第26話

 8月16日――午前九時。

 僕は家族の外出を見送った後、しばらくリビングのソファに横たわっていた。


(ああ……どうしよう……)


 酷くやる気が起きなくて、体が気怠けだるい気がした。

 でも今日は天川くんが来る日だ。

 きっと彼は楽しみにしてこの家に来る。来てくれる。

 そんな彼に、がっかりされたくない。

 外は厚い雲が空を覆っている。まるで今の僕の心を写し取ったみたいだと思った。

 僕は体調不良を隠してでも、今日一日を乗り切ることを心に強く誓った。


 ピンポーン……。

 玄関からチャイムの音が聞こえてきて、思わずソファから飛び上がった。

 時計を確認すると天川くんとの約束の時間になっていた。

「やば……っ。はーい!」

 僕はすぐに玄関先に向かい、ドアを開ける。

 天川くんが「よっ」と手を上げて僕を見た。彼を見た瞬間、僕の心の中に掛かった雲が少しだけ晴れた気がした。


「お邪魔しまーす」

「どうぞ」

 僕はお客様用のスリッパを玄関に用意して台所へと向かう。

「あ、待って、奥村」

「え?」

「これ、兄ちゃんが持ってけってさ」

「あ、わざわざどうも……」

 そう言われて彼から渡されたのは可愛らしい洋菓子用の小箱だ。なんでも、有名なところのケーキらしい。天川くんは「どこでこういうの知ってくる暇があるんだ」と何やら文句を言っていたが、その表情は楽しそうだった。


 台所で冷蔵庫から出したオレンジジュースを用意していたコップへ入れ、小皿と一緒にケーキをソファ前のテーブルに並べる。

 定番のショートケーキにモンブラン。タルトにチョコレートケーキにミルクレープ。全部で5個小箱に入っていた。

「なんで、5個?」

「あー。ご両親と妹さんにもって。ケーキ好き?」

「うん。美魚、喜ぶと思う。健さんによろしく伝えておいて」

「分かった。……奥村はどれがいい?」

 そう言われてケーキを見る。どれがいいと聞かれると、よくは分からない。ただ、一番初めに目に入ったショートケーキを取った。天川くんはミルクレープだ。

「あと、これ、プレゼント。なんか奥村に似てるなって思って」

 可愛らしくラッピングされた袋を受け取り、天川くんが『早く見て!』と言わんばかりの視線を僕に送る。僕は彼のその目に負けて、ラッピングを剥がした。

 中に入っていたのはなんとも言い難い、マスコットキーホルダーだった。

 何かのキャラクターだろうか。ペンのような形をしている。

「これは……」

「なんか、子供向け教育番組のマスコットキャラ? らしい。ペンと本を持ってこんなに険しい顔してるデザインでマスコットって、笑えるよな~」

「そう、だね」

「……あれ? 嫌だった?」

「あ、いや。嬉しい。ありがとう天川くん」

 そっか、と天川くんが笑う。

 以前、僕は彼に教育者になりたいと話題を出したことがあっただろうか? 記憶の限りではないはずだ。だから、とても嬉しくなった。

 何を感じてこのプレゼントを選んでくれたのか。そんなことを聞くのは野暮だ。


 僕は、やっぱり君が好きなんだ。

 そう素直に思った。


「じゃあ、僕からも……」

 僕もまた、可愛らしいラッピングがされた袋を天川くんに渡した。

「開けてもいい?」

「うん」

 天川くんは丁寧にラッピングを剥がしていく。

「……これは、レターセット?」

 正解である。

 天川くんにプレゼントを買おうと考えた時、何を渡せばいいのか本気で悩んだ。

 そもそも彼が何が好きなのか分からないし、高額過ぎても困るだろうし、かといってお菓子の詰め合わせはあまりにも幼稚ようち……。


 本気で悩んだ。


 先日、お母さんと買い物に出掛けた時、ふと綺麗な便箋びんせんが目に入った。

 その色がとても天川くんのイメージに合った。

 淡いだいだい色の便箋だ。温かくて、それでいてしたたかな彼の色。

 僕はその便箋セットに一目惚れして、即決で買った。


「へえ、綺麗な便箋だな! ありがとう。大切に使うよ」

「うん。気に入ってもらえて、良かった」

 ともかく、彼が喜んでくれたようで、ホッとした。


 ケーキを食べ終え、次に何をしようかという話になった時、天川くんがかばんの中から何かのパッケージを出した。

「兄ちゃんが面白いから見てみろって言って無理矢理貸してきたんだけど、見る? ホラー映画らしいんだけど」

「うん、見る」

 ホラー映画はあまり見ないけれど、苦手分野ではないはずだ。

 やることもなくなってしまったので、僕たちは健さんのおすすめしてくれたその映画のDVDを見ることにした。


 窓の外を見れば、今にも雨が降り出しそうであった。

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