必然の偶然

猫じゃ

必然の偶然

 子供の頃、誕生日が楽しみで仕方なかった。

 ご馳走にバースデーケーキ、家族や友達からのお祝いの言葉とプレゼント。一年のうちで一番特別な日。きらきらした大人のお姉さんにまた一歩近づいたのだと胸を高鳴らせた。だから、母が誕生日を迎えるたびにため息をつくのが全く理解できなかった。


 あと一週間もすれば、28歳になる。


 社会に出てから5年が経ち、それなりに仕事を任されるようになってきた。会社帰りには同僚と飲みに行き、休日は学生時代の仲間とバンド練習をする。今の仕事に不満もないし、充実した日々を送っていると思う。


 ただ、今まで忘れていた男のことをふと思い出した。

 高校3年生のときに好きになった人。彼は私の8つ上の社会人で、お酒を美味しそうに飲み、タバコを吸う、かっこいい大人の男だった。

「俺ね、高校生の可愛い子とデートするって言ったら、周りから羨ましがられちゃったよ」

 なんて冗談めかして言いながら、水族館や遊園地に連れて行ってくれた。あの頃の私は真剣だったし、何気ない言葉の一つ一つに舞い上がっていた。


 それでも、大人の彼がまだ高校生の私に対して本気になってくれないだろうこともわかっていた。だから、高校生の間は何も想いを告げなかった。


 大学生になったら、告白しよう。


 彼は私の想いにきっと気づいていたと思う。その日、私が告白しようとしていたことも。だから、やんわりと先手を打たれた。

「美琴はこれから大学でいろんな出会いがある。だから、もっと同年代との時間を大切にするんだよ」

 最後に、冗談めかして付け加えた。

「4年後、もし彼氏がいなかったらまたおじさんとデートしてね」


 せめて、きっぱり断ってくれればよかったのに。想いを伝えさせてもらえず、それでいてお預けのように少しの望みは残す。


 ずるい人。私は彼を諦めさせてもらえなかった。


 結局、それからは次第に疎遠になり、私は同じ大学の子やバイト先の先輩と付き合った。もちろん好きという気持ちがあって付き合っていたけれど、ふとした時に、彼と比べてしまっている自分がいた。大学を卒業したら、きっと連絡をするんだろうと思っていた。


 けれども、実際に私が彼に連絡することはなかった。大学卒業後、しばらく彼氏はいなかったが、仕事に必死でそれどころではなかった。ようやく自分のペースがつかめ、生活に余裕が出てきたのがこの半年ほど。それで、今になってすっかり忘れていた存在を思い出したのかもしれない。


 彼は当時26歳。気づけば、あの頃の彼を追い越していた。

 思い出の中の憧れの大人よりも歳を取っていたことに、少なからず衝撃を受けた。何故だか、このまま歳を重ねることに、漠然とした不安を覚えた。

 

 少しは近づけただろうか。もしまた会うことができたら、大人の女性として見てもらえるだろうか。


 そう思うものの、今さら連絡するのも憚られた。だって、彼はもう結婚しているかもしれないし、結婚までいかなくとも彼女がいるかもしれない。そもそも、一時期ちょっと遊んだ子供のことなんて覚えてないかもしれない。


 でも、もし覚えていて、もしフリーで、もし…。


 しばらく逡巡したが、メッセージを送ることなくスマホをベッドに放り投げた。


* * *


 翌日の昼休み、いつも一緒にお昼ご飯を食べている同期の紗里から、誕生日の予定を聞かれた。

「予定なんて特にないわね。仕事だし」

「じゃあ、私がお祝いしてあげる」

「ほんと?ありがとう、これで寂しいアラサー独り身女子のぼっち誕生日が回避されたわ」

「ふふ、感謝なさい。そして私の誕生日も祝ってよね」

「それが本当の目的?」

 紗里は悪戯がバレた子供のようにチロっと舌を出して見せた。

「それもあるけど、お祝いしたいのも本当よ。行きたいお店ある?」

「そうねぇ」

 私は寝不足な頭をギイギイと回転させ、脳内に日々ストックしている行きたいお店リストを探った。

「そうだわ。新宿にね、家具にこだわっているダイニングカフェがあるみたいなの。そこがいいわ」

 お店の名前を伝えると、紗里はすかさずスマホで検索して、メニューと写真、口コミをチェックした。

「すっごく雰囲気いいじゃない。料理も美味しそうだし。決定ね、19時に予約しておくわね」

「ありがとう、楽しみにしてる」

 それから昼休みが終わるまで、私たちはお店の写真を見ながら、この椅子が良いあのランプがかわいいと内装談義にひとしきり花を咲かせた。


* * *


 「今日はありがとう、おかげで最高の一日になったわ」

 「どういたしまして。また行きましょう。じゃあ、また明日会社で」

 楽しい時間が過ぎるのはあっという間だ。紗里と別れたあと、すぐに帰る気にはなれず、余韻に浸りながら新宿をぷらぷらと歩いていた。お店の内装も気に入ったし、料理も美味しかった。今日は帰ったら、プレゼントに貰ったマグカップでホットミルクでも飲もう。


 ふと、細い路地に赤提灯を見つけた。


 お洒落カフェのご飯では足りなかったのよね。それに、今日はもう少し飲みたい気分だし。

 そうして、提灯の店の暖簾をくぐった。


「いらっしゃいませー。お好きな席どうぞー」

 大学生のアルバイトだろうか。ショートヘアの女の子が元気の良い声で出迎えてくれる。店内はカウンター6席、テーブル席が2席と、それほど大きくなかった。私はカウンターの端に座り、生ビールを頼んだ。

「生一丁!」

 女の子がよく通る声で注文を唱えると、店の奥から「あい生一丁!」と復唱する声が聞こえた。

 程なくして、カウンターの奥から生ビールを手に持った店員が出てくる。そのての顔を見た瞬間、心臓がトクンと跳ねた。彼は他のお客さんにそうするように、笑顔で生ビールをテーブルに置き、食べ物の注文を取り、またカウンターの奥へと戻っていった。その間中、私はざわつく胸を必死で宥めていた。


 まさか、本当に会えるなんて。


 かつて好きと伝えられなかった、ずっと心のどこかに引っかかっていた、あの人だった。


 正直なところ顔なんてあまり覚えてなかったけれど、見た瞬間、彼だとわかってしまった。彼は私に気づいていないようだったが、人違いではないと、私は確信を持っていた。


 声をかけるべきだろうか。つい一週間前は、また会えたら、なんて夢想していたくせに。いざ現実になると、途端に知らないふりをしてそのまま立ち去りたい気持ちに駆られた。

 悩んでいるうちに、お酒のグラスが何度も空になる。


 ええい、ままよ。


 賑わっていた店内も落ち着いてきた閉店間近、私は酒の力を借りて、ようやく彼に声をかけた。


「あの、お兄さん」

 注文を受ける姿勢の彼をじっと見つめる。

「人違いだったらごめんなさい。でも、もしかして、誠一さんじゃないですか」

「そうですけど…。どこかでお会いしたことありましたか」

「覚えてないですよね、もう10年も経っているから。あの時はまだ私、高校生だったし」

 10年前、高校生…小声で繰り返しながら記憶を辿っているようだった。しばらくして思い当たったのか、あっと小さく声を上げて目を見開いた。

「えっ、もしかして…美琴?」


 思わず顔がほころぶ。よかった、忘れられてなかった。

「驚いたな、すっかり大人になっちゃって…って、10年も経ってたら当たり前か。言われるまでわからなかったよ。でも、すごい偶然だ。もしかして今までもこの店に?」

「いいえ、初めて。新宿で友達とご飯を食べて、帰りにたまたま赤提灯が目に入って。それでふらっと立ち寄ったんです」

 そうか、と彼は感慨深げに頷いた。何か言おうとしたのか口を開いたとき、奥から彼を呼ぶ声が聞こえた。

「はーい!ねえ、この後、時間あるかな。今日はもうすぐ上がるんだ。再会記念に、もう少し話せたら嬉しいなって」

「ぜひ。待ってますね」


 彼の帰り支度が終わるのを待って、一緒に店を出た。店から出る時、誰かの視線を感じて振り返ると、アルバイトの女の子と目が合った。彼女は慌ててふいと目を逸らす。

 なるほどね。相変わらず歳の離れた女の子にモテるようだ。


* * *


 彼の行きつけだという近くのバーに入り、互いの近況を話し合った。当時勤めていた会社は数年前に辞め、今はいくつかの飲食店でアルバイトをしているらしい。この方が気楽で僕には合っている、と笑った。

 空白を埋めるように互いの話をしたあと、ずっと気になっていたことを思い切って聞くことにした。

「あのとき。10年前、私のことはどう思っていたんですか」

「好きだったよ」

 じゃあ、なんで。

「でも、高校生と付き合うのはさすがのやめとけって止められたんだよ。」

「大学生になっても私は好きだったのに」

「それは…」

「それは?」

 言い淀む彼を、容赦なく追及する。ここまできたら全部聞きたいもの。彼はしばらく言い渋っていたが、諦めそうにない様子を見て取って、観念したようだった。

「それがさ、今だから言うけれど。その頃、職場の子に告白されてさ。やっぱり年齢的にもってことで、その子と付き合うことにしたんだ。それが、美琴に会う前日の話で。ドタキャンはさすがによくないと思ったし、最後に会って、でも、ちゃんと距離を置けるようにしないとなって」


 なあんだ。私のことを想ってじゃあなかったんだ。


 すっ、と心の引き出しが綺麗に閉まる音がした。もう、整理はできた。


「その人とは今も?」

「とっくに別れたよ。それからはずっと一人。今もね」

 彼が熱のこもった視線を絡めてくる。私は気づかないふりをした。


* * *


 2軒目の誘いを丁重に断り、せめて駅まで、という申し出だけ受けることにした。ホームに上がって間もなく電車が到着する。

「ねえ、また連絡していいかな」

 私は電車に向かう足を止めて顔だけ振り向く。

「私、今、お付き合いしている人がいるんです」

 そっか、そうだよなぁ。彼はちょっと寂しそうに笑う。

 私は、でも、と言葉紡いだ。

「でももし、またこうやって偶然会うことができて、もしその時お互いフリーだったら…」


 ぷしゅーっと電車のドアが閉まった。彼が何か言った気がしたが、もう聞き取れなかった。


* * *


 私は嘘をついた。


 彼氏なんていない。ただ、今の彼に魅力を感じなかったから、あの時の仕返しにああ言ってやっただけ。


 もう少し言ってしまえば、偶然会ったというのも嘘だ。


 彼のことを思い出したあの夜、私はSNSを駆使して彼が今どこで何をしているのかを突き止めた。彼は自分のことを発信する人ではなかったから、なかなか骨が折れた。フォロワーを片っ端から見に行って、彼に関する情報を拾い集めた。


 だから今日、あの店にいるであろうことは予想できていた。

 紗里から誘われたのは想定外だったが、結果として新宿に行く口実ができた。あの店を選んだのは、駅と彼の働く店の間にあり、きっと彼が通ると思ったから。実際、私は紗里と食事をしている時に店へ向かう彼の姿を見つけ、自分の予想が外れていなかったことを確認していた。


 久しぶりに会った彼は一段と素敵になっていて、なんていうのはやはり少女漫画とかドラマでしかありえないようだ。何故あの男がよく見えていたのだろう。今では幻滅すらしている。


 夢のまま、甘くてほろ苦い思い出のままにしておいた方がよかったかな。


 いや、これでいい。これで、もうこれからあの虚像と比べることはなくなるのだから。


 帰ったらホットミルクを飲もう。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

必然の偶然 猫じゃ @nekoja

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ