残り77日(10月13日)
「……ふう」
僕は分厚い本を閉じた。外はすっかり暗くなっている。
昨日のゼミでは、また100ページ級の論文を読むよう言われた。テイタニア教授の論文ほど難解じゃないけど、それでもかなり骨が折れる。
ただ、時間がかかっているのはそれだけじゃない。それと平行して、ある調べものをしているからだ。
「非破壊検査、ね……」
非破壊検査。その名の通り、物を破壊せずにその内部状況を調べるというものだ。
非破壊検査には、色々なやり方がある。超音波を使うもの、磁粉を使うもの。そして、X線などの放射線を使うものだ。
このうち、厚みがある素材の内部状況を知るのには、放射線を使うものが適しているらしい。表面からでは見えない、内部の傷や劣化を判断することができるという。
ただ、ボトルネックは幾つもある。まず、検査の対象範囲だ。エバーグリーン自由ケ丘の広大な敷地に一つ一つ検査を行っていては、時間と金がいくらあっても足りない。砂漠でダイヤモンド1粒を探し出すようなものだ。
つまり、瑕疵がある場所がある程度特定されないと話にもならない。
「コナン」は、この点は認識しているようだ。だからこそ、マンション倒壊に繋がる何かを知っている「協力者」を紹介しようというのだろう。
だけど、問題はそれだけじゃない。マンションのような巨大な構造物の内部を知るには、相当強力な放射線が必要だ。X線では足りない。ガンマ線でもどうだろうか。
そして、よしんばそういう放射線を発する非破壊検査装置があったとしても、それは使うだけで恐ろしくコストがかかる。僕が株で儲けたといっても、一発で吹けば飛んでしまうようなコストだろう。
何より、人が住んでいる建物にそんな強力な放射線を発したら被曝のリスクが否定できない。つまり、瑕疵の存在に相当な確信があって、なおかつ万が一の事態に対応できる大企業を巻き込まないと検査は不可能と言えた。もちろん、一介の大学生に、それは不可能だ。
異変が起き始めているのは、直感で理解した。由梨花のお父さんは、ラップ音を「家鳴り」と言っていたけど、多分ああいう微細な異常は既に起き始めているように思えた。
ただ、それを「異常」とまでは全く言い切れない。どうすれば、惨劇を回避できる?
「コナン」は、12月29日にエバーグリーン自由ケ丘が倒壊すると話していた。残りは、80日弱。長いようで、かなり時間は足りない。
僕にできることは、どこまであるのか?
「……あ」
ある考えが、僕に思い浮かんだ。……不可能じゃない。確かにこれなら、問題の一つは解決し得る。
ただ、これもこれで、ハードルは恐ろしく高い。……どうすべきか。
鍵を握るのは、青山教授だ。
*
「平日から飲みに来るなんて、何か悩み事でもあるのかい?」
シェーカーを片手に、大城戸さんが言う。この前は酷い失態を見せてしまった。そう思われるのも当然だろう。
「いえ、ちょっと。前のとは違う悩みですけど」
マティーニを舐めながら、僕は考えた。青山教授の協力を得られるなら、「手段」は解決するかもしれない。
これまでの放射線とは異質で、かつ物体に対する透過性も極めて高い、オルディニウムから発せられる「オルド線」。まだ未知の点も多々あるけど、ガンマ線よりもさらに強力であるのは容易に想像できた。
もちろん、被曝リスクをどうするかという問題は残る。そもそも、既存の装置にどうオルディニウムを組み込むかというのも分からない。ただ、青山教授なら、何かしらの解は持っているように思える。
問題は、あの気難しい、気分屋の教授をどう説き伏せるか、だ。やるからには、それなりの理論武装がいる。
「なぜ非破壊検査にオルディニウムを使うのか」という問いに対する答えは、今の僕には用意できてない。まして、「コナン」の話を持ち出さずに説明できる自信は皆無だ。
僕は息と共に頭を振った。……ダメだ、袋小路だ。
カラン
「いらっしゃい」
大城戸さんの声に我に返る。そこには、意外な人物がいた。
「仁さん!!?」
筋肉質のその男性は、驚いたように僕を見た。
「竹下君か。家がこの近くとは聞いていたが」
「仁さんは、どうしてここに?」
ハハハ、と彼は頭を掻いた。
「聞き込みが一服してね。軽く一杯ということで寄ったんだよ。ここのマスターが湯島の『ハイエスト』で修行したと聞いてな」
「昔の話ですよ」
大城戸さんが苦笑する。
「いやいや、バーテンダーの人間国宝、渡部さんのお弟子とあっちゃ行かないわけにもいかないですよ。早速一杯頂きますか……ダイキリ、それもブラックで」
「かしこまりました」
大城戸さんがシェーカーの準備を始める。シャクシャクシャクと、小気味よい音と共に氷が砕かれていく。
「……にしても、すごい偶然ですね。お酒もお好きなんですか」
「まあ、な。明日も仕事だから、あまり深酒はできないが」
黒く濁った液体が、仁さんの前に出される。ラムの甘い香りが、ここまで広がってきた。
「……ん、やはり渡部さん仕込みだな。蜂蜜入れてますね」
「お分かりですか」
「ブラックラムに蜂蜜を使うのが、渡部さん流でしたから」
美味しそうだなという感想と共に、僕は何か違和感を覚えていた。……なんだろう、これは。
「竹下君も、結構飲むね。にしても、ここはそこそこ高いはずだが」
「ハハハ……まあ」
仁さんこそ、という言葉を僕は飲み込んだ。……公務員がふらりと立ち寄れるほど、ここは安くはない。
カクテル1杯で1500円はする。かなりの酒好きなら、こんなのは平気で払うけど。僕だって、株で稼いだ金がなかったら、「Orchid」には通えないだろう。
もちろん、仁さんがかなりの通なのはすぐ分かった。ただ、やはり何か不自然だ。
……あ。
『そういえば牧場からの帰りに、毛利さん親子と会ったよ』
…………やはり、おかしい。
僕は目を見開き、仁さんを見た。彼は「バレたか」というように、ニヤリと笑う。
そうだ。こんな偶然が、何回も続くわけがない。由梨花に会ったのも、今日ここに来たのも、あるいは家元の所で出会ったのも……
全て、「必然」だ。
「……仁さんは、『どうしてここに』」
「さすが、勘が鋭いな。あるいは『思い出した』か」
……間違いない。彼も「コナン」の関係者だ。
「やはり、あなたも……!」
仁さんは僕を制した。
「これ以上はやめよう。せっかくの旨い酒が、まずくなっちゃいけない。……君に、あとで大事な話がある」
「大事な話、ですか」
「ああ。その分だと、大分『思い出した』ようだが」
「……仁さんは、警察ですよね」
彼は静かに頷く。
「それは間違いない。そして君に接触したのも、職務の一環だ」
「……え」
仁さんの目が鋭くなる。穏和そうな表情は、もうどこにもない。いや、これがこの人の……本性なのかもしれない。
「本題に入る前に、『本当の』自己紹介をしよう。……マスター、少し外してくれないか」
大城戸さんが一礼して奥に向かう。彼の姿が消えた後、仁さんがダイキリを一口飲んだ。
「俺は毛利仁。警察庁特務調査室警部だ。職務は、未来の重大犯罪者の監視と、犯罪の事前抑止にある。
そして竹下俊太郎。君はその『最重要監視対象』の一人だ」
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