第11話

 松葉修は誘拐犯の要求に応じる。現段階で警察を介入させてはいないし、これからもさせる気はない。松葉一家と秘書の動きや由孝の言葉から、そう判断を下したのはアサヒだった。

「まだ第一段階だ」

「でも、ここをクリアできなきゃ先はなかった」

 プシュッと小気味よい音が無人の公園に響いた。アサヒもならって缶を開ける。

「ウカノミタマノカミのお導きかもな」

 缶の縁を軽くぶつけ、ユウヒはいたずらっぽい目つきで言った。アサヒはぽかんとしたが、ややあって赤い前掛けをした狐の像が脳裏に浮かんできた。あれはどこの神社だったか。車上生活をしていたころ、さいせん目当てに訪れた寺社の仏や祭神の名前を片っ端から覚えては、退屈な車内で交互に言い合って詰まったほうが負けというゲームをしていた。

「オモダルノカミ」

 言って、アサヒはぐびりと飲む。案外、覚えているものだ。

「アマノオシホミミノミコト」

「オオヤマクイノカミ」

 ユウヒは続いてやきとりの缶詰を開けた。

「兄ちゃん、ゼラチンのとこ好きだったよな。ホムダワケノミコト」

「……好きだったな」

 忘れていた。当時、お父さんが酒のつまみにやきとりの缶詰を買うと、肉をくれるというのにゼラチン部分をねだっていた。もしも母がそれを──息子がやきとりの缶詰の、しかもゼラチンなんかをうれしそうに食べているところを見たら、悲鳴をあげたかもしれない。引き取られて間もないときに当然のようにヨーグルトのふためて、ひどく叱られた。いやしいという言葉が、それからずっと耳の奥に残っている気がする。

 ふいに、こうしてユウヒとなごやかに話していることの奇妙さに気がついた。脅されて犯罪の片棒を担がされているというのに、何がオオヤマクイノカミだ。だが、何度も会ってともに計画を練り、計画とは関係のない話──アサヒが将棋部でユウヒがサッカー部だったことや、アサヒは泳げるようになったがユウヒは今も泳げないことなど──も少しずつするうちに、昔の感覚が呼び覚まされつつあるのは否定できない。あのころは盗みも遊びも何でも一緒にやっていた。

「美織はどうしてる」

「さっきメールしたら、もう寝るって」

「携帯は使わないほうがいいって言ったろ」

「基本的にはずっと電源切ってるはずだよ。警察が介入しないなら大丈夫だとは思うけど」

「確実じゃないのを忘れるなよ。危なそうならすぐに中止だ」

「わかってるって。兄ちゃん、ほんとに分け前はいらない? 昔から欲がないよな。ひとつしかないものは必ず俺に譲ってくれた。兄と弟ったって一歳しか違わないのに。ハレの子どもらと接するようになって、兄ちゃんってできた兄貴だったんだなってつくづく思うよ」

 アサヒは顔をよそへ向けて発泡酒をあおった。公園にはブランコが並んでふたつ。鉄棒も並んでふたつ。

 あのころは、ユウヒをうらやましいなんて思ったことはなかった。何もかも同じだったから。お父さんは常に兄弟に分け隔てなく接した。兄と弟という意味でも、自分の子と他人の子という意味でも、いっさい差をつけなかった。

「初めておまえのアパートに行ったとき、神倉ってこんなに近かったのかって驚いたんだ」

 何の話かというようにユウヒが小首を傾げる。自分でも、なぜいきなりそんな話を始めたのかと思う。

 駅前の雑踏を通り抜けながら、もしも今までに来ていればユウヒとすれ違っていたかもしれないと思った。東京で会ってひと目でそうとわかったように、気がついていたかもしれない。そのときなら、ふたりの間に脅迫だの犯罪だのが割り込んでくることはなく、ただ再会を喜べたのだろうか。それとも、互いの環境の違いから、よそよそしく別れておしまいだっただろうか。

 神倉の児童相談所に保護されたユウヒが神倉の児童養護施設に引き取られることは、当然に予想できたはずだ。なのに、十年も知らずにいた。知ろうとしなかった。過去の自分から遠ざかろうと必死だったのだ。普通の子になるために。ユウヒからお父さんを奪った罪悪感から目をらすために。

「こんなに近くにいたのにな」

「俺も兄ちゃんが東京にいるって知ったときはびっくりしたよ。もっと早く捜せばよかったって思った」

 ユウヒがそうしなかったのは、必要がなかったからだろう。新たな人生になじんで、幸せだったからだ。アサヒの場合とは違う。

「ところで、兄ちゃんの負けでいい?」

「なんだ、続いてたのか。じゃあ、コノハナサクヤ……」

「残念、時間切れ。勝った俺は肉で、兄ちゃんはゼラチンな」

 ほい、と差し出された箸を受け取り、やきとりの周りの茶色いゼラチンを口に入れる。思わず苦笑がこぼれた。

「いま食べると、そんなにうまいもんじゃないな」

 でもやっぱり嫌いじゃない。嫌いにはなれなかったのだと気づいてしまった。泳げるようになってもやはり水は怖いように、歯並びを矯正しても、ヨーグルトの蓋を舐めなくなっても、結局、自分はあのころのままだ。

 どこからか踏み切りの音が聞こえてきた。

 アサヒは残った発泡酒をひと息に飲み干した。


 12


 十一月二十三日。勤労感謝の日。

 午前八時前にアサヒは選挙事務所に到着した。八時を待ちかねたように選挙カーが出動していったが、その中に松葉修本人の姿はない。

 八時十五分ごろ、二階にいた由孝が下りてきて、アサヒに一緒に来るよう告げた。アサヒは内心、ろうばいした。なぜ自分が、なぜこのタイミングで呼ばれるのか。まさか、ばれたのか。

「……どうしてですか」

「来てくれたらわかるよ」

 疲れの見える由孝の顔には、困惑の表情が浮かんでいる。

 案内された部屋では、松葉夫妻と秘書が着席して待っていた。ドアと向かい合う形に置かれた奥の大きな机に修。その前の応接セットに塔子と秘書。ドアが開いた瞬間、三つの顔がいっせいにこちらを向いた。息苦しいほどに空気が張りつめ、皆、深刻な顔をしている。由孝がソファに腰かけ、アサヒにもそうするよう勧めた。つばを飲み、とりあえず従う。ソファの沈む音がやけに大きく聞こえる。

「小塚旭くんだな。いつもよくやってくれてありがとう」

 言葉とは裏腹に、修の声音はいつになく硬い。やはりばれたのだろうか。美織に会ったのがまずかったのか。それとも由孝に近づきすぎたか。だとしたら、修はどうするつもりなのだろう。俺はどうすればいい。

「時間がないので、さっそく本題に入らせてもらう」

 目で合図を受けた秘書が、テーブルに置いてあった一枚の紙をアサヒのほうへ押してよこした。彼らの意図がわからないまま、印字された文章に目を落とす。

『松葉美織を誘拐した。二十三日の朝までに一千万円を用意しろ。警察には知らせるな』

「おととい、二十一日の午前中に事務所に届いたものだ。宛名は私で、差出人の名はなかった。美織というのは私の娘だ。その脅迫状とともに、美織の名前入りのIC定期が同封されていた」

 アサヒは顔を上げたが、用心深く口を閉ざしていた。冷や汗が背中を流れ落ちる。

「だがその時点では半信半疑だった。選挙にいたずらはつきものだ。これがそうだとしたらかなり悪質だがね」

 修はまず自宅に電話をかけ、美織が前日は帰っていないことを塔子から聞いた。しかし美織は日ごろから素行が悪く、帰らなかったのも初めてではない。次に美織の携帯電話にかけたが出なかった。それは美織のほうからもユウヒが聞いている。学校に出欠の確認はしなかった。無断欠席はよくあることだし、不用意に騒ぎ立てるのは望ましくないと考えたからだ。

「しかし午後になって、私の直通電話に誘拐犯を名乗る人物から連絡があった。機械で変えたような声で、性別も年齢もわからなかったが」

 修は机の端に置いた固定電話に手を載せた。

「この番号を知っている者は限られ、美織はそのなかに含まれている。犯人は美織を電話口に出し、私に声を聞かせた。それで誘拐は事実なのだと認めざるを得なくなった」

 塔子がハンカチを鼻に押し当てた。しとやかな印象が強いが根は気丈なのだろう、こんなときでも取り乱した様子を見せない。この三日、上品なスーツの着こなしにもヘアスタイルにも隙はなかった。

「警察には?」

 腹をくくってアサヒは尋ねた。

「悩んだが、知らせるなと犯人がわざわざ書いている以上、娘の無事を第一に考えることにした。それに今は大事なときだ、我々としてもこの件はおもてにせず秘密裏に処理したい。つまり犯人の要求に全面的に応じると決め、身代金を用意した」

 テーブルの上に置いてあるリュックの中身がそうなのだろう。リュックに入れろというのもこちらの指示だ。

「犯人は身代金の運搬役に由孝を指名した。あとの指示は当日、すなわち今日出すから、朝八時から美織が解放されるまでは事務所から離れず、常に直通電話に出られる状態にしておけとのことだった。そしてさっき、八時ちょうどに犯人から電話があったんだが、やつは運搬役を誰か別の人間に替えろと言ってきた」

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