10:20 レポート提出

「疲れたー」


 教授が去った後の講義室で、大きく伸びをする。


 今日のトールの予定は、1限のこの授業と、3限のサテライトキャンパスの授業のみ。3限の授業の後は、図書館でレポートを仕上げる予定にしている。そこまで確認したトールの心臓を鷲掴みにしたのは、冷たい感情。今日が、あの不運な事故の日、と、いうこと、は……。


「トール?」


 横から聞こえてきた声に、はっとする。


 そうだ。サテライトキャンパスのある『駅前』に行くために、11時に伊藤いとうと大学の正門で落ち合うことになっている。それまでに、仕上げた課題を提出しに行かなければ。


 小さな震えが見える手で、机の上のものを片付ける。課題を詰め込んだクリアフォルダを机の上に取り出すと、トールは、背負っても背中が痛くならないようにディパックの中を整頓してからファスナーを閉めた。


「行こう、サシャ」


 椅子の上に敷いていたお手製の座布団を肩掛け鞄にしまったサシャに、左手を差し出す。だがすぐに、トールは差し出した左手でサシャの右袖を小さく掴んだ。人が多い場所で、手を繋いで歩くのは、ちょっと、……恥ずかしい。


 そのまま、サシャが自分の左斜め僅か後ろに居ることを確かめながら、エレベーターホールまで進む。この、階数がやたら多い建物の中に、トールが所属する物理工学科の教授達の部屋も、トールが許可を得て特別に受講している教員養成系の数学を教える先生方の部屋もある。雨が降るかもしれない日に、外に出ることなく課題を提出できるのは正直ありがたい。丁度下りてきたエレベーターに、トールは、再び震えを見せるサシャと共に乗り込んだ。


 僅かな機械音と共に上へと二人を運ぶ小さな箱に顔色を変えたサシャの、掴まれている左腕から感じ取った震えに頷きながら、まずは、十二階にある物理工学科の事務室へ行く。ここに、物理工学科の先生方が課したレポートを提出する郵便受けのようなボックスが並んでいる。そのボックスに大きく書かれた課題名を確かめながら、トールは薄いレポート用紙の束を丁寧にボックスに投函した。


「紙、いっぱいだね」


 聞こえてきた声に、思わず微笑む。


 提出するレポートを書くための、値段が張る『羊皮紙』を、サシャは苦労して手に入れていた。その苦労をしないために、トールはサシャに植物から作ることができる『紙』の作り方を提案し、ようやく、帝都ていとで知り合った製本師カレヴァと一緒になんとか、紙のようなものを作ることができるまでになっている。今、サシャの目の前にあるのは、苦労して作っている『紙』がたくさんある、トールだったら『羨ましい』と思ってしまう光景。


「あ、ごめん」


「良いって」


 朝の『約束』を思い出し、俯いたサシャに首を横に振る。


「行こう」


 出せる課題は全て提出したことを確認すると、トールはそっとサシャの背を押し、事務室を後にした。

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