第24話

 予定よりも早く着いてしまった。


 僕は図書館の中で暇を潰していた。

 クーラーは付いているし、静かだし。快適で、ずっとこの場所に居座っていたいとさえ思わせてくる。

 僕にはこの場所が、策士による罠だとさえ思えてくるのだ。


 冗談はさておいて。


 予定時間となったが、彼からの連絡がない。

 天川くんが遅刻だなんて珍しい。さらに連絡がこない辺り、道中なにかあったのだろうか、と不安になる。

 連絡を取ろうと携帯を手にした時、「奥村!」という声が入り口の方から聞こえた気がした。目をそちらに向けると、かなり焦った表情の天川くんがそこにいた。

 息を整えながら天川くんが図書館の中へと入ってくる。僕はゆっくりと彼に近付いた。彼の顔からは大量の汗が流れ出ていた。

「天川くんおはよう。どうしたの」

「どうしたの、って、時間、守れなかったから……。ごめん……」

「……僕は気にしないけど……」

「そ、そう……? ほんと、ごめんね?」

 苦しそうにしつつも、その微笑んだ表情は辛くはなさそうだった。

 その笑顔が嘘ではないのなら、僕も安心だ。

「ふぅ! 改めておはよう、奥村。図書館涼しいな!」

「……天川くん、しぃー!」

 バッと、図書館を利用している子供や司書さんたちが一斉に僕たちの方を向いた。僕は焦って天川くんの口に思い切り手を押しつけた。

 天川くんはそこで、ここがだということを思い出した。

「…………ごめん」

「……うん。静かにしようね」

「はい……」

 珍しく彼を見て、僕は内心笑ってしまった。

 まあ、反省しているようなので何よりである。


 図書館の奥に、僕が思っている特別な席がある。

 そこはが無く、日の当たりが心地良い、特等席。子供たちが来ることもないそこは、この地域の歴史書などが保管されている場所だった。

「太い本だなぁ」

「なんか市役所の方とか、地域のことを調べている方がよく借りに来るらしいよ」

 一冊の本を手に取って驚いている天川くん。確かに驚くのも当然か。僕もこの場所を初めて見つけた時、今の彼と同じ行動を取ったものだ。

「さて天川くん。今日は何からやりますか?」

「えっとぉ~……」

 僕たちは特等席に着き、机上に課題一式を置いていく。僕は今日までに高校から出されている課題全てを終わらせてきたので、彼に教えることを前提で、教える用のノートを作ってきたのだ。

「……奥村、そのノート、なに」

「ん? なにって……教える用に作ってきた授業ノートだけど」

「……へぇ~。気合いの入り方がえぐいな……」

「何か言った?」

「いえ! 何も言ってないっす!」

「で、何からやる?」

「……数学で」

 数学のノートを開き、勉強会を開始する。一教科、50分の時間を設け、10分の休憩をはさむ。それを五回ほど繰り返そうと思っていた。

 さあ、授業の始まりだ。

 デートとは名ばかりではあると思うが、それでも彼の為になることならば、僕はなんでも協力してあげたいと心の底から思うのだ。


 三回目を終えたころ、飲み物を買ってこようと僕は席を立つ。

 天川くんは飲み物を持参しているということだったので、僕だけ外の自販機で飲み物を買いに出た。

 外は陽炎かげろうがアスファルトの上に見えるほどの猛暑だった。

 8月ももう中旬。夏休みが明けるのもあと少しである。

 不意に、僕の頬を一筋の汗が伝う。

 この汗が、いったい何を表すのか。

 分かっていたけれど、僕はをした。


(大丈夫……。……)


 僕は一度、長い深呼吸をして、落ち着きを取り戻してから天川くんのいる特等席へと戻った。


 戻ると、天川くんは机上に伏せていた。

「天川くんっ⁉ 天川く、」

 もしかして体調が悪くなってしまったのではないかと怖くなり、天川くんの肩を出来るだけ優しく揺する。


 ……すぅ……すぅ……。


 どこからか規則正しい吐息が聞こえてくる。

 天川くんの顔色を覗くと、日が当たっていてほんのり赤く染まっている。その様子から体調不良という訳ではなさそうだったので僕はホッとした。

「なんだ……寝てるだけ、か……」

 急に体から力が抜けていく。

 彼の体調は、いつ急変してしまっても可笑しくないのだ。

 寝息を聞く度、安心している自分がいた。

 少しだけムカついたので僕は天川くんの眉間に人差し指を押しつけた。「むぅ……!」と眠りながら彼は眉間にを寄せた。その顔が面白かったので、許してあげよう。


 この時、僕は何を思ったのか、

 寝ている今の彼になら、言えると思ったのだ。

 僕は天川くんの耳元に顔を近付けて、

 そして、


 ――


 と、彼の名前を囁いた。


(…………うぁっ! 何やってるんだ、僕……‼)


 囁いた途端、僕の顔はこれでもかというくらい熱くなった。

 きっと外の気温と同じくらいに熱かったと思う。

 ああ、やってしまった。


 天川くんの顔が直視できなくなってしまった。


 自業自得だよ、と心の中でもうひとりの僕が囁いた。

 その通りである。

 僕は恥ずかし過ぎて、先ほど買った飲み物を一気に飲み干した。

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