チェンバー・メイドの心得 1

 翌朝。私はいつもより早い時間に起きていた。

 洗顔と歯磨きを済ませた後、寝間着から仕事着へと着替え、壁からぶら下げている小さな手鏡を覗き込みながら髪を編んでいく。この髪をセットする手間を省きたくて、むかし短く切ったことがあったのだけれど、それが大失敗だったことをふと思い出し、私は緩く口角を上げた。ふわふわとうねるくせ毛が好き勝手な方向へと浮きだってしまい、収まりがつかなくなってしまったのだ。小さな子供ならまだ可愛らしさも感じられただろうけれど、ボサボサとしか表現しようのないその髪型を晒し続けるのは、さすがに年頃の女子にはキツイものがあった。

 その当時働いていた下町の大衆食堂では、三角巾で髪を覆うことが店のルールとして義務付けられていたし、プライベートの時間をリュカ以外の誰か――例えば恋人だとか――と過ごすことなんて皆無だったから、対人関係に関する支障はなかったのが不幸中の幸いと言えるだろう。

編んだおさげをねじって一つにまとめ上げる。おだんごにした部分にシニヨンキャップを被せて、身支度は完成だ。


「この服を着るのも、今日でおしまいかぁ……」


 言葉にした途端、なんだか感慨深くなってしまった私は、鏡に映った自分の姿をこれで見納めとばかりにじっと見つめた。

 上級使用人ともなればこんな雑なまとめ髪なんて絶対にダメだし、薄くではあるけれどお化粧もしなくちゃいけなくなる。仕事着に関しては今まで通り支給されたものを着ればいいけれど、それだって午前と午後で装いが変わったりするのだ。

 仕事中以外の普段の装いにもいろいろと規制があるみたいだし、お給料が上がるのはありがたいけれど、そのぶん自分への投資をかさ増ししなくてはいけないことが憂鬱でならなかった。


「おはよう」

「あれっ、ずいぶん早いじゃない。どうしたの?」


 下の階に降りた私に声をかけたのは、ゆうべ一緒に夕食を摂ったメイド仲間の一人、ライサだった。

 キッチンでパン生地をオーブンに入れようとしていたところをみると、今日は彼女が使用人の食事係に当たっているらしい。


「今日中に部屋を片付けて、本館の方に移動しなくちゃいけなくてさ。リュカも朝からキ……友達のところに出かけるらしいから、早起きしたんだ」


 そう答える私に苦笑いを浮かべながら、ご苦労様、と返すライサ。


「早朝番でもないのに大変だね~。パンが焼きあがるまでまだ時間かかるけど、大丈夫?」

「じゃあ……昨日の残りで済ませようかな。どれくらい残ってる?」


 最悪、リュカの分だけでも準備できればと思い、ライサに尋ねる。

 彼女はキッチン奥のパントリーに入ると、ブレッドバスケットを上段から下ろし、中身を確認しながら、2,3人分くらいなら用意できる、と言った。


「きのう、夜間警らの人でお休みが出たからねー。卵と牛乳もあるし、パン・ペルデュでも作ろっか」

「え、でも」

「私の分も作るし、そのついでだから」

「それなら……うん、お願い。何かやることあるなら、手伝うよ」

「ホント? それじゃあ……」


 ライサのお言葉に甘えて朝食の準備を任せる代わりに、私は食料配達の荷車が来たら荷物の受け取りをすることになった。


「今日はハムとソーセージ、えーと、あとは……羊のお肉が届くことになってるの」

「あ、それじゃあディミトリが来るのかな」

「うん、多分そうだと思うけど……。何か用事でもあった?」


 ディミトリというのはオデットの息子だ。以前、ブランモワ領最南端にあるアムビルという街で奥さんの実家の肉屋を手伝っていたらしく、その店を先代が畳んだのをきっかけに、今はこちらに拠点を移して肉屋を営んでいるのだそうだ。こないだ、厨房でジャガイモの皮をむきながらオデットが話してくれた「何針も縫うような大ケガ」をしょっちゅう作っていたのが、この次男坊だったりするらしい。


「実は今日、リュカと“フォーミダーブル”に行こうと思っててさ」

「いいじゃーん! あそこのチキンフリカッセ、定期的に食べたくなるんだよねぇ」

「そうそう! ……あ、それでね、今日と明日って学校と役所が休みの日でしょ。だから混むんじゃないかなって」

「確かに。ああ、じゃあディミトリに席の予約しといてもらうよう、頼もうとしてたのね」


 フォーミダーブルは、今日キアン達と一緒に夕食に行く予定のブラッスリーの名前で、オデットの弟がやっている店だったりする。店主の甥にあたるディミトリなら、急な話でも通してもらいやすいんじゃないかと思ったのだ。


「なんか話聞いてたら私も行きたくなってきちゃった。食事当番じゃなきゃ、一緒に付いてったんだけどな~」

「あー……ハハ、残念。それじゃまた今度だね」


 ライサが今日、食事当番で良かったと思いながら、私は愛想笑いを浮かべた。







「お、ニナじゃねえか! 今日は早朝番か?」


 業者用の通門を開けると、ロバの引く荷車に乗っていたディミトリが、大きな口を横いっぱいに広げてニカッと笑った。


「いえ、用事があって早起きしただけです。ライサがいま手が離せないから、お手伝いしてるんですよ」

「ちょうど良かった、ちょっとお前に言付け頼まれてたんだわ」


 荷台から降りると、ディミトリはポケットからくしゃくしゃの紙切れを取り出して私に差し出した。


「……これは?」

「ガスパルんとこの息子先生からだよ。リュカのことで相談があるから、一度ゆっくり話してぇらしいぜ」


 さっきのさわやかな笑顔とは一転、ニヤニヤと意味ありげな笑みを浮かべるディミトリに、私は憮然とした表情を向けた。


「中身、読んだんですか」

「読んでねえよ! 今のがフレデリクからの言付けなんだって!」


 フレデリク・ビゼー。昨日、キアンと一緒に行ったビゼー道具店店主の息子であり、リュカの担任の先生だったりする。

 まだ若いせいか空回りすることが多いとはいえ、生徒の目線に立って物事を考えられるし、身分の分け隔てなく公平に接してもくれる。リュカがクラスメイトと問題を起こした時も、きちんと両者の間に立って、もちろん親への対応も欠かすことなく、理想的な形で解決へと導いてくれた。

 教育熱心だし、いい先生だと私個人は評価している。ただ一つ、難をあげるとするなら……。


「また近々、学校に伺いますって言っておいて下さい」


 私はぶっきらぼうにそう言って、ディミトリから受け取ったばかりの小さなメモ用紙を、開くこともせずに突っ返した。


「見ないのか?」

「どうせ自分の空いてる日を書いてるだけだろうから、見ても無駄です」

「無駄って……なあおい、いいかげん誘いに乗ってやれよ。これで何回目だ?」

「知らない。数えてない。興味がない」

「冷てえなあ」


 ため息交じりに私を非難するディミトリに、冷たくて結構だと返す。

 ビゼー先生はさっきも言った通り、教師としては申し分ないと思うけれど、私にとっては決していい人間ではない。それは保護者である私に対して特別な感情を抱いているから、というわけじゃなく……いや、その点も嫌悪感を覚える一因だったりするのだけれど、私を誘い出すためにリュカをダシに使うところが何より腹立たしいのだ。

 誰が誰を好きになろうが、それは自由だ。その対象が私であっても、私が制御できるところじゃない。ただ、それなら単身で正面突破して来いよと強く思う。

 以前、リュカの授業態度や、提出物の内容の煩雑さ、友人関係の改善について話し合いたいなんて口実で呼び出されたことがあった。その時はそれなりに実のある話ができたのはまあ良かったのだけれど、帰り際にリュカの教育方針について具体的に話をつめるために、今夜食事でもどうですか、なんて誘われた時は開いた口がふさがらなかった。

 今後のこともあるし、と思って波風を立てないよう、丁重な態度でお断りしたのが良くなかったのか、その後も何度かこういう誘いを仕掛けてくるようになってしまったし、あの時もっときつめの態度かつ言葉で叩きのめしてやっていれば、こんなにしつこくされることもなかったのかもと今になって後悔している状況だ。


「そんなことより、今日フォーミダーブルに夕飯を食べに行きたいから、席を取っておいてほしいってジュスタンに伝えておいてくれませんか」

「おー、おっちゃんとこ行くのか。……あ、じゃあそこにフレッドを」

「大テーブルでお願いします。今日は私とリュカだけじゃないから」


 ディミトリが何を言おうとしているかを瞬時に察知し、食い気味にそう突っぱねると、ディミトリは一瞬、衝撃を受けたような顔をしてからまじまじと私を見下ろした。


「おい、まさか……じゃあ、フレッドが言ってたのはマジだったのか」


 驚愕の事実とやらを知ってショックを受けている様子のディミトリ。ビゼー先生から何を聞いたのかは知らないけれど、きっと私の心身にいい影響を与えない内容に違いないので、あえて知らんぷりをしておくことにした。


「これ、リザーブ代です。夜の7時までには着くと思うって伝えといてください」


 事務的にそう言って、私は油紙に包んだ少しばかりの現金を差し出した。


「……ディミトリ、聞いてる?」

「お、おう、聞いてる聞いてる。分かった、これはおっちゃんに渡しとくわ」

「それじゃ、食糧庫の方に来て下さい。あ、ちゃんと入り口で靴の泥を落として下さいね」


 ディミトリはまだどこかぼんやりした声音で応えると、ロバに合図を出して、歩き出した私の後について食糧庫の方へと向かった。







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