第15話

 ユウヒはキッチンに立ち、こちらに背を向けて具材を刻み始めた。その手つきを眺めるともなく眺め、うまいもんだなと思う。料理をする手。けんダコのある手。どちらも今のユウヒの手だ。

 チャーハンをいためる音とすさまじい換気扇の音をBGMに、ひとりで黙って飲む。この部屋にはテレビもない。

 ほどなくすべての音が消えると、急に静けさが際立った。ユウヒが山盛りのチャーハンを両手に持って運んでくる。ふぞろいな皿を二枚、スプーンを二本、ことりとちゃぶ台に置く。いいにおいだ。

 ユウヒが向かいに座るのを待って、アサヒは言った。

「いただきます」

「……いただきます」

 ユウヒも同じ言葉を口にする。

 その声に違和感を覚え、アサヒはスプーンをつかみかけた手を止めた。うつむいたユウヒの顔を見ると、ほほえんでいるものの、表情がぎこちない。

「ユウヒ?」

 ゆっくりと顔を上げたユウヒは、困ったようにアサヒを見つめた。

「食べてから言うつもりだったんだけど」

 見慣れない悲しげな瞳に、胸がざわつく。

 すうっと息を吸い込んでから、ユウヒはアサヒを見つめたまま口を開いた。

「兄ちゃんに会うのは、これで最後にするよ。せっかくまっとうに生きてるのに、犯罪の手伝いなんかさせてごめん」

 アサヒはぽかんとして、その唐突な言葉を受け止めた。

「なんだよ、いきなり」

「いきなりじゃないよ。全部終わったら、その日に言おうと思ってた」

 声音の静かさにたじろぐ。こんなふうに話すユウヒは知らない。

「俺さ、十年前に警察に保護される前から、自分がお父さんの子じゃないって知ってたんだ。兄ちゃんと兄弟じゃないって」

「え……」

「俺はお父さんの借金相手の子なんだ。お父さんは当時三歳の俺に包丁を突きつけて、借金をチャラにしろって迫った。ところがけんもほろろにあしらわれて、俺を抱いたまま逃げて、自分の子として育ててたんだって。俺が今回、誘拐って手段を選んだのは、そのことをどっかで意識してたのかもな」

 アサヒはごくりと唾を飲み、どうにか声を押し出した。

「いつから知ってたんだ」

「お父さんが急に九州へ行くって言い出したとき、理由を訊いたんだ。そしたら、俺を本当の親に返すためだって。俺の本当の家が鹿児島にあるから」

 お父さんによれば、三人の車上生活の始まりは九州からだった。鹿児島。それでか。

「中三のとき、一度だけ見に行ったことがあるんだ。ハレを脱走して、事務室から旅費を盗んで。友達の家にいたことにしたけど、実際ははるばる鹿児島まで行った。正確な住所を知らなくても、お父さんから聞いてた情報だけで簡単にたどり着けたよ。実の父親はヤクザまがいの男だった」

 ユウヒは言葉を切り、小さくかぶりを振った。

「こんなこと話しても意味ないよな。どんな親か、俺がハレに戻ったってことで察しがつくだろ。三歳の息子が包丁を突きつけられてもおかまいなしで、連れ去られても放っておいた連中だ。警察に保護されたときにわかったことだけど、事件は通報されてなかったし、捜索願も出されてなかった。俺の実の親はそういう人間だったんだよ」

「お父さんは、どうして突然おまえを返そうなんて」

「俺と兄ちゃんが成長するにつれて、お父さんは車上生活に限界を感じるようになってきてたんだと思う。それに、お父さんは知ってたよ。兄ちゃんが車上生活をやめて、普通の生活をしたがってたこと」

 言葉が出なかった。動いたつもりもないのに、スプーンがちゃぶ台から落ちた。

「本当の親に返すって聞かされて、めちゃくちゃショックだった。本当の子じゃないから俺だけ追い出されるんだって思った」

 ユウヒの口角が震える。いったんぎゅっと唇を結び、決意を宿した目でアサヒを見る。

「俺はそれがどうしても嫌で、車がなければって思った」

「……え?」

 どこかで聞いた言葉だ。──車がなければいいんじゃない?

 どこかじゃない。忘れもしない。十年前の十二月、ユウヒがアサヒに告げた言葉。車上生活に嫌気が差していたアサヒは、それを真に受けて車を壊そうと考えた。そのために給油口からスティックシュガーを入れた。車は事故を起こし、お父さんは死んだ。

「まさか、わざとだったっていうのか」

 弟はただ無邪気に言ったのだと思っていた。今の今まで、ずっと。

「そうだよ」

「俺が車に細工をするように仕向けたのか」

 声が震える。体の全部が震えてくる。

 髪を黒くしたユウヒは、子どものころのユウヒに驚くほど似ている。二重まぶたの明るい瞳。その輪郭がぶれてぼやける。

「そう。俺は兄ちゃんにお父さんを殺させてしまった。実の息子じゃない俺が、兄ちゃんから兄ちゃんのお父さんを奪ったんだ。脅迫なんかできる立場じゃなかったんだよ」

 ユウヒはせきを切ったようにしゃべり出した。

「だけど、狂言誘拐をやろうと思いついたとき、頭に浮かんだのは兄ちゃんだった。里親の父さん、ハレで一緒に育った仲間、親身になってくれる職員、友達、たくさんの人が周りにいるのに。なかにはもっと犯罪に対してハードルの低いやつだっているのに。なあ、この部屋、統一感ないだろ。全部もらいものなんだ。自分の好みとか、よくわかんなくて。車の外でどう生きたらいいのか、どう生きたいのか、全然わかんなくてさ。父さんはおまえの好きに生きたらいいって言うんだけど、それがわかんないんだよな。とりあえずハレには恩があるから、そのために生きてみてるけど」

 いつの間にかユウヒの顔はゆがんでいた。丸めた紙くずみたいにくしゃくしゃで、涙を流していないのが不思議なくらいだ。

「もう三人ぼっちじゃないって、兄ちゃん、俺に言ったろ。でも、俺はずっと三人ぼっちの世界にい続けたんだと思う。お父さんと、兄ちゃんと。里親の父さんはあんなによくしてくれるのに、養子縁組をしないかって言ってくれたとき、どうしても、うんって言えなかった。自分の根っこがあっちの世界にとらわれてるんだ。本心から家族って思えるのは、お父さんと兄ちゃんだけなんだ。だけど、家族でいる資格なんて俺にはなかった」

 アサヒは立ち上がった。これ以上、聞いていられない。体じゅうの血管が膨れ上がり、こめかみが波打っている。

 部屋を飛び出したアサヒを、ユウヒは止めなかった。表に出たとたん、けたたましいクラクションとともに車がすれすれのところを通過していった。その音に頭のなかがかき回される。ぐちゃぐちゃだ。もうぐちゃぐちゃだ!

 お父さんを殺してしまったことに、ずっと罪悪感を抱いてきた。それだけじゃない。ユウヒに対しても負い目があった。ユウヒからお父さんを奪ってしまったと自分を責めてきた。なのに、あれはユウヒがやらせたことだった?

 三人ぼっちの世界。自分の根っこ。家族でいる資格。いま聞いた言葉が脳内で暴れ回っている。わかんなくてさ。ああ、俺にだってわからない。三人の世界が終わって十年だ。こう生きるべきだと俺は教え込まれてきた。それが「普通」で「ちゃんとしてる」ことだと。そうでないと社会に受け入れられないのだと。だから歯を食いしばってそうしてきた。十年。血を吐くような十年。その間、おまえは楽しくやってきたんじゃないのか。新しい人生で、幸せなんだろ?

 こみ上げる感情を抑えられず、電柱を殴った。通りすがりの女がぎょっとしたようにこちらを見て、足を速めて去っていく。

 アサヒはその場を離れ、あてどなく夜の町を歩いた。いろんなことがとりとめもなく頭に浮かぶ。

 つるかめ湯の下駄箱のそばで、しきりにこちらを見たユウヒ。震えていたユウヒ。お父さんの死を告げられたときの、あの沈黙。歯の矯正。小学校の教室でパンツを下ろされたこと。やわらかそうな美織。『ドン・キホーテ』の文庫本。誘拐計画とその成功。はっは! お父さんの笑い声。陽気で優しいお父さん。俺はくずだと、父親失格だとふさぎ込むお父さん──。

 我に返ったとき、どのくらいさまよっていたのかわからなかった。人通りがすっかり絶えているから、かなり遅い時間だろう。腕時計も携帯も、ユウヒの部屋に置いてきていた。

 道端で立ち止まり、これまでの二十年の人生を考えた。最初の十年と次の十年のことを。

 奪ったものと奪われたもの。得たものと失ったもの。真実と噓。本質と見せかけ。大事なものと要らないもの。こっちの世界とあっちの世界。

 自分という人間の根っこを強く意識する。新しい土に根づかせようと必死だったけれど、本当はずっと知っていた。

 顔を上げる。白い息の向こうに、車のヘッドライトの黄色い光が小さく見えた。

 黄色は進め。全速力で突っ込め。

 アサヒはユウヒのアパートに向かって歩き出した。


 15


 玄関の鍵は開いていた。ここまで来ても第一声をどうすべきか決められず、ノブを握ったまましばしためらう。子どものころはどうやって仲直りをしていたのだろう。思い出せない。

 まだチャーハンのにおいが漂っていた。そういえば、ひとくちも食べていない。

 アサヒは深く息を吸い、ドアを開けた。まずは顔を見てからだ。

 最初に見えたのは、ユウヒの足だった。床に寝転がり、こちらに背を向けて体を丸めている。眠っているのか。拍子抜けしたような、ほっとしたような気分だった。ユウヒが暴れたのか、ちゃぶ台の位置が大きくずれて、空き缶が畳に転がっている。

 音を立てないように部屋に上がる。そのとき、妙なにおいに気づいた。チャーハンのにおいに混じって、生臭いようなにおい。

 いぶかりながら歩を進めたアサヒの視界に、ユウヒの全身が映った。その瞬間、頭が真っ白になった。

 ユウヒの体の下に、赤い水たまりがある。腹に包丁が突き刺さっている。

 鼓動が胸を突き上げた。

「ユウヒ!」

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