残り66日(10月24日)


午後2時。不安そうな表情で由梨花は中目黒の改札に現れた。


「……俊太郎」


「大丈夫。今日は誰かから見られてる感じは?」


「今はしない。気のせいだったのかな」


そうかもしれない。ただ、網笠官房副長官の言葉からして、僕らを妨害しようとする誰かがいる可能性は確かに高かった。

公安は、網笠官房副長官らの勢力とは敵対しているらしい。深くは聞かなかったけど、だとしたら尾行の一つや二つぐらいはしてもおかしくはないだろう。


結局、昨日は念のためその場ですぐに解散した。無論、仁さんに指示をあおいだ上でのことだ。

一応、仁さんの仲間が僕らを警護してくれることにはなったらしい。その中にはあの「コナン」……藤原という少年も含まれていると聞いた。

とはいえ、仁さんのいる「特務調査室」は小規模らしく、SPのような警備は期待しないでくれ、ということだ。つまり、ある程度自分のことは自分で気を付けるしかない。


僕についてはそれでもいい。ただ、由梨花については、やはり不安だ。だからこうして、中目黒駅まで迎えに来たというわけだ。


「にしても……昨日由梨花が見たのが、僕らが出会うきっかけになったチンピラの一人というのは、本当か?」


「分からない、一瞬だったし。葵と一緒に消えた奴だったから、俊太郎は知らないと思う」


由梨花は怯えた様子で僕に腕を絡めた。できるだけ、離れないようにということなんだろうか。僕も腕に力を込めた。


公安は民間人を「S」……スパイに使うことがあるという。その男も、Sなのだろうか。

にしても、チンピラをそういうのに使うのは少し変な気もする。電話越しの仁さんの様子が訝しげだったのも、それが理由なのだろうか。


とりあえず、考えても始まらない。由梨花の気のせいという可能性もある。

何より今日は、彼女に大事なことを告げねばならないのだ。




僕に、「未来の記憶」があるということを。




*


「……色々、話して」


僕はアールグレイを一口飲む。向かいに座る由梨花は、緊張しているのか表情が堅い。きっとそれは、僕も同じだろう。


どこまで話していいかは、既に網笠官房副長官から聞いている。もはや、彼女を巻き込まずに済むことは不可能だ。

何より、彼女を誰かが尾行していたのが真実だとするなら尚更だろう。あと必要なのは、誠実さと勇気。それだけだ。


「まず。僕に予知能力がある、と言ったら信じる?」


由梨花は少し驚いたように目を見開くと、すぐに視線を下に落とした。


「……分からない。でも、納得する点はあるかも。昨日も少し、それは思った」


彼女はマグカップに手をつけようともしない。もちろん、僕らの前に置かれているダークチョコレートにもだ。


「厳密には予知能力じゃない。でも、どうも僕には、『未来の記憶』があるらしい。おぼろげだけれども」


「『未来の記憶』?」


「そう。僕の中には、未来に何が起きるかという『記憶』がある。まだ、鮮明じゃないけど」


「なら、エバーグリーン自由ケ丘が倒壊するという記憶も?」


僕は小さく頷いた。


「2021年12月29日に、それは起きる。だから、それを避けるために、僕らは動き始めた。

昨日会った水元さんも、その一人だ」


「……じょ、冗談、でしょ?」


由梨花の声が震えている。彼女の目が潤んでいるのに気付いて、僕は唇を強く噛んだ。


「冗談で、こんなことは言わない」


「じゃあ、まさか、あたしは……あたしだけじゃなく、パパもママも巻き込まれるの?」


「まだ決まったわけじゃないし、未来は変えられる、と聞いてる」


「誰に聞いたのよ!?」


僕は一瞬、言葉に詰まった。網笠官房副長官の存在は、伏せるように言われている。


「……この前会った、毛利刑事。彼にも『未来の記憶』がある、らしい」


「……え」


僕は「未来の記憶」を持つ人が何人もいるということと、彼らに関連する犯罪を取り締まる部署が警察内に存在することを告げた。

そして、彼らの職務に、未来に起きるであろう重大な事故・事件を事前に抑止することが含まれていることも。


「……じゃあ、彼はわざとあたしたちに」


「そういうことになる」


僕は、自分が将来テロリストになるらしいことは言わないでおいた。

ただでさえ、既に色々ショッキングなことばかり告げている。これ以上由梨花を混乱させたくはなかった。


僕はもう一度、アールグレイに口を付けた。


「どうして僕に『未来の記憶』があるのかは、正確にはまだよく分からない、らしい。ただ、行動しないと記憶は現実のものになる。

由梨花を、そして数百の人の命を守るためにも、倒壊を阻止しないといけないんだ」


「……分かった。でも、どうやって」


「それを考えてる。水元さんなら、その方法に辿り着けるかもしれない。だから昨日連れてきた」


由梨花が、ダークチョコレートをつまんだ。瞳の潤みは、少し収まっている。そのことに、少しだけ安堵した。


「……じゃあ、昨日あいつがあたしたちを見てたのって」


「分からない。少なくとも、毛利刑事の仲間じゃない。だから、昨日はすぐに解散したんだ。

毛利刑事も解せないって言ってたし、僕も本当に分からない。今回の件に関係があるのかすらも」


チンピラが由梨花のストーカーになってるという線はないだろうか。いや、それなら由梨花がもっと早く異変に気付いてるはずだ。

あれからもう1年3ヶ月が経っている。ストーカーなら、明らかに不自然なタイミングだ。


由梨花が急に席を立ち、僕の隣に座り直した。腕をぎゅっと身体に押し付けている。……身体が震えているのが分かった。


「……あのね。覚えてる?あたしたちが会った時のこと」


「うん」


「あの時、合コンに参加してたのはあたしと優結だけじゃないの。もう一人、葵って子がいたの」


そう言えば、彼女のことを聞いたことが少しだけあったかもしれない。合コンを計画した子で、大学を止めたらしい。

あまり人の悪口を言わない由梨花が、珍しく嫌そうに彼女のことを話していたからか、妙に記憶にあった。


「そう言えば」


「彼女ね、最近死んでたってことが分かったの。多分、殺された」


「……え?」


その絡みなのだろうか?だとしても、なぜ今更由梨花に……?


由梨花の声が震え始めた。


「怖いの。色々起こりすぎてて……何が何だか、さっぱり分からないの。

俊太郎が話してくれて少し楽になったけど……あたし、これからどうなっちゃうの?」


由梨花が僕にもたれ掛かり、上目遣いで見た。目からは涙が溢れている。僕は思わず、彼女を抱き締めた。


「……前にも言ったけど、大丈夫だから。僕が、由梨花を守る。それだけは、間違いないから」


「……うん」


彼女の顔が近付いてくる。ああ、由梨花も不安で仕方なかったんだ。

そう思うと同時に、暖かくて柔らかいものが、僕の唇に強く押し当てられた。


*


「じゃ、気を付けて」


「……うん」


改札越しに、由梨花が手を振る。既に時計は9時を回っていた。


互いの不安を紛らわせるためか、僕らはいつもより激しく互いを求めあった。できれば一晩中一つになって過ごしたかったけど、あいにくそうもいかない。

僕は深く、溜め息を付いた。……どこまで由梨花を守れるのだろう。


商店街を抜け、家路に付く。明日からは大学だ。不安で一杯だけど、勉強を疎かにするわけにはいかない。



…………カツ



足音?革靴のようだ。



振り向くと、誰もいない。……尾行?

前にも同じようなことがあった。「コナン」によるものだとばかり思ってたけど……



少し早足になる。今度は、あの時と違って酔ってない。振り切ろうと思えば振り切れるはずだ。



……カツ



…………カツカツカツ



間違いない。誰かが来ている!



そう思って振り向いた刹那。




ブオッッッッ!!!




何かが、僕の顎先の僅か前を凄まじいスピードで通った。

それが蹴りであることに、僕はすぐに気付いた。



「クソッ」



目の前には、前髪の長い、痩身長軀の男が一人。革靴にジャケットの、ホスト風の出で立ちだ。



「誰だッ!!」



男は無言で、前蹴りを放つ。後ろに跳びながらガードしたけど、とてつもなく重いっ!!


「てめえにはよぉ……少し痛い目に遭ってもらうぜぇっっっ!!!」


男は尋常じゃない速度で突進してきた。ボクシングをかじってる僕だけど、こんな踏み込みは……一度遊びでスパーを相手してもらった、世界ランカーの掛井さん以外に経験したことがないっ!!


「うおおっっ!!?」


すんでのところで男のパンチをかわす。テクニックも何もないパンチだけど、とにかく速い!

食らったら、ただじゃ済まないことは瞬時に理解した。何より体格がかなり違う。僕がカウンターで入れたとしても、効いてくれるだろうか?


選択肢は2つ。逃げるか、迎え撃つか。男の身体能力は、控えめに言ってかなり高い。逃げる選択肢は、悪手に思えた。

ならば、やるしかない。僕は両手を胸の辺りに持っていき、前傾姿勢を取った。



「ボクシングかよぉ……だが『AD』を飲んだ俺は、無敵だあああっっっ!!!」



ハイキック!!?ガード……いや、多分無意味だっ!

バックステップでキックをかわすと、追撃のバックハンドブローが鼻先を掠めた。攻撃の繋ぎが、速すぎる!



「逃げてばかりじゃ、意味ねえんだよぉ!!!」



徐々に、壁際へと誘導されている!バックステップの余裕は、もうない!!



……どうする。パンチを壁に当てさせて、拳を壊すか?しかし、怯まなかったら?

一か八か、カウンターに賭けるか。しかし、蹴りに対するカウンターなんて、僕は習ってない。僕がやっているのは、あくまでも健康維持と護身の延長線のボクシングでしかない。

筋がいいと会長に褒められはしたけど、それがリップサービスなのは自覚している。喧嘩の経験なんて、ほとんどないのだ。



男が、ニタリと嗤った。……まずい。




「竹下さんっ!!!」




右から甲高い声がした。あれは!!?




ビシュッッ!!




「グオオオオオッッッッ!!!!?」




男が急に痙攣して倒れたのが分かった。右から、小柄な人影が姿を現す。



「『コナン』!!?」



「あなたをマークしていて正解だった」



「コナン」は、前に見せた銃のようなものを握っていた。「銃口」の先端からは、ワイヤーのようなものが垂れている。


「これは?」


「『テーザーガン』だ。スタンガンの一種と思ってもらっていい」


男はビクン、ビクンと痙攣している。「テーザーガン」には、相当な威力があるらしい。


「こいつは、誰なんだ」


「僕にも分からない。ただ、これは……」


「コナン」が男のジャケットをまさぐった。そして、フリスクの箱を取り出す。


「……やはり」


「コナン」が深刻そうにそれを見つめる。


「何だよ、それは」


「多分、通称『AD』と呼ばれる麻薬の一種だ。1年前に流行しかけて、僕らがその大元を潰したものだ。

ただ、『AD』の残りはこうやって存在している。極めて高価だが」


「麻薬?」


「コナン」が頷いた。


「『AD』は人間の脳のリミッターを解除し、全ての感覚を倍化する。反応速度、快楽、そして苦痛も。

もちろん、こんなチンピラが買える代物じゃない。誰か、あなたを狙う依頼主がいるはずだ」


騒ぎを聞き付けたのか、住民が少しずつやってきているようだ。「コナン」は誰かに連絡すると、踵を返す。


「仁さんには連絡しておいた。彼は特務調査室で引き取る」


「僕は、どうすれば」



「しばらく、普段通り過ごしてくれ。とりあえず、木ノ内さんよりはあなたが危ない」



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