第14話

 十六時半きっかり、日の入りとほぼ同時にバスは出発した。これが最終便で、終点に着くのは一時間後だ。客の乗降が少なく渋滞もまず起きないルートで、めったに遅延がないことは確認済みだ。

 乗降口に近い二人がけの座席に座ったアサヒは、ほんのつかの間、目を閉じた。神経がえて少しも眠くはないが、一日じゅう移動し続けて体は疲れている。

 相変わらずお父さんの気配を感じていた。染みついた煙草のにおいみたいに。とっくに縁を切り葬った過去のにおい。目を閉じてバスの振動に身をゆだねていると、それはますます強くなった。

 バスは市街地を抜け、山梨方面へと進んでいく。景色が山がちになり、残照もみるみる消えて、闇が迫ってくる。

 行先は山の中腹にある小さな集落で、斜面にへばりつくように何軒かの古い家と畑が見えたが、すべてが使われているわけではなさそうだった。山に差しかかるまでに乗客はアサヒともうひとりの老人だけになり、その老人もふもとの集落で降りた。まもなく十七時半。あたりはすっかり闇に包まれ、道路を照らすものはバスのライトしかない。

 停留所は緩やかなカーブの途中にあった。そこから先は道が細くなり、車が入れないことはないが、バスはここでUターンする。Uターンせずに進めば廃業したキャンプ場があり、さらにその先は徒歩でしか行けない登山道だ。

 無人だった。道の反対側に厚木市街方面へのバス停があるが、そこにも誰もいない。静けさと冷気が体に染み込んでくる。

 待合小屋があり、ベンチが置かれていた。ベンチには手作りらしい古びた座布団が敷かれている。そこへ入っていき、ベンチの座面の裏をまさぐると、指先が小さな紙に触れた。バイクで先着したユウヒが貼りつけていった、次の行動を指示するメモだ。着ぐるみのままで十八時に地図の場所へ来い。アサヒには必要のないメモだが、計画どおりにユウヒがここへ来ているという合図にはなる。ベンチの下には黒いビニール袋が押し込んであり、中には懐中電灯が入っていた。

 再び頭までパンダになり、リュックをとんと背負い直す。目的地は、キャンプ場の先の登山道の途中にある公衆トイレだ。そこを提案したのはユウヒで、友達とキャンプに来たことがあるらしい。下見をして、アサヒも納得した。

 ここからトイレまでは普通のかつこうで歩いて三十分の距離だが、犯人は十八時ちょうどに来いと要求している。あと二十分少々。走らなければ間に合わない。そんな時間設定にしたのもユウヒの考えで、着ぐるみを着せるのと同じく、ちょっとした仕返しだそうだ。

 走り出してすぐに、ユウヒの稚気を受け入れたことを後悔した。着ぐるみは走りにくい上、ひどく暑い。昨日から気温が下がって夜は一けたにまで落ち込むという予報だったが、あっという間に汗が噴き出してきた。運動不足もあって、たちまち息が上がり、全身の筋肉が悲鳴をあげる。

 ようやくキャンプ場。チェーンで封鎖されている。完全にはいきよだ。横目で見て、むちを入れる気持ちで足を動かす。犬のえる声が聞こえる。野犬のすみになっているのだろうか。恐怖。懐中電灯の光があちこちへ飛ぶ。背中のリュックが揺れる。捨ててしまいたい。足が痛い。腹も痛い。息が苦しい。あとどのくらいだ。

 舗装されていない登山道に入り、石や木の根に足を取られつつよろよろと登っていくうち、やっと公衆トイレが見えてきた。最後の力を振り絞ってたどり着き、荒い息で時計を見ると、約束の時間まであと十秒もない。

 考える暇はなかった。そんな力も残されていなかった。トイレに飛び込み、ひとつしかない個室に入ってかぎをかける。

 ほとんど直後にドアの外で声がした。

「お疲れ」

 変声器を通していない、ユウヒの声だ。

 アサヒは無言でリュックを下ろし、丸めたジャケットの下から札束を取り出した。ドアの下の隙間から差し出そうとして、寸前で動きを止める。

「なんで、運搬役、変更したんだ」

 沈黙があり、自分の息づかいと激しい鼓動、それに虫の羽音だけが聞こえた。懐中電灯の明かりに浮かぶドアの落書きをアサヒは見ていた。ローマ字で記された誰かの名前。

「気が変わったんだ」

 ユウヒはそう答え、ドアの隙間に指先を差し込んできた。アサヒはしばしためらったが、結局その手に札束を握らせた。

「……ありがとな、兄ちゃん」

 そのひとことを残し、ユウヒが去っていったのが気配でわかった。このドアにはあらかじめ細工と補強がしてあり、いったん施錠してしまえば開けることもやぶることもできない。携帯電話は圏外だから助けを呼ぶこともできず、ユウヒが安全圏に逃れてから松葉側に連絡するのを待つしかない。

 落ち着いて見ると、ひどく汚い場所だった。登山客もあまり使用していないのかもしれない。和式の便器の周りは水浸しで、落ち葉が入り込んでまり、巨大な蛾のがいが転がっている。着ぐるみのせいでさほどは感じないものの、吐き気を催すようなにおいがしているに違いない。最低の一日の、最低の終着点。

 それでもこれで終わったのだと、アサヒは自分に言い聞かせた。


 13


「もし野犬の群れに囲まれたらどうする」

 あれはいつどこでの会話だったのだろう。車上生活には都市部のほうが都合がよくて、野犬が出るような場所にはめったに行く機会がなかったから、ラジオの話題がきっかけだったのかもしれない。

 お父さんの質問に、ユウヒは力強く即答した。

「やっつける!」

「素手でか? 野犬には凶暴なきばがあるんだぞ」

「じゃあ石をぶつける!」

「ユウヒは勇敢だな。さすが俺の息子だ。でも野犬はすばやい」

 アサヒはどうだ、というようにお父さんがこちらを見る。

「高いところへ逃げる」

「いい考えだ。アサヒはやっぱり頭がいい。でも野犬はすばやいって言ったろ。おまえたちが思う以上にだ」

 じゃあさ、とユウヒは新たな案を口にしようとする。たぶんまだ思いついていないのに。アサヒは黙って考えながら、お父さんの言葉の続きを待つ。

「おまえたちは野犬に囲まれてしりもちをついて震える。犬たちはじりじりと輪を狭めてくる。歯がよだれで光ってるのが見えて、生臭い息がかかる。そこにお父さんが現れる。おまえたちは、もう大丈夫だと思う」

 赤信号で停まったところで、お父さんは窓の外に煙草の灰を落とした。横に並んだ車から非難がましい目を向けられたらしく、首を傾けて威嚇する。きれいな車だ。「金持ちの車」じゃないけれど、普通の車。

「俺は野犬のやっつけ方を知ってる。それを実行できる力とすばやさと度胸がある。でも俺にとって大事なのは、野犬をやっつけることじゃなくて、もう大丈夫だとおまえたちが思うってことだ。お父さんが来たからもう大丈夫だと」

 信号が変わるなり、隣の車は急発進して遠ざかっていった。てっきりしばらく追い回すのだと思ったが、お父さんはそうしなかった。ゆっくりとアクセルを踏み、煙草の煙を吐き出す。

「でもな、俺がいなくても、おまえたちが勝てる方法がひとつだけある」

 なになに、とユウヒが訊いた。アサヒはやはり黙って待った。

「それはな……」


 14


「成功を祝して」

 黒髪のユウヒが笑顔で差し出した缶に、アサヒは自分の缶をぶつけた。じかに口をつけて思い切りあごを上げ、ごくごくと喉を鳴らして一気に飲み干す。こんなにビールがうまいのは初めてだ。

 あのあと、やって来た修の部下によって、アサヒは二時間ぶりにトイレから救出された。彼らは個室の内部を調べ、タンクの下に折り畳んだ紙が貼られているのを見つけた。それは横浜市内の地図で、一箇所が赤い丸で囲まれており、そこには建設中のビルがあった。さっそく急行したところ、薬で眠らされている美織を発見したという。

 アサヒはそれを選挙事務所の二階で聞いた。着ぐるみを脱いで顔だけは洗ったものの、汗がすっかり冷えてしまった体はそのままで、おまけに朝食以降は何も口にしていなかった。せめて水分は取るべきだったと、あとになって思う。

 美織はただちにかかりつけの病院へ運ばれ、塔子と由孝がそこへ向かった。残った修と秘書に見送られ、アサヒは事務所を出て、その足でユウヒのアパートへとやって来たのだ。修は車で送らせると言ったが、行き先を知られたくなかったので断って電車を使った。

 シャワーと着替えを借りて場から出てきたタイミングで、美織がかくせいしたと由孝から電話があった。健康状態に問題はないが、強いショックを受けているようで、事件についてはまだ何も聞けていないとのことだった。

 のちに彼女はこう語るはずだ。誘拐されていた間のことは、目隠しをされていたからよくわからない。建物の様子も、犯人の顔も見ていない。ただ犯人の声や話し方から、年配の男女で構成された三人以上のグループだと思う。

 ただし、美織がそれを警察に語ることはない。美織は「めまいがして倒れた」だけで、誘拐事件などなかったのだ。万引きや自傷行為が、美織いわく「なかったこと」になったように。君もそれを間違えないでくれと由孝は言った。まさにこちらの狙いどおりになったわけだが、図書館で一度だけ会った美織の顔が頭に浮かんで、あまりいい気分ではなかった。

 ユウヒが二本目のビールを持ってきた。

「今日はじゃんじゃん飲んでよ。山ほど買ってあるから」

 金額のことが頭をよぎったが、おごられてもいいだろうと思い直した。大変な目に遭ったのだ。飲まず食わずで一日じゅう移動し続け、あんな恰好で山道を走って、汚いトイレに二時間も閉じ込められて。しかも、着ぐるみはダニやらノミやらの住まいになっていたようで、アサヒの顔や首筋はそれらにやられたとおぼしき赤いはんてんだらけになっていた。着たときにかゆいと感じたのは、気のせいではなかったのだ。松葉家の面々はひどく心配し、申し訳ながった。

 ようやく人心地がついて部屋を見回す。ベッドの枕元に『ドン・キホーテ』の一巻が置いてあるのは、美織がそこで読んでいたからか。さっきシャワーを借りたとき、風呂場には女性用のカミソリが出しっ放しになっていた。

「腹へってるだろ。チャーハン作るけど、他にリクエストある?」

「今日はやきとり缶はないのか?」

 思いがけず軽口が出たのは、無意識に気まずさをごまかそうとしてだったのか。それとも、計画が成功したことで我知らずハイテンションになっているせいか。ちゃぶ台の脚元には、一千万円が入ったスポーツバッグがある。

「ごめん、今日はないんだ」

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