第12話

「え?」

 本心からの声が出た。どういうことだ。ユウヒからそんな話は聞いていない。

 当の由孝が説明を引き継ぐ。

「理由はわからない。犯人は何も言わなかったんだ。ただ僕ではだめだと。他の、予定と違う行動をとっても怪しまれない人物を選べと言われて、僕の頭に浮かんだのが君だった。君なら信頼できる。申し訳ないけど、身代金の運搬役を引き受けてくれないか」

 頼む、と修が頭を下げた。こんなふうに切羽つまった声を聞くのは初めてだ。秘書がそれにならい、さらに頭を低くした塔子がすがるように訴える。

「お願いします、小塚さん。由孝がこれほど信頼しているあなたになら、私たちも安心して任せられます。ご迷惑でしょうが、どうか娘を、松葉を助けてください」

 さまざまな考えが脳裏を駆けめぐった。ユウヒはなんだってそんな指示を。急に運搬役を変更しなければならない事情が生じたのか。それはどんな事情だ。それとも犯人から指示があったというのは噓で、やはり松葉側がアサヒの関与に感づいてわなにはめようとしている? 黄信号だ。運搬役は拒否して、計画を中止すべきか。いや、引き受けてからでも中止はできる。ユウヒと連絡を取ってから判断すればいい。

「……わかりました」

 黄色は進めだ。

 松葉家の三人が口々に礼を言い、秘書が深く頭を下げた。再び修が口を開く。

「横浜駅午前十時十分発のしようなんしん宿じゆくラインの上りに乗れ、というのが犯人からの最初の指示だ。次の指示は私の直通電話に届けられ、それを私が君に伝える。だから携帯には常に注意を払い、いついかなるときでも応答するようにしてくれ」

 運搬役をあちこち移動させるのは誘拐のセオリーだ。警察の追跡がないとしても、松葉側は独自に尾行や監視をつけるに違いなく、それをまく必要がある。尾行について修がアサヒに知らせないのは、アサヒの態度で犯人にばれるのを警戒してのことだろう。いちいち修から指示を受けるのはまどろっこしいが、それは彼が変心して警察に訴えたりしないようけんせいするためだ。修を交渉のテーブルに縛りつけておく。かんぺきなやり方とは言えなくとも、ある程度の効果はあるはずだ。

「犯人は複数人のグループで、事務所も運搬役も監視していると言っている。こうしてこの部屋の窓を開け放っているのも、犯人からの指示だ。おかしなそぶりが少しでも見られれば、娘の命はないと。くれぐれも行動には気をつけてくれ。それから、言うまでもないと思うが、この件は他言無用だ」

 すべてにはいと答えたあとで、アサヒはいったんトイレに行き、ユウヒにメールを送った。返信はすぐだった。

『たしかに俺が出した指示だよ。兄ちゃんが選ばれるとは思わなかったけど、考えようによっちゃラッキーだよな。きついけどよろしく』

 ラッキー。そうとも言える。運搬役がアサヒなら、途中で犯人の指示に背く心配はない。しかし運搬役を変更した理由は記されておらず、それを尋ねるメールをもう一度送ったが、返信はなかった。くそっ。心のなかで毒づいて、乱暴に携帯電話を閉じる。電話をしたいところだが、さすがに危険だろう。

 このまま続行すべきか迷う。ユウヒは何かたくらんでいて、それはアサヒにとって不利益になることなのかもしれない。ありうることだと思う。ふたりの間には十年という年月が横たわっている。ユウヒにはユウヒの歴史があり、人間関係がある。狂言誘拐に必要な道具はたいていユウヒが調達してきたが、その出どころについてしばしば言葉を濁すことから、ろくでもない知り合いが少なからずいるらしいと察せられた。美織との関係だって不透明だ。兄ちゃんにしか頼めないなんて言葉を真に受けてはいない。どうする。引き返すなら今だ。これが最後のチャンスかもしれない。

 だが結局のところ、アサヒに選択肢はないのだった。ときどき忘れそうになるが、アサヒはユウヒに従うしかない立場で、それがわかっているからユウヒは一方的に「よろしく」と告げた。

 アサヒは何秒か目を閉じていらだちを抑え、身代金が待つ部屋へ戻った。リュックを受け取って背負う。重くはないが、背中が緊張する。

「よろしく頼む」

 三対の目に見送られて部屋を出た。由孝は一階の出入り口までついてきて、「美織はかわいそうな子なんだ」とつぶやくように言った。松葉家が体面を重んじるのは事実で、美織は一家の厄介者なのだとしても、やはり心配なのだ。

「金はちゃんと届けます」

 目を逸らして告げ、事務所を離れた。姿は見えないが、近くにユウヒがいるはずだ。ひそかに運搬役についていき、必要な場面で必要なことをする。アサヒは事務所に残って修たちの監視を担当する計画だったが、事務所のほうはこの際、放っておくしかない。この計画の狂いが悪い結果を招かなければいいが。


 休日の上り電車は、遊びに出かけるらしい乗客で混雑していた。この日時を指定したことを少し後悔しながら、リュックを体の前に抱え、中ほどのつりかわを確保する。もう片方の手には携帯電話。次の指示をアサヒはもちろん知っているが、いつ電話が鳴るかわからないというていでいなければならない。

 雑誌の中吊り広告には、原発や仮設住宅という言葉が並んでいる。それを見上げるふりで、さりげなく周囲をうかがう。はやりのサルエルパンツをはいた青年。ニンテンドー3DSに夢中の子ども。ビンラディン殺害は陰謀だとかなんとか、妻らしき女に向かって熱弁をふるう老人。そんななかに、やはりいた。今デッキの近くで顔を背けたマスクの男は、松葉側がつけた尾行だ。新聞を読んでいるふりをしているが、ひとみがまったく動いていない。男と面識はないものの、顔だけは事務所で見かけた覚えがある。

 ──人の顔をよく観察するんだ。そいつがおまえを怪しんでるのか、殴ろうとしてるのか、だまそうとしてるのか、あるいはただの間抜けか。それを見極められれば、ピンチは半分になってチャンスは倍になる。

 お父さんの教えだった。それが染みついていたから、アサヒは今でも人の顔をよく覚える。

 アサヒはそしらぬ顔で車窓の風景に目をやった。この湘南新宿ラインは、二〇〇一年の十二月に運行を開始した。三人の生活が終わりを告げた二〇〇一年の十二月。当時、ラジオでよくその話題が出ていたのを覚えている。別の車両に乗っているはずのユウヒは、覚えているだろうか。

 三十分ほど電車に揺られたところで、携帯電話が震えた。「松葉直通」の表示を確認して耳に当てると、次の新宿で降りろという犯人からの指示が伝えられた。さすがと言うべきか、修の口調は冷静だ。口元を手で覆って、はいと答える。

 大勢の乗客とともに新宿駅のホームに吐き出されて二十秒もしないうちに、再び修から連絡が来た。次の指示は、山手やまのて線の外回りに乗れ。

 アサヒはリュックを背中に戻し、階段を下りて山手線のホームへ向かった。ユウヒの姿は見当たらないが、マスクの男はついてきている。お父さんの言葉を借りれば、あいつは「ただの間抜け」で決まりだ。アサヒは歩きながら携帯電話を持った手をジャケットのポケットに突っ込み、手探りでユウヒにメールを打った。「ますくのおとこ」と。「ますけ」とか「あとこ」になっているかもしれないが、いちおう知らせておく。

 山手線も混雑していたが、新宿で乗客がごっそり入れ替わったため席が空いた。しかしアサヒはドア近くに立っていることを選んだ。

 ──いつも逃げることを意識しとけ。そしたら予想外のやばいことが起きてもパニックにならずにすむ。予想外のやばいことってのが人生にはつきものだからな。

 それもお父さんの教えだった。アサヒは今まさに誘拐という予想外のやばいことに巻き込まれている最中であり、しかも共犯者は信用しきれない。

 山手線がこまごめ駅に着いたとき、携帯電話が震えて修の声が飛んできた。

「そこで降りろ!」

 すぐさまホームに飛び出す。

「向かいの電車に乗れ!」

 そこには山手線内回りの電車が停まっていて、すでに発車メロディが鳴っている。ドアが閉まる寸前になんとか滑り込んだ。あらかじめ知っていたとはいえ、ひやひやするタイミングだった。ドア近くの乗客が顔をしかめたが、外回りの電車に取り残されたマスクの男はもっとひどい顔をしているに違いない。それともあつにとられているか。選挙事務所では修も歯がみしたかもしれない。

 これで少なくともひとり、尾行をまいた。松葉側は事件に関わる人間をなるべく少なくとどめたいと考えているため、尾行に充てる人数は多くないはずだ。修は次の行き先を知ることができるが、犯人からの指示がこんなふうにぎりぎりで出されるのでは、手の者を配置しようにも間に合わないだろう。

 再び新宿駅を通過し、たん駅でまた同じことをやった。今度は内回りから外回りへ。電車から飛び出してホームを横切ろうとしたところ、女子高生の集団に進路をふさがれた。背中に学校名が入ったそろいのジャージに身を包み、大きなスポーツバッグを肩にかけ、おしゃべりに夢中になっている。もう発車メロディが終わる。アサヒは彼女らを押しのけて進み、閉まりかけたドアに指をかけた。無理なご乗車はおやめください。アナウンスを無視してドアの隙間に体をねじ込む。事故などで電車が遅れた場合に備えて別プランも用意してあるので、どうしても乗る必要はなかったのだが、自分の役どころを考えればこうすべきだ。

 鼓動の速さに反して、心は自分でも意外なほど落ち着いていた。なぜかしきりにお父さんのことを思い出す。呼吸をするように盗みを働いていたあのころのことを。

 そのまま山手線を一周し、また内回りに乗り換え、まもなく東京駅というところで、修から電話があった。東京駅で降りて構内に入れとの指示に従い、人の列に交じって階段へ向かう。

「小塚?」

 ふいに呼びかけられ、ぎくりとした。階段の下り口で横に並んだ茶髪の男は、一年生のときに語学の授業で一緒だったやつだ。顔は覚えているのに名前が出てこない。

「久しぶりじゃん。何してんの」

「……バイトの帰り」

 適当に噓を返しながら、手のなかの携帯電話を意識する。親しくもなかったのに、なぜよりによってこんなタイミングで声をかけてくるのか。

「今って暇?」

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