滑稽な鶏話(佐伯叶の場合)

「はい。佐伯叶です」


何年生だったかは忘れたけど、私の小学校の頃の担任は生徒を囚人のように出席番号で呼ぶ奴だった。当時私はそれがとにかく気に入らなくて、いつも大きな声で名乗ってから返事をしていた。別にその人に覚えてもらいたかった訳でもなく、ただ癪に触っただけだ。私たちには日々勉強しろと言うくせに自分は名前を覚える努力すらしないなんて。でも、一人一人の出席番号は覚えていたのだからある程度努力はしたはずだと、今になって思う。まぁ、小学生の私にそんなことを考える余裕や脳みそを持ち合わせているはずもなく、意地になって「佐伯叶です」を繰り返したのだった。


「13番、bの問題が解けたら黒板に書きにきてください」


「はい。佐伯叶です。解けません」


「明日の日番は13番です」


「はい。佐伯叶です。起きられないかもしれません」


「13番と5番、授業中は静かにしなさい」


「はい。佐伯叶です。問題を教えてただけです」


「13番、話はちゃんと聞きなさい」


「はい。佐伯叶です。聞いてます」


「13番、給食は残さず最後まで食べなさい」


「はい。佐伯叶です。食べられません」


「13番、口答えするのはやめなさい」


「はい。佐伯叶です。どうしてですか?」


「生徒は先生の言うことを聞くものだからですよ」


「じゃあ、どうして先生は生徒の名前を呼ばないんですか?そんなの、先生じゃありません」


それから1ヶ月もしないうちに、その先生は退職してしまった。何を理由に辞めたかは忘れたけれど、何にせよそれは表向きの理由で、本当は私の「佐伯叶です。」が関係してることは分かりきっていることだった。先生が辞めてからしばらく経った後、風邪の噂で聞いた。


「辞めちゃったあの先生、ビョーキだったらしいよ。人の名前を覚えられない、ビョーキ」


「へぇ。そんなビョーキあるんだね。何で、辞めちゃったんだろうね」


何で、辞めちゃったんだろうね。私の心の隅っこに、今でもその先生がいる。13番、あなたのせいですよ。そう言われてる気がするけれど、もう私は13番ではない。私の名前を知らない先生に、返事をする必要はない。






















七原くんは、高校2年生になる前の春休み、私と同じマンションに引っ越してきた。高校からは遠いのにわざわざなぜここに、と疑問に思ったけど、話しかけるほどの興味もなかった。まぁそれは、最初の話だ。同じ高校、しかも同じクラスとなれば嫌でも目に付く。七原くんは、男の子にしては華奢で色白の、高級猫のような容姿をしていた。ディズニー映画でよく出てくる、気取ったあの白猫。転校してきて初めの頃、クラスメイトたちは興味津々といった様子で七原くんの周りに集まっていた。私はそれを教室の真ん中の席の、ここではないどこかから、いや、教室なことには変わりないのだけれど、現在の教室ではないどこかから、ぼんやりと眺めていた。


「七原くんって、可愛いね」


「そうですか?」


「うん、女の子みたい。美少年って感じ。七原くん、お母さん似でしょ」


「あは。そういうあなたはお父さん似ですか?雄々しくて立派なお顔ですね」


七原くんの言葉に、教室はまるで雪降る真夜中のような静けさに包まれてしまった。正確には、七原くんの周りだけが音を無くし黙り込んだだけだったけど、ぼんやりとそれを眺める私には教室中が冷え切った気がした。七原くんは「立派なお顔ですね」と微笑んだ顔のまま「早く帰りたいのでそこを退いてもらえますか?」と言い放ち、机の横にかけたリュックを背負い教室から出て行ってしまった。楽しそうでも腹を立てているようでもない、心底つまらなそうな顔をしていた。



七原くんは庶務委員(委員決めの日に休んで押し付けられていた)で、週に一度課題ノートを集めて先生のところまで持って行っていた。その日は化学の課題で、私は範囲を間違えていたことに朝気付き、七原くんに提出することができなかった。放課後までには終わらせられたので、柊先生のいる第一理科室まで自分で持って行く途中、七原くんとすれ違った。転校初日のあの顔が頭によぎって、チラリと覗き見た。でも予想とは大きく違って、一冊の本を手に、好奇心に満ちた顔で目をキラキラさせていた。面白いおもちゃを見つけた子ども。何もかもつまらないとでも言いたげな、あんな大人びた顔をする七原くんが。一体何があったっていうんだろう。第一理科室に行って何か分かるかも、と思ったけれど、一クラス分のノートが机に積まれているだけだった。それの1番上に私のノートを重ね、部屋を出る。ぐるぐると、あの顔が頭の中で回っている。あれしか七原くんについての情報がなくて、ガムをいつまでも噛み続けてしまうように、味がしなくなっても脳に焼き付いて離れない。



















「一緒に帰りませんか、高峰くん」


「……何でお前なんかと帰るんだよ。方向真逆だろうが」


「帰り方分からないんですよね。案内してくれませんか、高峰くん」


「は?引っ越してきてもう2ヶ月は経ってんだろ」


「実は僕、記憶が抜け落ちる病気なんですよ。高峰くん」


「……認知症ってことか?」


「そうそう。僕ぐらい若くてもなるんですよね、困ってるんです。高峰くん」


「認知症って、そんな感じなのかよ」


「そんな感じです。高峰くん」


「くそっ、しょうがねぇな。でも俺お前の家知らねぇんだけど」


「Googleマップがあるから大丈夫です、高峰くん」


「……じゃあそれで帰れるじゃねぇか!」


「はぁ。分かってないですね、高峰くん。Googleマップを見ても、家の名前が思い出せないから帰れないんですよ。」


「……俺だって知らねぇけど。お前の家の名前とか」


「……あっ今一瞬思い出しました。ラッキーマンション78です」


「名前くそだせぇな」


「僕もそう思います。高峰くん」


「つか思い出したなら一人で帰れんだろ」


「すぐに忘れるかもしれないじゃないですか。高峰くん」


「……そんなもんか?」


「ふふ、そんなもんなのです。」


「んじゃ行くぞ、Googleマップ見せろ。」


……え?!騙されるの?絶対嘘だと思うんだけど。私は高峰くんのピュアさと、七原くんが廊下ですれ違ったあの時と同じ顔をしているのに驚いて、思わず声をかけてしまった。「七原くん!」

…そして、私を振り返った七原くんの表情はあまりにも想像と違う、言い表せない殺気を纏っていた。


「何ですか?」


「……あ、あの、帰り方が分からないなら、私が案内するよ。マンション、同じだし。」


「いえ僕は……」


「よかったじゃねぇか七原。俺が連れてくより確実だしな。」


「え、ちょっと待ってください、高峰くん……」


さっさと教室を出て行った高峰くんを、七原くん捨てられた子どものような切ない目で見つめていた。それからしばらくぼうっとしたのち私に一瞥もくれず、高峰くんの後を追うように教室を出た。


七原くんの机には、一冊の本が置かれたままになっていた。廊下ですれ違った時に持っていた、あの本だ。七原くんは学校にいる間常にこれを持っている。この本と、高峰くん。私は七原くんにあんな顔をさせる原因が何なのか知りたくて、本に手を伸ばし、鞄にしまった。いけないと思いつつ、そのまま逃げるように学校を出た。七原くんと鉢合わせしないためにバスを何本か遅らせて、家路を急ぐ。


バスの中でずっと七原くんと高峰くんの会話を反芻していた。私も、七原くんと話したらその都度名前を呼ばれるのかな。そしたら、「はい。佐伯叶です。」なんて、言わなくていい。


"雛鳥、青を知らず逝く" 【鶏口滑稽】


ケイコウコッケイ?変な名前。ふと、この文字の羅列を見て柊先生のことを思い出した。一年生の頃、何かの集会で柊先生が進路について話す機会があった。うろ覚えだけど、


「鶏口となるも牛後となるなかれ」


こんな感じのことわざについての話だった。大きな団体の下っ端より小さな団体の頭になれ、みたいな意味の。それで、私は疑問に思って、集会が終わった後柊先生に聞いてみたのだ。


「下っ端でも、大きな集団から学べることって多いし、それはそれでいいんじゃないですか。」


そうだ。そしたら、こう言ったんだっけ。


「まぁそうだろうな。高校側としても有名大学に進んでくれた方が有難い。でもな、滑稽だろ。面白いだろ。鶏の頭って方が。」


およそ先生とは思えないその発言にびっくりしてしまって、その会話はそこで終わったんだった。


鶏口滑稽。流行ってる言葉だったりして?とりあえず私は本を開き、毎日が長旅のこの時間に、ゆっくり、謎を解くように読んでいくとしよう。


















「もうそれ、いらないです。返してもらわなくて結構です。そんな滑稽な鶏話の本を盗るなんて、物好きですね」


「……ごめんなさい。七原くんいつも読んでたから、どうしても気になって、でもすぐ返すつもりだったんだよ」


「それって、お店の物を盗っても同じこと言えます?すぐに返すつもりなら、持ち帰ってもいいんでしょうか」


「分かってる、本当にごめんね、」


「はい。もういいです。僕はもう、味がしなくなるまで読み尽くしましたので」


「……何度か読んだら、何か分かるのかな」


「何ですか?」


「ううん。何でもない。本当にごめんね。お詫びに帰り道案内しようか?」


「……ふざけてます?」


「どうして?だって七原くん、認知症なんでしょう?」


「もう思い出しました」


「でも危ないよ。また、忘れちゃうかもしれないし」


「あは。忘れるとしたら、あなたのこともきっちりと忘れますよ」


「この前は私のこと覚えてたでしょ?」


「あぁ、そりゃあ、忘れる以前にあなたと話した記憶すら持ってないんですから、忘れようがないでしょう」


「……七原くんって、嘘つきだよね。嘘つきっていうか、ホラ吹き」


「泥棒に言われたくないですね。泥棒っていうか、物盗り」


「私の名前、ちっとも呼んでくれないし」


「……なるほど、あなた僕に好意を抱いてるんですね?僕に近づきたくて、僕の物を盗ったんですね。へぇ、家も同じって、ストーカーにはコスパがいいんですねぇ」


「……何それ。そんなわけ、ないよ」


「僕は生憎、あなたにこれっぽっちの興味もないですよ」


「勝手なこと言わないで。七原くんなんか、好きなわけないでしょ。ただ本が面白そうだったから盗っただけ」


「そうですか。ならいいです」


「……七原くんって、変だね、変わってる」


「変わってない人間なんていませんよ」


「いるよ。無個性な人なんかたくさん」


「分かりませんか?無個性なことが、個性なんですよ。無個性である故変わってる。常識です」


「常識って、何の?少なくとも日本でその考えは浸透してないよ」


「僕の頭の中です」


「そんなの常識って言わない」


「僕は、僕の頭の中で生きてますから。これからもずっと。なので常識です。」


七原くんはそう言うや否や踵を返し立ち去っていってしまった。あの、心底つまらなそうな顔をして。どうやったら七原くんのあの時の顔を見られるんだろう。私は縋るように、何度も本を読み返していた。


で、驚いた。高峰くんが主人公と同じ言動をしていたから。ただの偶然だろうけど、何か引っかかる。七原くんが固執する本と、高峰くん。いくら考えても、取り出すたび鶏口滑稽、と嘲笑われるばかりである。鶏の頭ですらない私なのに。









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