残り32日(11月27日)その1


「……また仕事なの」


明美がジャケットを羽織った私を睨んだ。


「……そうだが。いつも休日出勤ばかりで済まない」


「本当に仕事?」


明美の目が疑わしそうに鋭くなった。



……これは、厄介なことになるかもしれない。



これまでも、休日出勤ばかりの私に明美が不満を漏らすことはあった。もちろん、家庭を蔑ろにしようと思ったわけではない。

平日に代休を取るなどして、埋め合わせをする努力はしてきたはずだった。


だが、明美と篤の反応は、それでも年々冷めていった。私の努力が足りなかったせいか、それとも2人との相性か、それは分からない。

だがとにかく、遂には私が休日何をしようと、彼らは口を出さなくなった。

むしろ邪魔者扱いするようになった現実から逃げるように、私は仕事に打ち込んだ。平日も、休日も関係なしに、だ。


執行役員人事が固まってから、休日出勤の必要性は大分薄れた。上役が現場に顔を出すのは嫌がられるものだ。それが幹部役員なら、なおのことだ。

だから、このエバーグリーン自由ケ丘の件は、休日に自宅から出るいい口実にはなっていた。もちろん、私にとってこれは遊びでもなんでもないが。



とにかく、明美が私を疑うなどとは、考えてもいなかった。愛情はとうの昔に消えていたが、妙に私は彼女を信頼していた。

その前提が、崩れつつある。もし彼女が私の現状を知ったら、これまでのように動けなくなることは明白だった。


特に、今晩遥さんと会うことがバレるのは、まずい。あいつは嫉妬深い。私を愛さなくなっていても、彼女にとって私は所有物なのだ。

安定とキャッシュを生み出す、一種のATM。それが失われることを、あいつは許しはしないだろう。



私は目を閉じ、大仰に溜め息をついた。


「……仕事は仕事だ。これまで通り」


「そう。ただ、嘘だったら分かってるわよね?」


「何が言いたい」


「それはあんたが考えたら?」


私は眉を潜めた。この場で全て洗いざらいぶちまけるのは容易い。だが、そうした所で得られるものは多分何もない。


全てが終わってから、明美のことは考えよう。

恐らく、私は会社を辞めることになる。その時、私は一度全てを失うだろう。無論、明美とも別れることになるだろう。

だが、それでいい。大事なのは、自分がなすべきことをやることだ。



……私も、変わったな。



ふと、笑みが漏れた。安定と平穏こそ、私にとって大事なものであったはずだ。

だが、それはもう得られることはない。そういう運命に、私は巻き込まれたのだ。

いや、エバーグリーン自由ケ丘を巡る不正に関わった時点で、こうなることは必然だったのかもしれない。


だが、不思議と嫌な気分ではない。むしろ、解放感すらある。

安定と平穏が、いかにつまらないものか。そのことを、私は感じつつあるのかもしれない。



「何を考えてるのか……気味が悪いわ」


明美が乱暴に、部屋のドアを閉めた。


*


マンションを出ると、件のアルファロメオが止まっていた。運転席には白田がいる。助手席の女性は……「カフェ・ドゥ・ポワロ」の店員だっただろうか。


「お待たせしました」


「いえいえ。では、向かいますかな」


ブロロロ……という重低音と共に、アルファロメオが動き始めた。

向かう先は池袋だ。白田が監修しているカフェを貸し切って用意している、らしい。

遥さんには、店を閉めた後で現地で合流するよう伝えている。こちらも影で「警察」が見ている、はずだ。


「少し時間があるので、首都高のドライブでもしながら行きましょうかな」


「何か、話があるんですね」


待ち合わせの19時には、まだ3時間以上ある。そういうことであろうことは見当が付いた。


「現状報告、ですな。色々動きがあるかと思うので、そのための覚悟も決めていただきたい」


「動き?」


白田が頷いた。


「まず、『グレゴリオ』の構成員がほぼ掴めました。幹部は4人。その中には、大仏宏樹と柳沢和臣の2人が含まれている」


ゴクリ、と私は唾を飲み込んだ。


「とすると、この前柳沢が来たのは……!?」


「それについては後で話しましょうか。とりあえず、どうして特定に至ったかを説明しましょうかな。大仏と柳沢はディスコードを使ってやりとりをしていたようですな」


「ディスコード?」


「ボイスチャットですよ。『グレゴリオ』のようなクローズドなコミュニティでやりとりするには、いいツールだ」


助手席の美樹さんが、私にUSBを手渡した。


「深道光のPCから、ディスコードのログを発掘しました。逮捕で彼はメンバーから外されてましたが、解析でどういう指示が送られてたか、ある程度見えてきたわけです。少々掛かりましたが」


「しかし、匿名だったんですよね?」


「USBからテキストを読んで頂ければ分かるかと思いますが、11月3日に『デウス』と『ビショップ』が深道にあなたをマークするよう指示しています。『自分たちのことを気付かれたかもしれない』と。

そう言えるのは、通夜であなたと一緒だった大仏と柳沢だけです。問題は、どちらがどちらかまでは分からないことですが」


白田がチラッと後部座席の私を見た。


「リアルでは、ほとんど彼らは怪しげな動きをしてないのですよ。指示は全てディスコードで行っている。

無論、同僚や取引先との会食名目で、誰かと会っている可能性はありますがな」


「……そこまで慎重なのに、柳沢はどうして火曜日に現れたんでしょう」


「正確な理由は不明ですな。ただ、9割事故だったと見ます。彼の細君が、『マリアージュ』の常連なのは本当でしょう。

可能性があるとすれば、遥さんへの警護体制を見るつもりだった」


……やはり遥さんも狙われているのか。今日彼女に話をするのは、正解だったかもしれない。


「そこに私がいた、と」


「柳沢がどう判断するかは不明ですな。ただ、警戒レベルは上がっているはず。

襲撃のリスクは高まっていると考えるべきでしょうな」


「柳沢は、本来の歴史で……私と遥さんが不倫していたと知ってるわけですね」


「恐らく。『リターナー』である可能性は、かなり高い」



身体が怒りで熱くなるのが分かった。丸井を殺しておいて、よく平然と通夜に顔を出せるものだ……!!



「……ふざけるなっっ!!」


「怒るのもごもっとも。ただ、私たち以上に彼らも追い詰められている。

幹部の一人である坂本には指名手配がかかった。しかも、彼が木ノ内さんの友人を拐ったのはやりすぎでしたな。恐らく、焦りからでしょう。

彼は竹下君と木ノ内さんに明日品川のタワーマンションに来るよう呼び出しを掛けているが、当然こちらも準備はしている。『AD』が何錠かあるにせよ、不利なのは向こうです」


「じゃあ、私はどうすれば」


「柳沢と大仏が、直接動くのを待てばいい。駒を失った段階で、あなたを切り崩しにかかると私はみています。

その前段階として、遥さんに何らかの働き掛けをする可能性はある。坂本のような稚拙で乱暴な手段ではなく、もう少し巧妙なものでしょうが」


「……というと?」


少しの沈黙の後、前の2人の顔が険しくなった。


「嫌な予感がしますね」


「ああ。遥さんもまた、覚醒レベルの低い『リターナー』であるとしたら、そこから何かしてくるかもしれない。

かといって、我々のことを明かすのは時期尚早だ。彼女をどうやって庇護下に置くか、考えどころだな」


美樹さんの言葉に、白田が首を縦に振った。信号待ちになって、彼が私を見る。


「今日あなたにお願いしたいのは、今言ったような状況説明だけじゃない。彼女を何とか、一時的に安全な場所に移すため、説得をお願いしたい。

これは、今のところあなたにしかできそうもない。頼まれてくれますかな」


私はすぐさま、それに応じた。


「……やらせていただきます」


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