彼女は百合の花が嫌い

五月庵

彼女は百合の花が嫌い



「アルバイトくん。私はね、百合の花が嫌いなの」


 


 大学から二駅離れた古書店で働き始めて三日目。


 天気が悪いこともあって客足がぱったり途絶えてしまった店の奥、することもなく暇を持て余していると、先輩店員が突然そんなことを言ってきた。


 透き通るように真っ白な肌に、腰まで伸びた、まっすぐで艶やかな黒髪。身長170センチの僕よりも少し背が高く、脚はすらっと長い、少し怖くなるほど綺麗な女の人だ。だから、そんな美人に突然話しかけられ、僕は内心ドキドキしながら「はあ」と気の抜けた返事を返したのだった。


「君、百合の花は見たことあるわよね? それから、世間一般的には、真っ白い百合の花には清純なイメージがあるってことも。花言葉も純粋や無垢とかそんな言葉を付けられているらしいわ。まったくふざけるのも大概にしてほしい」


 そう言って、彼女は苛立ちを隠そうともせず、コツコツと指先でハードカバーの本の表紙を叩く。店の商品を粗雑に扱っていることにハラハラしながら、僕は疑問を口にする。


「すみません、何をそんなに憤ってらっしゃるのかよくわからないのですが……」


「あ、そういえばアルバイトくんとこうして話すのは初めてだっけ。私の名前、知ってる?」


「えっと、たで、しまさん……でしたよね」


 確か店長が自分の姪なのだと言っていたような、と記憶を辿りながら答えると、彼女は深く頷いた。


「そうよ。蓼食う虫も好き好きの蓼に、島国の島で蓼島。でもそれは苗字でしょう。下の名前は小百合。小さい百合と書いて、さゆり。覚えた?」


「あ、はい」


「そう。別に覚えなくてもいいんだけど。私はアルバイトくんの名前を覚える気全然ないし」


「えぇ……」


「ま、とにかくこれでわかったでしょ。私が百合の花を嫌っている理由」


「それは……」


 蓼島さんが百合の花を嫌う理由。それは、おそらく周囲の抱くイメージだ。小百合という名前に籠められたであろう祈りが、今は彼女自身を縛る呪いとなっている。百合の花のように清純であれ、純粋であれ、穢れを知らぬ存在であれ。なまじ彼女が百合の文字を冠するにふさわしい、そう思えるくらい整った容貌だったために、そのような振る舞いを求められることが多かったのではないか。そのために百合の花を嫌うようになった。そういうことなのかもしれない。これは、僕の想像にすぎないけれど。


「今、アルバイトくんが想像してるようなことで大体あってる。私、今年で二十七歳よ? それだけ生きてりゃ純真無垢でなんかいられないわよ」


「はぁ。そうですか」


「興味なさそうな態度をそこまで露骨にされると逆に好感が持てるわね。気に入った」


 にぃっと笑いかけられて、つい見惚れてしまった。


 本当に綺麗な人だ。


 変わった人でもあるけれど。


 


 それから半年。僕たちはあの日よりもそこそこ仲良くなって、僕は蓼島さんを小百合さんと呼ぶようになった。小百合さんは相も変わらず僕のことをアルバイトくんと呼んでいる。本当に僕の名前を覚える気がないようだ。


 ある日のことだった。


「アルバイトくん。明日私の家においで」


「へっ?」


 耳元で突然そう囁かれて、抱えた本を危うく落としそうになるのを寸でのところで堪える。


「な、なんですか、急に耳元で話さないでくださいよ!」


「明日の午前十時、ここの最寄りの駅前で待ち合わせね。じゃ、私は上がるから。お先に失礼します」


「お疲れ様でした、っていやちょっと待っ! えぇ……」


 小百合さんは僕が呼び止めるのも無視して、スタスタと帰ってしまった。


「家って……まさかな……」


 思考が良くない方向にいこうとするが、あの小百合さんがそういう意図を持って僕を自宅に招くわけがないと首を振る。


 ……とにかく、行くしかないか。


 明日は講義もバイトもない完全な休日。行かない理由はなかった。それに、この半年の間で、僕は小百合さんの誘いおよび命令を聞かなければ、余計面倒なことになるということを身に染みて理解していた。だから、僕は小百合さんの家に行くことにしたのだった。


 


 午前十時、駅前。


小百合さんは時間ピッタリにやって来た。


「おはよう。じゃあ、行きましょうか」


「は、はい」


 会うやいなや自宅に向かって歩き出した小百合さんに、必死で着いて行く。早歩きな上に足が長いので、小走りにならなければならなかった。だから、小百合さんが住んでいるマンションに到着したとき、僕はもう息も絶え絶えで死にそうになっていた。


「あら、どうしてそんなに疲れてるの。途中で野犬にでも襲われた?」


「ち、ちが……っ……歩くの、早いから……」


「私としてはゆっくり歩いていたつもりだったんだけど、ちょっと悪いことをしたわね。反省するわ」


「はあ、もう大丈夫です。立派なマンションですね」


「セキュリティを考えると自然とこういう物件に行きつくのよ。さぁ、あともう一息。来なさい」


 小百合さんの後を追ってエスカレーターに乗り、そこから右手にまっすぐ行った角部屋が、小百合さんの家だった。


「ろくなもてなしも出来ないしするつもりもないけれど、まあゆっくりしていくといいわ」


 そんなことを言いながら、小百合さんはドアを開けた。その途端ふわりと漂ってくる、甘い匂い。思わずたじろぐ僕を見て、小百合さんは怪訝そうな顔をする。


「どうしたの。早く入りなよ」


「いや……そういえば一人暮らししてる女性の家に上がるの、初めてだなと思いまして」


 人の家の匂いに言及するのはあまりよろしくないだろうと思い、動揺した理由をそう説明すれば、小百合さんはつまらなそうな顔をした。


「緊張してるの? 安心しなさい、とって食いやしないから」


「はぁ。お邪魔します……」


 靴を脱ぎ、小百合さんの後を追って短い廊下を進む。突き当りのドアを開くと、そこは異世界だった。


「……なんだこれ」


「見てわからないの。どこからどう見たって百合の花じゃない」


 そう、その部屋の中は、真っ白な百合の花で満たされていたのだった。床全体を覆うブルーシートの上に、何百本もの百合の切り花が敷き詰められている。さっきから漂っていた甘い匂いの正体はこれだったのか。噎せかえるほど濃密な香りに、くらくらと眩暈がする。


「これが百合だってのはわかりますけど、何だってこんなに沢山……」


「密閉した部屋に百合の花を敷き詰めると自殺出来るって、聞いたことない?」


「ああ、前にネットでそんな話題を見かけたような……。小百合さん、自殺するつもりなんですか? 無理心中はごめんですよ」


「物騒なことを言うわね。私はまだ死ぬ気ないわよ。第一、こんなやり方じゃ死ねないらしいしね。人間と同じように、植物も酸素を吸って二酸化炭素を吐いて……って、呼吸するでしょう。だから暗くて密閉した部屋に植物を沢山置けば、酸欠でクラクラッとあの世に行ける、そんなのが事の真相らしいわ。百合ごときに人間が死んでたまるものですか。全く馬鹿馬鹿しいわ」


 忌々しそうに吐き捨てて、小百合さんは足元に転がる一輪の百合の花を蹴飛ばした。


「へぇ……。でもそれなら、どうしてこんなことを? 百合の花、お嫌いなんじゃありませんでしたか」


「そうよ。百合の花なんか大っ嫌い。だから、こんな花なんかぐしゃぐしゃにしてやろうと思ったの」


 小百合さんはフン、と口をひん曲げて、真っ白な花の上にダイブした。それからゴロゴロと転がり始める。美しい白百合は、小百合さんの攻撃に成すすべなく押し潰されて、哀れな姿になっていく。


「ぼーっと突っ立てないで、アルバイトくんもこっちに来なさいよ。汁が服に染み込んできてすっごく不愉快な気持ちになれるから」


「そんなこと言われたら行きたくなくなるんですけど」


「全部潰し終わったら家のシャワーを浴びてもいいし、着替えも貸してあげる。ほら、早く手伝う」


「わかりましたよ……」


 小百合さんの命令には断れない。まぁ、こんなに沢山の花の上に寝転がれる機会なんてそう滅多にはないかもしれない。こうなったらポジティブに考えていこう。


「えいっ。うわ、思ったよりも寝心地が悪い……」


 思い切って百合の中に飛び込むと、花に繋がる茎が凸凹として、痛くはないのだが何とも体の据わりが悪い。


「でしょう。匂いがキツイ上に寝心地が悪いなんて、寝具になれもしない最低な花だわ」


「大抵の花は寝具に適さないと思うのですが……」


 小百合さんは僕の突っ込みを無視し、手近にあった百合の花をぐしゃりと噛み千切った。それからしゃぐしゃぐと噛み締めて、ペッと吐き出す。


「……不味いとも言い切れないのが腹立たしいわね。上手く料理したら食べられなくもなさそうだわ」


「毒とか大丈夫なんですか、それ」


「根っこがユリ根として食材になってるんだから平気よ。犬や猫にあげたら駄目だけどね」


「あ、そういえば中国じゃ百合の蕾を食べるらしいですね。なんだったかな、キンなんとかっていう……」


「金針菜のことね。ユリ科の植物の蕾らしいから、ここにある花の蕾とは少し違うんじゃない? そんなこと知ったこっちゃないけど」


 小百合さんは投げやりにそう言うと、寝転がったまま百合の花を指先でバラバラに千切っていく。僕も真似をして花を傷めつけることにした。


 可哀想に、本当なら綺麗に飾られるはずだったのに。


 でも肉厚な百合の花弁を千切るのは中々楽しかった。表面は絹のようにさらりとしていて、しっとりと指に吸い付くようだ。それを繊維に沿って裂いていく。こうすると何だか裂いて食べるタイプのチーズみたいに見えるな。


「アルバイトくんも食べてみる?」


「食べません。そういえば、小百合さんって百合の花が嫌いな割りには百合に詳しいですよね」


「嫌いだからこそ知ろうと思うのよ。アンチの方が中途半端なファンより詳しいってのはどこでも一緒よ」


「そういうものですか」


「そういうもんよ」


 長い黒髪が汚れるのも構わずに、ごろごろごろごろ花の上を転がって、小百合さんはつまらなそうにそう言った。


 小百合さんは百合の花がよく似合う。そんなことを言えば、酷い目に遭わされそうなので絶対に言えないけれど。


 


 百合の花から染み出た汁で全身べたべたになった頃、むくりと体を起こし「飽きた」と一言呟いて、小百合さんは部屋を片づけ始めた。僕も手伝って、ごみ袋に潰れた花を入れていく。最初は綺麗だった純白の白百合が、今では汚らしい薄茶色の生ごみに変わり果ててしまった。哀れなり。


「重たい。これを明日の朝ゴミ捨て場まで持っていかないと思うと気が滅入るわね。アルバイトくん、明日も来てくれない?」


「すみません、明日は一限があるので」


「そんなのサボっちゃえばいいじゃない。人生には勉強よりも大事なことが沢山あるのよ」


「僕にとってはゴミ捨てよりも講義の方が大事なので……」


「そう。ま、いいわ。いざとなったら家ごと燃やすという手もあるしね」


「面倒臭さで全てを終わらせようとしないでくださいよ」


「冗談よ」


「知ってます」


 そのあと僕はシャワーを浴びて、カニとエビが闘っているよくわからない柄のTシャツを借りて帰った。


 


 それから程なくして、小百合さんは仕事をクビになった。レジから金をちょろまかしていたことが店長にバレたからだ。ちょろまかしたお金は全て、百合の購入資金にあてたのだという。その額なんと百二十万円。ちょろまかしたどころの話ではない。


 小百合さんが店長の身内ということもあり、小百合さんの父親(つまりは店長の義兄)が盗んだ金額分支払うことで警察沙汰は免れたらしい。これは勝手な想像だけれども、店長は小百合さんの美貌で儲かっていた部分もあったから、そう強くは出られなかったのではないだろうか。


 小百合さんはあのマンションから退去して、父親に肩代わりしてもらったお金を返すまでは、実家で暮らすことになったという。その間、実家の花屋を手伝うことになったのだとか。花屋なら当然百合の花も取り扱うだろうから、百合を嫌う小百合さんにとっては何よりキツイ罰になりそうだ。これは、僕の勝手な想像に過ぎないけれど。


 


 小百合さんがいなくなってから二か月後。大学から帰る途中、僕は小百合さんと再会した。


「あ、アルバイトくんだ。久し振り。あれからどう? 元気してる?」


「お久し振りです。まぁぼちぼちってところですかね。最近古本の値付けを任されるようになりました」


「へぇ、あの店まだ潰れてないんだ。私がいるから何とかやっていけてるのかと思ってた」


「酷い言い草ですね……。確かにお客さんは減りましたけど」


「悪かったとは思ってる。本当よ。叔父さんの店、居心地がよくて結構好きだったしね」


 ごめんね、と小さく呟かれて、戸惑ってしまう。


「僕に謝ることは何もないでしょう」


「ううん、だって、アルバイトくんもあのお店気に入ってるじゃない。だから、迷惑かけちゃったなって」


「そう、ですか」


「うん……」


「…………」


 何だか気まずい沈黙が流れる。


「……そろそろ行かなきゃ。じゃ、元気でね、アルバイトくん」


「あ、はい。それじゃ。…………あの!」


 背を向きかけていた小百合さんは、僕の声に振り返って驚いたような顔をする。小百合さんを呼び止めてしまったことに、自分でも戸惑う。だけど、今彼女に言わなければならないことはすぐに頭に浮かんだ。


「小百合さん。百合の花は、今でも嫌いですか?」


「うん! 大っ嫌い!」


 青天の下、華やかに咲いた大輪の百合の花。


いいや、それよりももっと綺麗なとびきりの笑顔で彼女は笑ったのだった。


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