02.ドロドロ男



 ぎょっとした男は目を見張る。通勤ラッシュの中を両断するように歩いて来たのだ。突然現れたように見えたんだろう。チラシ配りの女性も、隣に立つ私に目を丸くしている。……然しこの男、この女性と近い年齢だろうに、どうしてこうも程度が違う。


 男の髪型は、今や流行りに乗るけど個性は無いですと紹介するような髪型になっている黒のツーブロックで、ジャラジャラとした金のネックレスと便所サンダルみたいな合成樹皮製の黒い履き物が、悪趣味なジャージで十分な下品さを肥大させていた。無精髭も汚らしいが何が一番酷いって、案の定酒臭い。……し、何だか、森? みたいな臭いがする。キノコ臭いと言うか。


 女性を一瞥して、暴力を振るわれた様子は無いのを確かめてから、改めて男を見上げた。


「やめませんか。警察署も近いですし」


 驚いたまま固まっていた男は、癪に障った勢いで我に返る。


「ああ!? 何だお前はよォコラ! その制服、そこの八高やつこうじゃねえか、ガキはさっさと学校行ってろ! ……あァ!?」


 八高やつこうとは私が通う、公立高校の略称である。


 男のがなりは続く。


「この……っ、ちょっとそいつに、傘貸してくれって頼んだだけじゃねえか、何偉そうに騒いでんだよ!」


「傘なら私のあげますから」


「だったら早く手ェ離せやボケッ!」


 そうこいつ、さっきから喚きながら私の手を払おうと、両腕を使っているが苦戦している。運動部に属していない所か、体重が標準値を下回っているような細っこい女相手に、まるで大木に挑むかの如く微動さえ出来ていない。


 しっかし、鉄村の奴遅い。


 辺りに目をやってまだ来ていないのを確かめると、取り合えず女性へ言った。


「どうぞ、チラシ配りに戻って下さい。何とかしときますんで」


 女性は私に気付くなり、飛び上がって肩をすくめる。


「えっ!? あ、ああ、えっと……」


「?」


 酷く驚かれた。いや、怯えてる? 何に? ……私にか? そんなまるで、化け物にでも睨まれたみたいに。


 男の後ろに立つ雑居ビルの自動ドアに映る、何かに気付く。正体は位置から考えるに、男の腕を掴んでいる私だ。然しどういう訳だか、手足が無い。身体は黒くぶよぶよとした肉塊のようになっていて、安っぽいCGのような質感で佇んでいる。顔と思わしき位置に開いている二つの穴には白濁した眼球が収まり、垂れ下がる肉の隙間からじっとこちらを覗いていた。


 息を呑んでいる自分に、漸く気付きながらそれへ問う。


 何だ、お前。


 左手に握っていたビニール傘が奪われた。


 傘を奪ったものを、咄嗟に目で追いかける。


 男の左腕だ。


 男は、まだ私に掴まれて自由が利かない右腕に腹が立ったのか、奪った傘を槍のように持ち替え私の顔へ突き出した。チラシ配りの女性が短い悲鳴を上げて縮こまり、それに驚いた往来が一時停止してこちらを見る。私はうんざりと内心で零した。


 いやそれは度を越してるだろ。


 男と向かい合ったまま右腕を放し、車道に出る格好で跳んで傘を往なす。女性に遅れて、辺りからも悲鳴が上がった。……が、やけに声の密度が高い。見渡すと通行人が、人だかりを作り出していた。


 怒りと苛立ちで、腹の底が微熱を帯びる。


 ……野次馬が。私と同年代の奴が多いか? 何せこの駅から徒歩十分圏内だけで、五つの学校がある。人だかりの中には、こちらへスマホを構えている奴がちらほらいた。


 撮ってねえで警察呼べよ。


 怒りがチリチリと小さな痛みを孕み、腹の底を焼き始めた。


 何だってお前らは何もしない。自分が同じ目に遭ったら、助けて欲しいって思うだろ。今すぐ全員引きり出して、歯が折れるまでぶん殴ってやろうか。


「何だクソてめえはよォ、コラァ……!」


 熱に浮かされるような男の声に、野次馬へ傾きかけた意識が引き戻される。


 つい八の字を寄せた。男が頭頂部を見せるように、ぐったりと猫背になって俯いているのだ。この激しい雨音でも掻き消えない程、呼吸も荒くなっている。確かに呂律は怪しかったがその原因は酒だろうし、目を離す直前まで、鬱陶しい程意識もはっきりしていた筈だが。


 飲み過ぎで体調不良? 酒なんて飲んだ事無いから分からない。救急車を呼んだ方がいいだろうか?


 様子を窺うように、男へ踏み出す。


「……あのすみません、大丈夫で」


 俯いたままの男は私を遮るように、訳の分からない怒声を上げた。


「うっせえぞてめえコラァ! お前、俺をパクりに来たサツだろ……。女のくせに、そんなゴリラな訳ねえだろが……」


 絶句して立ち止まる私と、その様子を見ていた野次馬から上る困惑が、じっとりと嫌な粘りを持った静寂になって、辺りに横たわる。


 ……いや、多分ゴリラってのは、私の怪力を指して言ったんだろう。然し私とは警察じゃないし、ゴリラかどうかなんて論外だ。


 酒の上に、クスリでもやってる? 野次馬も恐怖を覚えたのか、それまでぼそぼそと好き勝手喋っていた口を閉じる。


 いや、もういい。警察を呼ぼう。


 スマホを出すと連絡先を開き、ここから一番近い警察署の番号を探す。


 お風呂の排水溝が詰まったような不快な音が、この雨音にも負けない程の強さで上がった。


 つい、スマホの操作を止める。そんな事をしている場合では無いと分かっているのに、音の出所へ引き寄せられるように顔が上がる。好奇心と言うのだろうか。全く望んでいないのに、意思とは全く別の何かに操られるように、目はそれは自然と、男を捉えた。


 男が溶けている。


 皮膚が赤く爛れ、肉ごと形を失うように崩れている。スライムのような粘りのある赤い液体となり、ジャージの裾から流れていた。 


 ただ見開いているだけの、感情の分からなくなった目で私を見据える男の顔から、一際大きな塊がどろりと零れた。骨が露わになった男の鼻周りからアスファルトへ、そこを覆う肉だったものが、ねっとりと糸を引く。


 女性からも、野次馬からも、ちらちらと視線を送るだけだった通行人からも、飛び降り自殺に出会でくわしたような悲鳴が上がった。



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