一人と一冊の長い一日

風城国子智

8:15 横断歩道

 耳に響く『いつものざわめき』に、はっと顔を上げる。


 視界に映るのは、数珠繋ぎになって進むカラフルな車列と、信号待ちをしている中学生や高校生の白と黒の制服群。普段と同じ朝の通学風景に、違和感を覚える理由は。


〈俺、……異世界の『本』、だった、はず〉


 肩に掛かるディパックの重みと、身体全体にまとわりつく蒸し暑さに、小さく唸る。今のトールは、きちんと、『人間』の姿を保っている。不運な事故で『異世界』に飛ばされ、『祈祷書』と呼ばれる地味な『本』に生まれ変わってしまったことは、夢、だったのだろうか。


「……?」


 足を確認するために俯いた次の瞬間、目に入った真っ白な髪に、叫び声を飲み込む。トールの斜め後ろで小刻みに震えている、トールの肩よりも下に頭がある白い小さな影は、間違いなく、異世界では『本』であったトールをエプロンの胸ポケットに入れ、様々な場所を共に旅した勉強好きな少年サシャのもの。


「サシャ」


 周りに聞こえないレベルの小さな声で、色が見えない袖を小さく掴む。


「トール?」


 心細い声と共にトールを見上げた蒼白い頬に、トールは「大丈夫」の笑顔を作ってみせた。


 そのタイミングで、スクランブル信号が青に変わる。


 渡らなければ。その判断と共に、トールは掴んでいたサシャの袖を強く引っ張った。


「トール……」


「大丈夫」


 歩行者信号が青である間は、車は動かない。自分のものだとしっかりと分かる足でアスファルトを踏みしめる。


 何故、トールが元の世界に元の姿で戻っているのか、その理由は分からない。サシャがトールの世界に『来てしまった』理由も。考えるのは、横断歩道を渡りきってしまってからにした方が良いだろう。あらゆる方向に向かって進む白と黒の群にぶつからないよう、トールはサシャを左腕で庇うようにして横断歩道を斜めに渡った。特に、もうすぐ信号が赤に変わるのに突っ込んでくる自転車には気をつけなければ。

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