8:40 一限目

 朝一の授業らしく、広めの講義室に人影は疎ら。


 普段よりも少し後ろの席に、トールはサシャを案内した。


「……」


 作り付けの机と、机に付いている折りたたみ式の椅子に言葉を飲み込んだサシャを確かめてから、トールも音を立てないようにディパックを肩から下ろして椅子に腰掛ける。そう言えば、サシャの世界の講義室には、机も椅子も無かったな。そんなことを考えながら、トールはディパックから教科書とノートと筆記具、タブレット端末と喉が渇いた時用の水筒を取り出し、使い勝手が良いように並べた。サシャの世界では、普通の学生は、道端で購入した藁束を冷たい石畳の床に敷いた上に座って教授の話を聴くが、お金を余り持っていないサシャは、古い毛織物を裂いて自分で編んだ座布団を使っている。


 座面が小さい、座り心地の悪い椅子に上手く腰を落ち着かせるためにお手製の座布団を取り出したサシャを確かめてから、タブレット端末の電源を入れる。教養講義として位置づけられているこの授業では、授業資料を大学の学習支援システム経由で配布している。昨夜ダウンロードした授業資料をタブレット端末に表示するトールの指先を凝視するサシャの視線に、トールは再び大爆笑を堪えた。


「水分、補給しておいた方が良いかもな」


 水筒の水を一口飲んでから、サシャに、先程渡したペットボトルを取り出すよう促す。


「蓋、捻ったら開け閉めできるから、飲んだ後は零れないようにしっかりと閉めて」


「う、うん」


 手の中のペットボトルの中で揺れる茶色の水を見つめ、小さく唸ったサシャに、トールは学生の出入りが頻繁になった講義室を横目で確認しながら小さな声を出した。


「あ、中身は、『麦湯』を冷やした奴だから」


 おそらく、ペットボトルの中の水の正体が分からないのが、サシャの逡巡の原因。トールのその予想は当たっていたようだ。トールの言葉に大きく頷いたサシャは、意外に器用な手つきでペットボトルの蓋を開け、中の麦茶を一口だけ、啜った。


「……冷たい」


「蓋、しっかり閉めとけよ」


 微笑んだサシャに頷く前に、講義を担当する教授が教壇に立つ。


 資料に載っている数式は難解だが、その数式を説明する教授の話し方は明快。その明快さが好きで、トールはこの授業を受けている。タブレット端末上に表示中の数式をノートに写し、教授の説明を色付きのボールペンで書き加えながら、横目でサシャの様子を確かめる。授業資料の数式は、サシャの世界ではまだ発見されていないもの。しかし教授の説明が面白いのか、サシャは、身体を時折激しく揺らす教授をじっと見つめている。大学、連れてきて良かった。安堵の息を吐くと、トールは再び、難解な数式に集中した。

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