チェンバー・メイドの心得 2
「忘れ物はない? 教科書はそろってる?」
「ニナ……今日は学校じゃなくて、キアンのとこに行くんだよ」
準備を済ませて部屋を出ようとしていたリュカに呆れた声で指摘され、そうだった、と私は額に手を当てた。
「ごめん、なんか癖でつい」
「まだ寝ぼけてるんじゃない? ゆうべ早く寝ないから」
リュカの何気ない言葉に、私は動揺を隠すように苦笑いを浮かべた。
昨日フィルが会いに来たことは、リュカには話していない。さっきそれとなく探りを入れてみたけれど、キアン以外の人物があの場にいたことは把握していない様子だったし、キアンと何を話したのかということすらも聞かれなかったので、曖昧な雰囲気のまま黙っていることにしたのだ。フィルが言っていた通り、会えないと分かっているのにわざわざリュカの心をかき乱す必要はない、そう考えての判断だった。
キアンには、リュカには絶対に言うなとかなりはっきりと口止めしておいたから、そこから漏れることはない……と、信じているけれど。
「そうだ。これ、お昼ご飯代」
話題の軌道がそちら側へ乗らないようにと、私はお金の入った小さな袋をリュカに差し出しながらそう言った。
「キアンに渡せばいいんだよね」
「うん。もし足りなければ、その分は立て替えてもらってね」
「分かった」
行ってきます、と続け、リュカは部屋を出た。廊下を歩くその足取りは、学校に行く時とは打って変わって軽やかで、何ならスキップしているのかと見紛うぐらいに弾んでいる。ウキウキした気持ちが透けて見える後ろ姿にひそかに笑いをこぼしながら、私はそのまま部屋へと引っ込んだ。
「さて、と……やるかぁ」
部屋の片づけに取り掛かるべく、軽く伸びをしたりして体の準備を整えながら、荷物の量がどれくらいになるかを頭に思い浮かべた。
自分自身のものは本当に少なくて、普段着と呼べるものは片手で数え切れるほどだったはずだし、ここでお世話になり始めてからちまちま買い集めた本もまだ数冊程度しかない。
リュカにしても、黒、グレー、茶のボトムスにリネンかコットンのホワイトシャツを着ることが校則で義務付けられていて、帰った後もそのままの格好で過ごすことがほとんどのため、服装に制限のない王都の学校に通っていた頃よりもはるかに服の数は少なかった。
ただ、リュカのためと思って買った本はすごく多い。勉強に対する意欲をちょっとでも上げてもらおうと、リュカが何かに興味を示したらそのジャンルの本を買い与えたり、思い立ったらすぐに調べものができたりするようにと、いろいろな種類の辞典をそろえたりしていたから、リュカのベッドサイドの壁に置かれた本棚には、本がぎっしり敷き詰められている状態だった。
「とりあえず、ぜんぶ下ろしてしまわないと」
行儀よく並ぶ、ほとんど新品のようにきれいな背表紙をざっと目で追ってから、私はため息をついた。これまできちんと向き合ってこなかった自分の独りよがりな行動を、まざまざと見せつけられたような気がしたのだ。
教師になることを目標に、私はずっと勉強をしてきた。育成学校に入学する直前でリュカに出会い、その夢は違う形に変えたつもりだったけれど、私はどこかで自分の夢を、自分の望む形で昇華させたいと思っていたんだろう。
ここに魔術に関する本が1冊もないことが何よりの証拠で、読まれることなくただ居並ぶだけの置物と化したこの本は、私の教師になりたいという思いが具現化されたもののような気がしてならなかった。リュカが本当に興味のあることではなく、私が教えたいことを押し付けてしまっていたのではないかと、そう思えてしまって……。
「どうしようかな。学校に寄付するっていう手もあるけど」
たぶん、この本の表紙が開かれることは、この先しばらくないと思う。それならここでずっとお飾りとして埃をかぶらせるよりも、知識を必要としている子供たちの手に平等に行き渡るようにする方が、本だって冥利に尽きるというものだろう。
「買い取ってもらうと良いのではないかしら」
お昼休憩のすぐ後、片付けの進捗確認をしに来たクレティエンが、麻ひもで縛られた本の山を見渡しながらそう言った。
「ナターク共和国の大道芸団と一緒に、あちらの商人も来ているらしいのよ。ナタークでは今いろいろな国の本を集めて、首都に大規模な図書館を作ろうとしているそうだから、きっといい値段を付けてくれると思うわ」
「実は、学校に寄付しようかなと思っていたんです。いつかリュカが使いたいと思う時が来るかもしれないですし」
「まあ、それでも良いとは思うけれど……。でも少しでもお金に換えて、今リュカが必要としているものを揃えるために使う、という方法もあるわよ」
至極もっともな意見に、何の異論も思いつかない。私なんかよりクレティエンの方がリュカの現実をはるかにきちんと見通しているように思えて、ついこぼれそうになったため息を喉の奥におさえつけた。
「確かに、そう……ですね。それじゃ思い切って売ってしまいます」
クレティエンが買い取り交渉の話を通しておくと言ってくれたので、ありがたくお言葉に甘えて全面的にお任せすることにした。ギヨーム様の謎の収集品の鑑定のために、後日その商会の人が邸に来ることになっているらしく、ついでに査定をしてもらうようお願いしてくれるそうだ。
「他の者に触られたくないものや貴重品だけ持って付いていらっしゃい。あなたの部屋に案内するわ」
「運び出しはしなくていいんですか?」
「ヤード・ボーイたちに頼んであるから心配しないで。そもそもこんなにたくさんの荷物、あなた一人で運ぶのは無理でしょう」
そう言われて、曖昧にうなずく。
片付けを始める前は、荷物なんてほとんどないと思っていた。別館と本館、2往復くらいすれば、本を除いてすべて運び出せると判断していたのだ。でも実際まとめてみると、リュカの学用品だけでなく私自身の物もそれなりの量があって、今日中に部屋を空けるのは無理なんじゃないかと考えるほどだった。
「それから、服や靴はきちんと選別しておきなさい。まだ新しいものは持っていて構わないけれど、擦り切れたものや繕いが目立つものは処分してちょうだい」
「えっ、そしたら私、しばらく仕事着で過ごさなくちゃいけなくなってしまいます」
思わず口をついて出た言葉を受けて、クレティエンは呆れたような眼差しを私に向けた。
「お嬢様がおさがりを準備して下さっているの。サイズも違うし、華美なデザインのものばかりでそのまま着ることはできないでしょうから、また後日、手直しするよう依頼しておくわ。今あなたが持っているものを着るよりも、チェンバーメイドとしての格は上がるはずよ」
エレーヌ様のものを頂くなんて畏れ多いし、袖を通す勇気が出る日が果たして来るのかどうかということすら怪しいけれど、こちらに拒否権はないのだろう。クレティエンは私が何か言いかけた様子を目で捉えながらも、聞く気はないと言わんばかりに背を向けて部屋の外に出てしまった。
◇
「ああ、来たわねニナ!」
本館の自室に案内され、その広さと豪華さに浸る間もなく連れ出された先は、エレーヌ様のお部屋だった。
「さあさあ、こちらにいらっしゃい。まずは体のサイズを測りましょう。ああ、足の大きさも忘れずにね」
部屋に入るなり、エレーヌ様の号令と共に数人の女性に囲まれた私は、あっという間に下着姿にされてしまった。
「あ、ああ、あの、お嬢様、この方たちは……?」
「わたくしが昔着ていた衣装を仕立て直すために、懇意にしているブティックから来てもらったのよ」
「い、今からですか!? でも、ミセス・クレティエンは後日だと」
「わたくしが今日だと言えば、今日なのよ」
私の肩に手を置き、ニコリとほほ笑むエレーヌ様。その表情から、黙ってされていろという強い圧力を感じた私は、
「はい……」
そう小さく答えるしかなく、結局、私が解放されたのはそれから1時間ほどたった後のことだった。
「自分が採寸されるのは退屈で面倒で仕方ないのに、人がされている様を見るのはどうしてこんなにも楽しいのかしら」
ホクホク顔ではしゃぐエレーヌ様に対し、私の方は疲れ切った表情で力なく笑って答え、ティーカップに口を付けた。
採寸が終わった後すぐに自室に退散するつもりだったのだけれど、エレーヌ様に、これも侍女見習いの役目だと引き留められ、お茶のお相手をさせられ……いや、お茶の時間の過ごし方を学ばせて頂いていた。
「お母様もね、着なくなったドレスを仕立て直して、クレティエンに譲っていたそうよ。わたくしもお母様と同等の位置に立てたようで、何だか誇らしい気持ちだわ」
エレーヌ様のお母上――シャンタル様は、エレーヌ様がお生まれになってすぐ、ご病気で亡くなられたのだということは聞いていた。もともとお体の強い方ではなかったらしく、また当時、ブランモワ伯領は破産寸前まで追い込まれていたこともあって、いろいろな悪条件が重なっての不運だったそうだ。
「皆はそう言っているけれど、わたくしはお父様がすべての原因だと認識しているの」
思いもよらない話題に驚き、私はごくりと喉を鳴らして紅茶を飲み込んでしまった。
「えっ……と、あの」
「わたくしが生まれた時も、お母様が亡くなった時も、お父様はおそばにはいらっしゃらなかった。ブランモワ伯領が現在、フランメル王国随一の力を有しているなんてまことしやかに囁かれているのは、もちろんお父様のご尽力があったからよ。でもね、破綻の危機にまで追い込んだのもまた、お父様ご自身の責なのよ」
どこのどなたにうつつを抜かしていらしたのかは存じませんけれど、と小さな声で続けられたのを聞いた私は、エレーヌ様が、ギヨーム様が家族も領民もそっちのけで妻以外の女性に入れ揚げていた過去があると認識していらっしゃるのだと思った。
ギヨーム様はそんなチャラついた思想をお持ちのタイプにはとても見えないし、今のお二人の関係を思い返してみても、それを原因とした軋轢があるようには感じられない。エレーヌ様は全てを受け入れてお許しになったのか、それとも憎しみをひた隠しにして平気な振りをなさっているのか……。ケーキスタンドの一番上のプレートからチョコがけクッキーをつまみ上げ、それを幸せそうに頬張るエレーヌ様の表情からは、その心情を読み取ることはできなかった。
「それで、リュカはどう? 魔術の訓練は楽しめているのかしら」
エレーヌ様に勧められ、口に入れたビスケットを飲み込んだところでそう聞かれた私は、少し間を置いてから小さくうなずいた。
「学校とは違うやり方なこともあって、苦戦しているみたいですが……それでもやはり好きなことだから、頑張れているようです」
「そう。それなら良かったわね」
ほほ笑んでそう仰るエレーヌ様の表情に、二心を感じさせるような澱みは見られない。エレーヌ様は、私を危険な目に遭わせたということでキアン達に対してあまりいい印象を抱いていらっしゃらないから、もしかしたらキアンと交流があることに対してあまり良い顔をされないかも、と思っていた。でもこうしてお話しさせて頂いた感じでは、リュカが夢中になれるものに出会えたことを衷心から喜んで下さっているようだった。
「目標があるというのは良いことよ。日々に潤いを与えてくれるし、長い人生を歩むための原動力になるもの」
私は大きくうなずき、紅茶のカップを静かに取り上げた。
目指す先があるというのはこんなにも人を成長させるんだということは、ここ数日のリュカの様子を見ていてしみじみ感じていたことだった。
「それはあなたも同じことよ、ニナ」
「え……私、ですか?」
「何かやりたいこと、将来なりたい自分。そういうのはなくて?」
エレーヌ様にまっすぐ見つめられ、私は苦笑いを浮かべながら小さく首を横に振った。
「今のところは、何もございません。リュカを育てることで精いっぱいで、自分に費やす時間なんてありませんから」
「まあ、今はそうかもしれないけれど……でも、もしそういうものが見つかったら、迷わずその道に進みなさいね。そのためにここを出ていくことになったとしても、わたくしは喜んであなたを送り出すし、その夢を応援するわ」
有難すぎる言葉に胸がいっぱいになりながらも、何とか感謝の念を伝えると、エレーヌ様はほほ笑んでうなずいた。
「それまではわたくしの傍にいて頂戴ね、ミセス・アルエ」
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