第6話

 勢いで天川くんの家を飛び出して、最寄りのバス停まで走り抜ける。雨に再び濡れてしまったけれど、思ったよりも濡れることはなかった。バスが到着して僕は乗り込む。乗客の何人かが僕のみすぼらしい姿を見て驚いたような空気が流れたけれど、今の僕にそんなことを気にする余裕など皆無だった。

 きっと、天川くんは心配しているだろうな。そんな簡単なこと、僕にだって分かる。でも、これは僕の我儘わがまま

 後部座席が空いていたので僕はその席に座る。ふと、教科書などが濡れていないか心配になり、スクールバッグの中を確認する。携帯も筆箱も、明日も必要になる教科書も、全部無事だった。だけど、一番濡れていてほしくなかった書類が濡れてしまっていたことに気付いてしまった僕の気分はどんどん落ちていく。

 それは進路希望調査書。まだ白紙だったからいいものの、少しだけとしてしまった。大学への進学か、地元就職か。そろそろ決めなければいけない時期だ。


 夢が無いわけではなかった。けれどそれを両親に伝えたことはない。

 自宅に一番近い最寄りのバス停に着き、運賃を支払い降りる。すでに外は雨が止んでいた。よかった。帰るまでに少しだけでも服が渇いてくれると期待して帰路を歩く。

 バス停からただひたすら真っ直ぐ歩いていくと道の端にある戸建ての一軒家がある。それが僕の家だ。外灯が光っているので家には誰かしらが戻っている。携帯の連絡から母親がいることは確定していて、妹もいるはずだ。その明かりを見る度に、僕の胸は締め付けられる。

「……ただいま……」

 玄関に3足靴が揃っている。そうか、今日は父さんも早いんだ。

「――あ! かいくん帰ってきた! お帰り!」

「……美魚みお

 完全に俯いていて気が付かなかった。声を掛けられて初めて妹の美魚の存在に気が付く。美魚はリビングに向かって戻って行く。僕も同じようにして靴を脱いでリビングに向かう。その足取りは何故か重い。

「お帰りなさい、海音くん」

「はい、戻りました、お母さん」

 リビングには母と美魚がいただけで、いるはずの父さんが見当たらない。僕の雰囲気に気が付いた美魚が僕の手を引く。

「パパはね、今お風呂だよ」

「そっか」

 父さんがこの場にいないことが幸いかどうか分からないけれど、僕は不思議と安心した。こんな僕を、見られたくなかった。

「あの、友達の家に行っていてご飯も頂いてきたのでもう寝ます。おやすみなさい」

「そう。おやすみなさい」

 嘘は吐いていない……半分は。美魚が「え~」と残念そうにしていたけれど、ごめん、今日はすぐにでも休みたいんだ。僕は部屋に戻ろうとリビングを出て階段を上がろうとした。

「……海音?」

「……父さん」

 なんてタイミングだ。一番僕のこの姿を見られたくないと思っていた人物に鉢合わせてしまった。僕はとりあえず「ただいま」と応えた。父さんも「お帰り」と言ってくれた。

「夕飯は食べたか?」

「あ、食べてきたから、大丈夫」

「そうか。もう寝るのか?」

「うん。なんだか、疲れちゃって」

「そうか。おやすみ、海音」

「うん、おやすみ、父さん」

 父さんは風呂上りなので首にタオルを巻いていた。それで残った水滴を拭きながらリビングへと戻っていく。少しすると談笑する声が聞こえてきた。家族の時間を邪魔したくない僕は独りになることを選んだ。


 僕はこの声が――嫌いだ――。


 朝になって、憂鬱な気持ちが晴れることはなかった。昨日の夜も食べていないというのに、僕のお腹は不思議なことにあまり空いていない。

 昨日天川くんに借りた服をどうしようと考えながら制服に着替え、部屋を出る。リビングに入ると机の上に朝ご飯と思われるおにぎり数個とメモが一枚置かれていた。

〈美魚を小学校へ送ってきます。朝ご飯は机の上に置いてあるものを食べてください。すぐに戻ります――由子ゆうこ

 なるほど、だからいないのかとひとり納得する。父さんはもう出ている頃だろうから今この家には僕しかいない。少しだけ心が楽になる。安心したからといって僕のお腹が空くわけではなかった。しかし食べないわけにもいかないので、ひとつでも食べようと努力する。


 朝ご飯、食べなきゃよかったと今になって後悔している。無理に食べたのが祟ったのか僕は学校へ向かうバスの中で乗り物酔いをしてしまった。……まあ何も、今朝だけが理由ではないことは分かっていた。

 教室に着いて、僕は落ち着くためにスクールバッグを枕にして机に突っ伏した。ぐるぐる気持ち悪い。落ち着くには時間を要しそうだ。まだ天川くんは席にはいなかった。それだけでも気持ちが揺らがなくて楽だ。段々とクラスメイトたちが入室してくる気配がしたけれど、そんなことなどお構いなしに僕は四限目まで寝続けた。


 四限目になって背後からトントンと優しく背中を叩かれる。ゆっくりと僕の意識は現実世界に浮上する。

「……奥村……? 大丈夫か?」

「天川……くん……?」

「うん。具合、悪そうだな。次、体育だけど見学にしてもらおう」

「体育……? 四限目……! どうして起こしてくれなかったんだ!」

 はっきりとしてきた意識で現在の時間を確認して驚愕した。今まで授業をサボったことなどなかった。これは僕の夢にも関係することだが、単位を落とすことは夢を諦めることと同義。必死になる僕を初めて見た天川くんは「大丈夫?」と何度も僕に聞く。僕はそんな彼の心配など他所よそに体操服を持って更衣室へと走った。

 無事に僕は体育の授業に間に合った。天川くんはいつも通り見学席にいた。

 体育館で行う授業はバスケットボールだった。僕は球技系の運動はそこまで得意ではないけれど、出来ないわけじゃなかった。雨が続いた所為でグラウンドが使えなかったため、急遽バスケになったとのことだった。充分に準備運動を済ませてから3対3のミニゲームが始まる。もともと体力のない僕には地獄の時間の始まりだった。

 数分後、僕のいたチームが相手チームよりも大差で負けてしまう。僕がいない方がよかったかな、なんて思ったりもするけれど、これに関してはどうしようもない。

 休憩を10分ほど挟んで、もうひとゲームやることになった。やっと休める、と急に気を緩めたのがいけなかった。

 無意識に僕は天川くんのもとへと足を進めていた。天川くんは「お疲れ」と笑顔で僕を迎えてくれる。僕は、天川くんの優しさを無意識に求めていた。途中でカクンッ! と視線が下がる。違う、僕が膝から崩れ落ちたんだ。「え?」と拍子抜けた声が僕の耳を通った。それが自分の声だと気付くには少しだけ時間が必要だった。

「――奥村!」

 天川くんの声が遠くの方で聞こえる。え、なにこれ。体全身の力が抜けて立っていられない。そもそも今僕、どうなってる? 目がチカチカして前が見えない。耳鳴りがして何も聞こえない。

「奥村、奥村。大丈夫、大丈夫だよ。ゆっくり息して」

 耳鳴りがしているのに、天川くんの声だけがはっきりと聞こえる。ゆっくり息をしてとはどういうことなのか。そういえば呼吸がしづらいと思ったけれど、これがそうなのかな。どちらにせよ、今の僕ではコントロールができない。

「大丈夫、うん、上手」

 妙に手慣れてるな、なんて体の不自由とは裏腹にクリアな意識で思う。少しずつ、視界も耳鳴りも、回復してくる。目の前に天川くんの顔が映る。僕は今、天川くんに抱えられていた。

「……あ、……」

「どうした、奥村」

 この時の僕は、恥ずかしいという感情や体調の悪さなどよりも、申し訳ないという気持ちが勝り、どうにかして彼に伝えなければと思った。


「…………ごめ、ん……」

 この声が彼に届いたのか、僕に知るよしはない。

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