第2話 人生の転機

 道を挟んで並び立つ、建物の白壁が陽光を跳ね返しているのを横目に、少年の足は貧民街近くにある市場へと向かった。目的の場所が近づくにつれ、徐々に騒がしい声が聞こえ始める。市場が活気と喧騒で満ち溢れているというのはどこも同じらしく、ここ砂の街「カザラ」も例外ではないらしい。ひっきりなしに飛び交う値段交渉の声を聞きながら、しばらく歩くと見慣れた老婆がやっている露店にたどり着いた。


 「ばあちゃん、いつものちょうだい」


 「はいよ。二ガルだ」


 果物と小銭を投げるようにして渡し合うと、すぐさまきびすを返しかけ――ふと違和感に気付く。いつもと同じ場所、いつもと同じ時間。にもかかわらず、いつもなら人で溢れている道が普段と比べると空いている。


 「今日何かあるのか?」


 「何言っているんだ。今日はあの日だよ。風を感じな」


 耳のすぐ横を通り抜けていく風に混じる、わずかな雑音。いつもとは違うが、慣れ親しんだ音に少年は納得の表情を浮かべた。どおりで今日は虎視眈々こしたんたんと露天商の隙を狙う盗人や油断している客の財布を狙うスリがいつもより少ないはずだと。貧民街に近いこの市場で狙われるのは財産だけではなく、命までも危険にさらされることも珍しくない。だが、そんな彼らも今日ばかりは、下手に外を出歩き運の悪さが重なれば、奪われる側になりかねない。


 「そういうわけで今日は早めに店をたたむから、さっさと品物を売りさばきたいんだ。だから帰った、帰った」


 「はいはい」


 せっかちな老婆に苦笑しながら、少年は今度こそ踵を返す。足早に市場を通り抜け、その先にある迷路のような小道を迷うことなく歩いていく。この街に来て、およそ三年。今年で十八歳になる中、有り余る体力を使って裏道まで歩き尽くした少年にとって、この街は自分の庭のようなものだった。落ち着いて食事を摂れる場所を探すことなど造作もない。


 (今日はあの日……ね)


 老婆に言われた言葉を頭の中で反芻はんすうし、今日は食後家にいた方がいいなと歩きながら考え、通ったことがなければ袋小路と勘違いしてしまいそうな道を折れたその先。視界の先には周囲を廃墟で囲まれているために砂煙に悩まされることのない静かな空間が広がっていた。猥雑わいざつな街の中で、ここだけが存在を忘れられたかのように落ち着いた空気が漂っている。廃墟の一部に腰掛けると、先ほど買った果物を薄汚れた服のポケットから取り出し、かぶりつく。口の中に広がる甘みと酸味。空腹を満たすように一気に平らげる途中、鼻先を血の匂いがかすめた。


 が、気にしない。この街では可愛い夫婦喧嘩から流血を伴う殴り合いまで、バリエーション豊かな争いごとが日常茶飯事だ。どうせ、またどこかで諍いがあったのだろう。どんどん強くなっている気がする匂いを無視し、ポケットに手を突っ込みごそごそと動かす。取り出された手の平に乗っていたのは数枚の硬貨だった。


 「残りのお金は今日の稼ぎとあとたったこれだけか……。こりゃ、予定より早く次のダンジョンに潜らないとな……」


 うめくような独白が口から漏れる。


 「仕方ない。ゴールド級かプラチナ級ダンジョンにでも今度潜るか」


 一人暮らしが長いせいで自然に漏れた独り言。どちらのダンジョンに潜るか相談できる攻略者の仲間など少年にはいない。硬貨を一枚親指にのせ、表が出ればゴールド級、裏が出ればプラチナ級にと心の中で決めて勢いよく弾く。陽射を受けてきらめき、天高く昇っていく。不意に、硬貨の行方を追っていた瞳に影が映った。最初は鳥が僅かに差し込んだ陽射の下を横切ったのだと思った。が、違う。影はどこかへ飛び去ることなく、ぐんぐん大きくなり、弾かれた硬貨を上から押さえつけるように一直線に彼の元へと落ちてきた。


 鉄の香りなんて、子供の頃から嗅ぎ慣れた好きでも嫌いでもない匂い。だが、今日の血の匂いは少年の日常を大きく変える始まりの合図だった。


「どいてください!」


 声の出所は上から降ってきた影。近付くにつれて輪郭をはっきりとさせた影の主は、少女を脇に抱えた若い女性だった。姉妹と言っても違和感のない年齢差だろう。その姿は背後の青空と相まって、まるで空から舞い降りた天使のようだった。おそらく飛び降りてきたのは崩れかけた廃墟の上から。誰もが躊躇ちゅうちょしそうな高さをためらうことなく飛び降りてきた彼女は、薄い緑色の髪を風で舞い上がらせながら着地すると、抱えた少女をかばうようにして細かい砂で覆われた地面に膝をついた。


 「くっ!」


 いくら地面が砂のクッションになっているとはいえ、すべての衝撃を殺しきれるわけではない。


 「おい、大丈夫か? あの高さを飛び降りるとか正気かよ。それに――」


 彼女と衝突する寸前。横っ飛びで衝突を回避していた少年はすぐさま文句を言いかけたが、その言葉は途中で途切れた。彼女の服装が貧民街が大部分を占めるカザラでは絶対に見かけることのない近侍服姿であったことがまず一つ。近侍きんじを雇える者など、地方を任せられている貴族か、カザラよりも遥か東にある帝国都市部の中に住まう者ぐらいだ。けれども、それ以上に少年の言葉を奪ったのは、幾重にも重なった複雑な切り傷。同じ場所を寸分違わず切りつけられたような。それを見て、少年は目を眇めた。彼女の傷口から滴り落ちる血が、服を伝い地面に黒い染みを作っていく。


 「大丈夫です。すみません。急いでいますので」


 エメラルドグリーンの瞳が少年を一瞥し、すぐさま走り出そうとする。が、その顔が苦痛に歪んだかと思うと膝から崩れ落ちるようにしてうずくまった。すぐさま駆け寄り、額に脂汗を浮かべる女性の顔を覗き込む。


 「それだけ出血していて大丈夫なわけないだろ。その傷……手当てしないと、あんた死ぬぞ。すぐ近くに貧乏人でも診てくれる医術師がいるから紹介してやる。そこに行こう。肩を貸せば、立てるか?」


 見ず知らずの人間とはいえ、痛みで柳眉をしかめる女性をほったらかしておく気にはなれない。伸ばした手に女性の迷いを含んだ視線がぶつかった。理由はわからなかったが、逡巡している様子の彼女はやがて意を決したように手を伸ばした。その時だった。


 「危ない!」


 女性の悲鳴にも似た警告とともに、急激に濃度を増した殺気。察知するや否や、少年は返事も待たずに少女を抱えた女性を下から抱き上げると後ろに勢いよく飛び退いた。減速する余裕などなかった。勢い殺せず廃墟の壁にぶつかり、少年の口から呻きが吐き出される。間一髪の回避。なぜなら先ほどまで三人がいた場所は、陽射を浴びてきらめく刃によって地面が文字通り割られていたのだから。


 「あのまま突っ立ってたら俺たちは……」


 頭からかち割られていた。少しでも反応が遅れていれば、直面していたであろう未来に冷汗が止まらなかった。地面を覆っていた砂は吹き飛ばされ、露出した場所には地割れのような亀裂。穿たれた地面の溝に吸い込まれるようにして落ちていく砂の音がやけにはっきりと聞こえた。


 「こんなのありかよ」


 風圧で舞い上がった砂煙が落ち着き、元の景色が完全に戻って来た視界に映ったのは、先ほどまではいなかった色黒の男だった。

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