
頷くように挨拶をし、Uターンしかけたトールの右手に、小野寺の冷たい手が重なる。一瞬鼓動が止まったトールの左手にあったのは、個包装の小さな飴玉、三つ。
「これ、勉強会の余り。司の分も」
三つあるということは。トールの横で俯いているサシャを確認し、小さな声でお礼を言う。何も言わないけど、小さなところで気遣いを見せる。それが、トールが小野寺を好きな理由の一つ。だが。狼狽する心に首を横に振る。この気持ちは、……隠し通さなければ。
「じゃ、また」
軽く挨拶をして、サシャの右袖を小さく引っ張る。
そう言えば、次の小野寺と一緒の教育学部の勉強会では、トールが何か差し入れを持っていかないといけなかった。再び階段を降りながら息を吐く。駅前商店街の中にある百貨店の地下食品売り場に、夏でも保存が利く小さくて誰からも好まれるお菓子があるだろうか。
〈……?〉
そこまで考えて、不意に、左腕が温かくなっていることに気付く。サシャの右腕が、トールの左腕に絡まっている。そのことに気付くまで、意外に時間が掛かってしまった。
「サシャ」
お礼を言う代わりに、まだ左手の中にあった飴を一つ、サシャに渡す。
伊藤に渡す飴をズボンのポケットにしまってから、トールは手本を示すように、個包装を破って中の飴を口に放り込んだ。
「……」
トールと同じようにして飴を口に入れたサシャの首が少しだけ傾く。梅の味がする、甘いのか酸っぱいのか爽やかなのか分からないのど飴は、トールでも首を傾げたくなる味。それでも、甘さが気に入ったのか、階段を降りながらゆっくりと飴を口の中で転がすサシャの、膨らんだ頬に、トールの心は少しだけ温かくなった。
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