八月三十一日

 八月の終わりごろ、窓辺に置かれていた無数のキャンバスは、ぼくらの美しい住処の絵ひとつを残してすべてどこかへ運び出されていた。その理由をぼくは尋ねることができなかった。けれど隆一くんの表情が暗いものではなかったから、決して悪いことが起こっているわけではないのだと、それだけは安心できた。

 夏の間、隆一くんはやたらと忙しそうにしていて、いつもと比べて家を空ける日が多かった。そういうとき彼は行き先を言わない。いや、それはこの夏に限ったことではなくて、いつだって彼はぼくに自分の行く先を教えてくれたりはしないのだけど、夕方、熱された空気と蝉時雨の中をひとりで歩き、誰もいない部屋に帰るとき、そんなことがやけに寂しく思えた。

 八月の最後の日、その日も隆一くんはいつ帰るとも言わず朝から出かけていて、それでもきっと夕飯までには帰ってくるからとぼくはアルバイト上がりに食材を買って帰路についていた。

 家の近くの信号を渡ると、一本道の向こうに二つ結びの頭が見えた。ルミちゃんだ。歩いていくとあちらもぼくに気づいて「あっ」と声をあげた。

「ルミちゃん。久しぶり。」

「あ、あの、はい、お、お久しぶりです。」

 とりあえず、暑いね、などと話しながら日陰で立ち止まる。ルミちゃんはしばらく見ない間に健康的な小麦色に日焼けしていた。やっぱり子供は元気が一番だなと思う。

「そういえば、夏休みは楽しかった?」

「は、はい! 楽しかったです。」

「海とか行ったのかな、プールとか。」

「はい、あの、プールに行きました。」

 ルミちゃんはこの夏ずいぶんたくさん楽しいことがあったようで、目を輝かせて友達と遊んだ思い出を話してくれた。

「あっ、その、えっと……あの。」

「うん、なに?」

 彼女はしばらくなにか迷ったふうに口ごもって、それから意を決したように尋ねてきた。

「よ……与野井さんは、その、あっ、どこか……行きましたか? あの、旅行とか……。」

 与野井さん? どうして、と思ったけれど、そうだ、そういえばルミちゃんはぼくの苗字を与野井だと勘違いしているのだった。訂正しようかとも考えて、それはそれでややこしいことになりそうだと思い直す。

「ああ……うーん、今年は行かなかったなあ。」

「あ、そうなん……ですね。」

 それから少しの間二人とも黙った。すぐ近くの街路樹から蝉が飛び立つのが見えた。

「じゃ、そろそろ。ルミちゃんは明日から学校かな、がんばってね。」

「あっ、は、はい! ありがとうございます、えっと、……さようなら。」

 ルミちゃんはぺこりとお辞儀をして、ちょうど信号の変わった横断歩道を小走りに去っていった。

 空はやたらに晴れて暑かった。鍵を開けると、ここ最近当たり前になってしまった誰の気配もない部屋がぼくを出迎えた。ただいまをつぶやいて、台所に荷物を置く。

 まだ少し早い時間だけど、もう夕飯の支度を始めようかな、と考える。手間をかけて作って、そうしたら隆一くんは優しいからきっとおいしいと言って食べてくれるだろう。

 けれど、それでどうなるというのだろう? それでなにが叶ったと、なにが報われたといえるのだろう? こうして、窓の外からの陽光を浴びて薄明るい部屋で、ひとり立ち尽くしているぼくのこの空しさは、それだけできっぱりと晴れてくれるようなものなのだろうか。

 頭を振ってそんな考えを追い払っても、自分はそんなことを思ってしまうような矮小な人間なんだ、という軽蔑にも似た嫌悪感は、汗で貼りつく衣服のようにねちこくまとわりついていた。太陽がじっとぼくを睨んでいるように思えた。ひどく疲れた気がした。

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