残り64日(10月27日)
「夜分すみませんな」
三友グランドタワーを出ると、白髪の男が待っていた。ジャケットを着たラフな姿だ。
「遅くなりました、待ちましたか」
「いえ、待つのは慣れていますからな」
白田は静かに笑うと、ロータリーに停めてあるアルファロメオの方に向かった。60過ぎの老人が運転するには、少々派手な気がしないでもない。
彼は助手席のドアを開け、私に乗るように促す。少しだけ、芳香剤の香りがした。
「車、お好きなんですか」
「まあ、嗜む程度には。お忙しい中急に呼び出して、申し訳ありませんな」
「……いえいえ。何か、あったのですか」
白田の表情が、険しくなった。
「日曜夜、竹下君が襲われました。襲った男は確保しましたし、竹下君は無事ですが。あなたの所に、怪しい動きは?」
ゾクン、と体温が急に下がった。誰だ?
「い、いえ……男の身元は」
「それを説明するために、あなたを乗せたのですよ。少し、あなたをご自宅まで送るドライブに付き合って頂きますかな」
アルファロメオは霞ヶ関インターへと向かう。私はこれが、白田による護衛なのだとやっと気付いた。
「狙われていたのは、てっきり木ノ内さんかと」
「まだ分かりませんが、その可能性は薄いでしょうな。元々、竹下君がターゲットだったフシがある。以前にも尾行されていたという話ですからな」
「何のために」
アルファロメオは湾岸線方面へと向かう。白田の声のトーンが、わずかに下がった。
「その前に、襲った男の身元を説明させてもらいましょう。男の名は、柏崎亮一。慶應義塾大学の3年生、とのことです」
「大学生?」
白田が頷いた。
「身分証明書が正しいなら。問題は2つ。まず、柏崎からは、ろくに情報を得られなかったのですよ」
「え」
「逮捕してすぐに……柏崎は植物人間状態に陥ったからですよ。『AD』という麻薬を彼は使っていたのですが、恐らく許容量以上を摂取した。
その結果、効果が切れた反動で脳が萎縮し、廃人同然になった。手を尽くしましたが、回復不能とのことらしいですな」
「そんな薬があるんですか」
「……ええ。脳のリミッターを一時的に解除し、全ての感覚を倍化させる。視覚、嗅覚、聴覚、味覚、触覚……五感全てです。ただ、その反動も凄まじい。
継続して摂取すれば、酷使された脳は加速度的に痴呆に向かう。そして、一度に多量を使えば、効果切れは即実質的な死を意味する」
私は唾を飲み込んだ。そんなおぞましい薬など、聞いたことがない。
「それを分かっていて、何故彼は」
「反動のことを知らなかったのでしょうな。おそらく、騙された」
「誰にですか」
白田が急に無言になった。アルファロメオはベイブリッジへと向かっている。みなとみらいに行くには、遠回りのはずだ。
「それこそが、もう一つの問題です。少し、落ち着いて話をしましょうか」
車はそのまま、大黒パーキングエリアへと入った。停車すると、彼は再び話し出す。
「柏崎に依頼人がいたのは、ほぼ間違いない。私の『部下』……あなたも会った毛利刑事からは、それは恐らく以前木ノ内さんと会ったことのある人物であろうと聞いてます。
彼女は顔しか覚えておらず、身元までは把握できていないようですな。
ただ、その男と竹下君には接点がない。木ノ内さんへのストーカーだとしても、直接彼女ではなく竹下君を襲う理由は全く不明なのですよ。
まして、極めて高価な『AD』を人に使わせてまで」
「それを、なぜ私に」
「……思い当たる可能性は、これぐらいしかない。あなたの『友人』が、彼のバックにいる」
…………え?
「ど、どういう意味ですか?そもそも、私を襲わず、竹下君だけを狙う理由って……」
白田はふう、と息を吐いた。
「ここから先は、私の憶測に過ぎない。それを踏まえた上で聞いてほしいのです。
まず、『AD』を大学生が買えるわけがない。末端単価、1粒で数千万円する代物ですからな。
となれば、その元締めと直接やり取りできる立場の人間が、柏崎らに無償で渡した。彼らを『鉄砲玉』にするために」
「でも、いくら連中でもそんな金なんて……あっ!?」
……あり得る。この前提に立つのなら……不可能じゃない。
「お気付きになられたようですな」
「まさか、あの3人の中に……『リターナー』がいると?」
白田が首を縦に振った。
「そう。そしてその人物はかなりの財産を持ち、『AD』の元締めにもコネクションがある。
『リターナー』が財を成すのは容易いことなのは、既に実証済みでしょう。株でも競馬でも、やりようはいくらでもある。『AD』を買える立場になっても、おかしくはない。
そして、あなたが挙げた候補の3人の身辺は、既に確認しています。明らかに怪しいのは丸井大輔ですが……」
そうだ。丸井は急に羽振りが良くなった。株もやっていると言っていた。疑わしい点は、幾らでもある。
「あいつが、なぜ竹下君を。エバーグリーン自由ケ丘の件を漏らされるのを、恐れたからですか」
「話は最後まで聞くものですよ。丸井は怪しい。ただ、『リターナー』ではあり得ない」
「……は??」
白田は電子タバコのようなスティックを、口に咥え、大きく息を吸った。妙な芳香のする煙が、彼から吐き出される。
「失敬。禁煙パイプなのでご安心を。……『リターナー』がどういう存在かは、恐らく網笠君から簡単に説明があったはずですな」
「ええ。20年後から『未来の記憶』、ないし人格を持ったままこの世界に巻き戻った人間であると。その契機と思われるのが、東大の青山教授による爆破事故であるとも聞いてます」
「そう。つまり、2040年5月18日に東大本郷キャンパスから半径2キロ以内にいることが条件なのですよ。近ければ近いほど、『リターナー』になる確率は高まる。
そして、丸井はそれに該当しない。何故なら、彼は20年後には故人だからです」
血の気が引いていくのが、自分でも分かった。何か、非常に不可解なことが起きている。
「どうして、それが分かるのですか」
「丸井は2032年、大泉建設社長として変死したからですよ。彼の死の理由は判然とはしませんでしたがな。
だから、現状において彼が大泉建設を辞めていることも含め、既にかなりおかしい。
考えられるのは、彼に『未来の出来事』を教えている人間がいる。そしてそれを元に、丸井が動いている」
「それが、大仏か柳沢のどちらか、だと?」
「あるいは全くの他人であるかもしれない。ただ、丸井に未来において何が起きるかを教えている人間がいて、その人物はエバーグリーン自由ケ丘の真実を明かされるのを快く思っていない。これは間違いなさそうですな」
「なら、なぜ竹下君だけを!?私を襲おうとは、なぜ考えない!?」
白田は目を閉じた。わずかに、沈黙が流れる。
「……恐らく、倒壊事故のスケープゴートが必要だからでしょうな。竹下君にしても、殺そうと考えて柏崎を送り込んだのではないはず。ただ、真実の解明を妨害できればよかった。
そして『歴史通り』エバーグリーン自由ケ丘を倒壊させ、その後の『三友グランドタワー爆破事件』が起きるのを願っている」
「な、何のために!!?惨劇が起きるのを願うとでも??」
「あなた方が真実を公にすることの方が、余程重いと考える人物のようですな。もちろん、丸井もその点では利害が一致している。
無論、丸井が今回の件に関与しているというのは、現状ではただの推論でしかありませんが」
……無茶苦茶だ。確かに、奴らは全員、善人ではない。無論、私もだが。
だが、麻薬に手を出し、他人を道具のように使うほど腐ってはいないと思いたかった。これは……いくらなんでも、許しがたい。
「……私は、どうすれば」
「迂闊に動かない方がいいかもしれませんな。誰が『リターナー』なのか、把握できるまでは。
丸井ら3人のマークは慎重に進めます。あなたも、くれぐれも用心なされるよう。
念のため、当面は我々の誰かがこうやってあなたを迎えに上がります。追い詰められたと考えた黒幕が、あなたを前倒しで消そうとしないとも限らない」
白田がアルファロメオのイグニッションキーを押した。ブロロ……という重低音が響く。
「とはいえ、時間にそれほど余裕があるわけでもない。竹下君とも、連絡は密に取っていただきたい」
*
重い気分で、私はみなとみらいのマンションに着いた。既に家族は寝ている。
書斎に向かい、ノートPCを開く。こんな異常なことを聞かされた後でも、日々の習慣は止められないものらしい。
仕事のメールが並ぶ中、私の視線はあるメールで止まった。
……丸井から!!?
*
水元へ
丸井だ。忙しい所すまん。
ちと、飲みに行こうと思ってな。近いうち、空いている時間があるか?
大事な話がある。大仏も柳沢も抜きでだ。
決して悪い話じゃねえ。多分、お前のためにもなる話だ。
気が向いたら返事をくれ。よろしく。
丸井
*
……これは、何だ?脅し、なのか。
無視をすれば、刃は私の方に向けられるかもしれない。白田もそう言っていた。
しかし、自らこちらに来るとは……丸井は何を考えている??
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