禍転じて福となす

 調理器具やお皿が床に落ちるけたたましい音が響いた直後、慌てふためいて厨房に飛び込んできたのは、オデットやロジェではなく、クレティエンだった。


「一体何があったのか、説明してくれるわよね」


 額を真っ赤にして気を失っているバランド子爵の傍に膝をつき、生命活動が絶たれていないことを確認してから、彼女は鋭い眼光を私の方に向けてそう尋ねた。


「そ、その……バランド様はどうやらお邸の中で迷われたようなんです」

「それがどうしてマクシミリアン様が気を失っていることに繋がるの?」

「私に部屋の案内を頼もうとなさったんでしょう、こちらに入っていらしたまでは良かったんですが……」


 わざとらしく言葉を切って動揺しているふりをしてから、再び口を開く。


「足を滑らせてしまわれたのか、急に作業台の向こうにお姿が消えたかと思ったら、吊り下げていたフライパンが落ちてきて」

「……」


 クレティエンは訝し気だけれど、これは決して嘘ではない。私が頭突きをかました瞬間、勢いで振り上げられたバランド子爵の手がフライパンに当たって落ちたのだ。そのせいで作業台の上に乗せていたお皿やカトラリー、水差しも一緒に床に落下してしまい、辺りは破片やら何やらでひどい散らかりようだった。


「もしかしたら、それが頭に当たってしまったのかもしれません。一瞬の出来事だったので、私も何が何やら分からない状態なんですが……」


 これ以上ベラベラと弁解めいたことを喋れば逆に怪しまれるかもしれない。そう思った私は唇をかみしめ、胸元で手をぎゅっと握りしめると、不安げな表情を浮かべてみせた。


「だ、大丈夫でしょうか? ひどいお怪我などはされていませんか?」

「額が赤くなっているようだけれど、血が出るような怪我はなさっていないし、ちゃんと呼吸もしているわ。まあ、でも……念のため、お医者様に診て頂いた方がいいでしょうね」

「そうですか……」


 自分の前頭部の痛み具合から鑑みるに、いい感じに体重を乗せつつも手加減を忘れていない、本当に理想的な頭突きだったと自負しているけれど、まさか気を失わせる結果になるとは思っていなかったから、最悪の事態に陥らなかったことに安心して息をついた。


「あ……、私、誰か呼びに行ってまいります。バランド様を運んでもらわなくちゃ」

「待ちなさい」


 クレティエンが立ち上がりながら、私の動きを制した。


「わたくしは今朝、ジスランの所から戻ったら自分の部屋で待機するよう伝えたはずよ。それなのに、どうして本館で作業をしているのかしら」

「……ミセス・ロジェからそう指示を受けたからです」

「エルザから?」


 エルザというのはロジェのファーストネームだ。仕事中は上位使用人をファーストネームで呼ぶことなんて絶対にしない、生真面目でストイックなクレティエンが珍しく隙を見せたことに驚き、私は首を傾げた。


「本当に、彼女が指示を出したの?」

「はい。ミセス・クレティエンが私に部屋にいるよう言ったことは聞いていないし、業務内容の決定権は自分にあるからと……」

「……」

「この件についてはミセス・クレティエンに話すとも仰っていたんですが、お聞きではないのですか?」


 ロジェとクレティエン、2人と同じようなやり取りをすることになるとは思わなかった。そもそも、業務の申し送りがきちんと為されていないかったことなんて、私が知る限りではこれまで一度もなかったのに。

 私の問い掛けに答えないまま口元に手を当てて眉根を寄せ、視線を下に向けたクレティエンを見つめながら、私のあずかり知らないところであまり良くない何かが起きているんじゃないか、そんなことを考えていた。


「……ニナ、ラスペードをここに呼んで頂戴」

「は、はいっ! あ、でもバランド様を運び出すなら、もっと人手があった方が」

「あなたは今日はもう休みなさい。誰かに会っても何も話してはいけません。後でわたくしがあなたの部屋にうかがいますから、それまではリュカ以外の誰も出入りさせないように」


 クレティエンはこちらに視線を送ることもなく、厳しい表情のまま早口にそう言った。

 いつもなら、彼女の高圧的な態度に反感を覚えて、どう言いつけを破ってやろうかなんて企んでいただろう。でも今に限ってはそんなつまらない反発心は抑えた方が良さそうだと思った。


「さあ、行って。ラスペードは旦那様のお部屋にいるはずだから、緊急事態だと伝えなさい」

「分かりました」

「リネンフォールドの浅浮き彫りが施された扉を探すのよ。そこが旦那様のお部屋だから」


 軽く会釈をした流れで一瞬だけバランド子爵を見下ろしてから、その場を後にする。クレティエンが見せた険しい顔つきを見て湧き上がった一抹の不安、不吉な予感が現実のものにならないことを祈りながら、長く伸びる廊下を早足で通り抜け、いつもは立ち入ることを許されていない、邸の3階へと向かった。

 3階はギヨーム様とエレーヌ様の居室、そしていくつかのサロン部屋だけで構成されていて、1階や2階のように部屋数も多くなくややこしい造りではない。一度も足を踏み入れたことがないエリアだけれど、クレティエンが言っていたローレリーフの扉はすぐに見つけることができた。

 深呼吸を2,3回繰り返してから、髪や服を払ってあるていど整える。一度大きく強めに息を吐き出して意を決し、ギヨーム様の部屋の扉をノックすると、扉はすぐに開いた。


「どうしたんだ。何かあったのか?」

 中から顔を出したのはラスペードで、私の姿を見るや驚いた顔でそう言った。


「あ……え、っと」


 こんな所にまで入ってくるなとか、誰の指示だとか、まずそういうお叱りを受けるかと思っていたのに。

 まるで私がここに来る可能性を想定していたような、ある種の予定調和みたいなラスペードの対応に違和感を覚えて一瞬たじろいでしまった私を、ラスペードは不思議そうに覗き込んだ。


「ニナ?」

「は、はい、すみません。あの、ミセス・クレティエンが至急、厨房まで来て欲しいと」

「クレティエンが? ……分かった、すぐに向かおう。旦那様、いったん失礼します」


 ああ、という声が部屋の奥から聞こえ、ラスペードは軽くうなずいてからそのまま部屋の外へと出た。


「何があったのか、歩きながら説明してくれ」


 そう言われて、厨房に向かって早足で歩くラスペードの後に付きながら、クレティエンに伝えたことと同じ話をもう一度繰り返す。ラスペードは相槌を打つこともなく私の話を聞いていたけれど、急にぴたりと足を止め、私の方に振り返った。


「それは本当の話か?」


 ラスペードの青い両の目が、私の姿をまっすぐに捉えている。何か別の事実があることに気付いているのかどうかは分からない。でも私の言葉が真実なのかを探ろうとしているのは確かで、その目尻に刻まれた皺は、元々いかめしい彼の面差しを更に厳しいものに変えていた。


「もしかしたら実際は違っていたのかもしれないですが、私が見た限りではそういう状況でした」

「……」


 こちらを捉える視線が緩むことはない。今の返答では、ラスペードの猜疑心を取り去ることはできなかったらしい。

 もう少し何かいい具合の誤魔化しをするべきか悩んだけれど、


「……すみません、これ以上うまく説明できないです。私が話したことが事実かどうかは、厨房でバランド様の状態を見て判断して頂けますか」


 そう答えるに留めた。

 言葉は、その事柄に整合性がない場合、重ねれば重ねるほどバランスを失っていく。どれだけ丁寧に慎重につみ木を積み上げても、ピースの一部が欠けて安定感を失っていればそこから崩れていくのと同じだ。欠けたつみ木しか持ち合わせていないことを分かっていながら、さらに言葉を重ねていくのは悪手でしかない。

 ラスペードは何か言いたげに、しばらく私を見下ろしていたけれど、最終的には私の言葉を受け入れたようだ。それ以上私を問い詰めるようなことはせず、黙ってこちらに背を向けて再び厨房の方へと歩き始めた。







 真実を伝える、という手もあった。

 バランド子爵が何か企んでいること、その為に自分が呪術に掛けられそうになったこと、そしてもしかしたら、彼の魔手はすでに誰かに及んでいるかもしれないこと。私の言葉を丸ごと信じてくれるとは限らないけれど、それでもバランド子爵に対してあるていど牽制を図ろうとする動きは取るだろう。

 私が口を噤んだのは、いくら相手が非道な手段で私を利用しようとしたからと言って約束を反故にするのは人倫にもとる、なんて無垢な道義心からじゃなく、ただ単に私が誰のことも信じ切れなかったからだ。

 バランド子爵は、ブランモワ家にとっては敵に値する人物かも知れない。でも敵の敵が味方になるとは限らないわけで、両家の軋轢に何かしら関わったということで私自身が闇に葬られる可能性だってある。

 ギヨーム様は、良いお方だと思う。そしてその周囲の人たちも。ただどれだけいい人も、自身や自分の大切なものを守るためなら、相手が誰であれ手段を選ばずに冷酷な裁断を下すだろう。何が起きているのかはっきり分からない中で、自分の手の内をかんたんに晒してしまえるほど、私は純粋な人間ではないのだ。


「……ねえ、ニナってば」


 ハッと気付いて顔を上げる。部屋の入口に立っていたのは、学校のカバンをだらしなく肩から提げたリュカだった。


「どうしたの? さっきから何回も声かけてたのに」

「ご、ごめん。ちょっと疲れちゃって、ボーッとしてた」


 前髪を直しながら慌てて立ち上がる。リュカは訝しげに首を傾げて私を見つめてから小さくため息をついて勉強机に向かうと、乱雑にカバンを放り投げた。


「帰ってくるの、早かったね。何かあったの?」


 不機嫌そうな横顔に、問いかけてみる。いつもなら何も答えずにただ大きな物音を立てて苛立ちを表現するだけなのに、今日のリュカはそのいつもとは違ったようだ。


「キアンが、帰れって」

「え、魔術の勉強は?」

「魔力操作の練習をやっとけって、それだけ言ってさ。そのまま出掛けて行っちゃったんだ」


 リュカはカバンからノートやら鉛筆やらを取り出しながら怒りを含んだ声でそう言うと、今度は大きく息を吐き出して椅子に力なく腰掛けた。


「ホント腹立つ。もう日にちがないっていうのに」

「まあ……仕方ないよ。急な用事ができたのかもしれないし」

「でも約束は約束じゃんか。何で別のことを優先させるんだよ」


 放課後2人で秘密の作業をすることになっていたのに、それを反故にされたことがかなり堪えているようだ。

 リュカは、仕方ない、と諦める選択肢を持っていない。それは何かを達成しようとする時にはプラスに働くけれど、こういう本当にどうしようもない状況になった時は役に立たないどころか、全ての行動を阻害する要因にもなってしまう。

 今も、出された宿題の問いを目で追ってはいるけれど、明らかに集中に欠けてしまっている状態だ。


「先におやつにしない?」

「しない! 宿題やってからでいい!」


 こうなったらもう時間が解決するのを待つしかない。好物のネクタリーヌや、ジスランからもらった外国の珍しいお菓子なんかでは、リュカの腹が収まることはないのだ。

 宿題が終わった頃を見計らって、声を掛けよう。そう考えた私は肘掛椅子に再び腰掛け、サイドボードに伏せたまま置いていた古い本を取り上げた。

 それから、どれくらい時間が過ぎただろうか。イライラを募らせては机の足を蹴ったり、わざと大きな音で鉛筆を置いたりと、自分なりに何とかストレス発散を試みていたリュカも、いつの間にか集中して宿題に取り組んでいる。窓から見える空はもう、夕焼け色に染まりつつあった。

 不意に、部屋のドアをノックした音が響いてそちらに目を向ける。続いて、クレティエンだという声が聞こえたので、私は本を置いて立ち上がった。


「リュカがいるんですが、構いませんか」

「大丈夫よ。聞かれて困る話ではないから」


 部屋の中に通すつもりだったけれど、クレティエンは入るつもりはないらしく、開けたドアの前で私に一枚の紙を差し出した。


「……? これは一体」

「あなたの新しい業務内容よ」

「えっ」

「あなたはお嬢様専属のチェンバーメイドとして、わたくしの下についてもらうことになりました。居室も本館に移しますので、明日中に荷物をまとめておきなさい」


 あまりに急な話に、頭が付いていかない。下級使用人の中でも一番下っ端だった私が、いきなりそんな上級使用人に格上げされる理由が全く分からなかった。


「ああああ、あのっ」

「拒否権はありません。これは旦那様が直々に下した決定事項ですからね」

「き、拒否だなんてそんなつもりはないです、光栄に思います! でも、」

「でもの続きは言わなくて結構よ、聞く気はありませんから。とにかく、明日はこの部屋の片付けと掃除をすること。次の週には新しい子がここを使う予定だから、きちんとやっておいて頂戴。……それから」


 クレティエンは咳ばらいをし、勉強机に向かっているリュカにチラリと目をやってから、わずかに体を傾けて私の方へと近づいた。


「今日、厨房であったことは誰にも話さないように」


 低く小さな声で言われ、そういうことか、と合点がいった気がした。私の何が認められて何段階も上まで昇進したのかが見えてこなかったけれど、これはたぶん、余計なことを喋らずにいれば待遇を良くしてやるということを暗に示されているのだ。

 もちろん、こちらについても拒否するつもりはない。私が神妙な面持ちでうなずくと、クレティエンはかすかに表情を緩めた。そして私が握りしめた紙を指さして、しっかり頭に叩き込むように、と言い残すと、その場を後にした。






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