第12話

 テスト最終日――。僕はこの日、憂鬱な気分に襲われた。

 最後の教科のテストが終わり、クラスメイトと同じようにテスト勉強からの解放感に満たされていた時、担任に職員室へ来るように言われる。いったい何の用なのだろう。ここ最近は特に何か問題を起こしただとか、記憶の限りは無いはずだった。だから、呼ばれる理由が本当に無かった。

 職員室に入室し担任のいる場所へ向かうと、担任の机の上には大量の紙が束になって置かれていた。

「――ああ、奥村。すまないがこれを教室まで持っていってくれないか?」

「……はあ」

 そう言われて束を渡される。それは、の紙だった。

 提出日は夏休みに入る日の前日。今日から二週間後である。僕は束を持ちながら教室に向かう。途中、溜め息が止まらなかった。それはちらりと見え隠れする『保護者欄』の記入箇所。

「……どうしよう……」

 思わず漏れてしまった言葉は、僕の気分をどんどんと沈ませた。


「――ねえ」


 教室に向かう途中、僕は何故か声を掛けられる。僕に声を掛ける人物なんて、この学校には担任か天川くんくらいだ。けれどその声は彼らではない。何故なら女性の声だったからだ。とりあえず無視をするのも失礼なので振り向いてみる。

 そこにいたのは、この間天川くんに話し掛けていた『さおり』という少女だった。

「……あの、僕に何か……?」

 ズカズカと彼女は僕を廊下の壁まで追い詰めていく。思わず僕は後退あとずさり続けて、ついには壁に背中が付いた。そして彼女は僕の左腕横を思い切り自分の左足をぶつけて、発生した大きな音で威嚇し、蔑むような目で僕のことを見詰めた。

(……⁉ や、ヤンキー⁉)

 僕は驚いて腰を少しだけ抜かして、その場にずるずると座り込んだ。三者面談の紙が少しだけ折れたような気がする。それを気にしている余裕など、この時の僕には無かったけれど、くしゃっという音だけが妙に鮮明に聞こえた。

「……なんであんたみたいなのが将成のお気に入りなの……」

「へっ?」

 何かを呟いた彼女は、自分のスカートの中身が見えるか見えないかなど気にすることなく、僕を詰めていく。その目はなんだか悲しそうに見えて、僕は息を飲んだ。

 彼女はそんな僕の表情を見て「ふっ」と不敵な笑みを浮かべた。携帯をスカートのポケットから取り出し、一枚の画像を僕に見せつけた。それは、あの日保健室で天川くんにキスをされた時の写真だった。

「…………え」

 どうして彼女がこんな画像を持っていたのか。そもそも何故僕が彼女に標的にされているのか。考えがまとまらない。というか、考えることが出来ない。

「将成は私のものなの。ねえ、将成を惑わさないで。将成を困らせていいのは私だけなの」

 どうやら僕は天川くんのことを惑わしていると彼女に思われているらしい。失敬な。惑わされているのは僕の方だ! と反論したくなったが、彼女の真剣な目を見てしまうと何も言えなくなってしまう。

「だから将成から離れて」

「あの、僕は……」

「――おい佐央里、こんなとこで何してんだよ」

 ふと、彼女によって暗くなっていた視界が一気に開ける。え、と上を見上げるとそこに話題の天川くんが彼女を羽交はがめにしていた。「放せ!」と暴言を吐きながら彼女は天川くんから放れようとするけれど、天川くんという男の力に勝つことはできなかった。

「天川くん……!」

「おう、奥村。久しぶり」

「放して将成!」

「ちょっと見てたけど恐喝みたいなことすんなよ。兄ちゃんに言いつけるぞ」

「っ、健くんは関係ない!」

 彼女はようやく天川くんから解放され、僕の方を見てギリッと殺気立った視線を送るとそのまま今日は諦めたのか立ち去って行った。

「大丈夫だったか?」

「え、うん。ちょっとびっくりはしたけど」

「ごめんな。俺の所為だろ、多分」

 天川くんが項垂うなだれている。僕はゆっくりとその場から立ち上がって、そういうことならと彼に声を掛けた。

「悪いと思うなら、これ、一緒に教室まで運んでくれない?」

 天川くんは僕からのに、笑顔で答えた。

 僕はきっと元気のない彼の顔を見るのが嫌なんだ。怖くて、不安になるからと、この時そう感じた。

 教室へ戻ってクラス全員に三者面談の紙を配布し終わる。今日最後のホームルームも終わって帰ろうとした時、天川くんに呼び止められた。

「なあ奥村、今日ってこの後時間あったりする?」

「え? ……まあ、特には用事は無いけど」

 本当は父さんのお見舞いにでも行こうかと思っていたけれど、それは今から連絡しようとしていたところだし、そもそも行く約束をしていなかったのでそう答えた。

「じゃあさ。俺に付き合ってよ」

 ――デート、しよ? と、周りには聞こえないように天川くんが耳元で囁いた。僕はびっくりしすぎて勢いよく立ち上がり、そして椅子から転げ落ちた。クラスメイトたちの視線が一斉にこちらに向いたことなど気にも留められなかった。


 下校時、僕の少し前を天川くんが歩いている。とりあえず僕は彼に付いて行くという選択しかこの時は持ち合わせていなかった。いったいどこへ連れて行かれるのだろう。あんなことを耳打ちされて気が気でなかった。妙にそわそわしてしまい、今の僕はきっと挙動不審者だったことだろう。

「着いたよ」と天川くんの足が止まる。下に向けていた視線をゆっくりと上げると、目の前にあったのは水族館だった。

「水族館?」

「うん。じゃあ、行こう!」

「えっ、ちょっと、待って!」

 僕は急に天川くんに手を握られ勢いよく引かれた。周りの人目など一切気にせずに手を引かれて僕の中の羞恥心は爆発しそうだった。

 水族館のチケットを二枚購入して中に入る。天川くんはまるで子供の様に目をキラキラと輝かせてはしゃいでいる。僕も、先ほどまでの恥ずかしさなどどこかへと飛んで行ってしまうほど、久しぶりの水族館に心を奪われる。

 小さい頃に一度、母さんと来たことがある水族館。記憶の中の当時よりも綺麗になった浴槽の中で可愛らしい魚たちが元気に泳いでいる。そういえば、美魚はまだ一度もこういった施設に来たことがないはずだと思い出す。今度連れてきてあげよう。きっと喜ぶ、そう思った。

 そうこうしているうちに、この水族館の目玉である中央柱型水槽の区間へと辿り着く。この水槽は一本の大きな柱の形をしており、水族館の中央に立ちそびえる巨大な大型水槽で、中には海の魚のほかにエイやサメなどが悠々と泳いでいた。

「……気持ちよさそうに、泳ぐなあ……」

 僕は自然とそう口にしていた。

 不意に、僕の右手が強く握られる。天川くんの手が強張こわばったのが分かった。温かったはずの彼の手は段々冷えていく。

「……天川くん?」

「…………」

 様子が可笑しい。僕は立ち止まってしまった彼を優しく引っ張っていく。天川くんは大人しく引っ張られる。それが怖かった。


 冷えていく。

 彼の温もりが失われていくことが、怖い。

 早く彼を安心させないとと、僕の心が僕にそう言った。

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