社畜・オブ・ザ・デッド

五月庵

社畜・オブ・ザ・デッド

「え?! そんなに働いててなんで死んでないの?!」


 


 突如響き渡った大声に、居酒屋中の視線が一斉にこちらを向く。それを受け、思わずひゃっと肩をすくめる。反対に、大声を出した張本人である目の前の男、佐々木はそれらの視線を一切気にしていないようだった。そうだ、学生時代からこいつはこういう奴だったなと、今となっては遠いあの頃のことを思い出す。その夜は、就職して以来交流の途絶えていた友人と帰宅途中に偶然再会して、折角だからと誘われるまま飲みに来ていたのだった。


「声がでかいって。そんなに騒ぐようなことでもないだろ」


「いやいやいや、そりゃ騒ぎもするでしょ、あの大企業がそんなにブラックだと知れば誰でも! お前があそこに採用されたって聞いた時、将来安泰で羨ましいって思ってたのにさ、残業時間がおれんとこと一桁違うってまじかよ……。はぁ~夢も希望もあったもんじゃないな~……」


 ただ聞かれた通り現在の仕事について答えただけなのだから俺は何も悪くない、そのはずなのに、その落ち込みようになんだか申し訳ないような気持ちになる。


どうか強く生きてほしい。


「んじゃあさ、休みの日はなにしてるんだ。ちゃんと羽伸ばせてるのか?」


「休日は大体寝てる。あとはメールを確認したり持ち帰った仕事を片付けたりするくらいかな」


「うわー、仕事人間通り越して社畜ってやつじゃん、それ。おれには絶対無理だわその生活」


「社畜? なんだそれ」


 耳慣れない単語に疑問を抱いて尋ねると、こんなの常識だぞ、と何故か得意げに説明してくれた。それによると、会社に不当な条件下でこき使われながらも文句を言わず、さながら家畜のように唯々諾々として命令に従う社員のことを、社畜、と呼ぶとのことだった。自分の生活のために働いているだけであって会社のために尽くしているつもりは少しもなかったから、そう言われて意外に思ったことを今でもよく覚えている。


「世の中にはそんな言葉もあるんだな。初めて知った」


「……あのさ、久しぶりにあったばっかでこんなこと言うのもおかしいかもしれないけど、仕事、辞めたほうがいいんじゃないか? いつか本当に死んじまうぞ」


 そういう佐々木の口調は軽いままだったが、その表情からは真剣に心配している様子が見てとれた。それに対して、曖昧に頷く。


「死にそうになったら辞めるから、大丈夫だ」


「死にそうになってからじゃ遅いっての」


 それもそうだ、と返した俺に佐々木は、呆れた、という顔をしてつまみを口に運んだ。


「また忙しくない時にでも飲みに行こうぜ」


 別れ際、互いの連絡先を交換して、佐々木は夜の町に消えて行った。だがその後、佐々木に会うことは二度となかった。


 


 佐々木が言っていたように、取り繕いようのないほどブラックな会社であっても、当時仕事を辞めようと思うことがなかったのは、ただ単に俺が臆病だったからという、それだけのことだった。


 このくらい普通だ。これできついと感じるようでは駄目だ。ここを辞めたとして、採用してくれる会社があるのか。


 誰に言われたのでもない、自分自身の言葉によって、俺は身動きがとれなくなっていた。ただ、そのことに気が付いたのはそれからずっと後のことだった。


 


 まだ自分は大丈夫だ、これからも働いていける。


 ろくに眠れぬ毎日が続く中、半ば自分に言い聞かせるようにしてそう思っていたが、心と体はとっくの昔に限界を迎えていたらしい。


 友人との再会から半年後のある朝。目覚めると、全身がまるで石でも詰め込まれたかのように異常に重たく、起き上がるのも一苦労という状態になっていた。それでも頭の中に会社を休むという選択肢はなかったため、普段通りに身支度をして、家を出た。会社に着き、自分の席に座って山と積まれた書類に手をつける。体調の悪さは一度働き始めてしまえば忙しさが勝って気にかからなくなっていたから、たいしたことではないのだろうと気にしていなかった。だが、トイレに行こうと立ち上がったときのことだ。一歩足を前に出した瞬間、ぐわんと大きく視界が揺れた。えっ、と驚く間もなく目の前が真っ暗になって、気が付いたら病院のベッドの上だった。自分が置かれた状況が理解できず混乱しながら、起きてすぐ目にしたものが見知らぬ天井だとこういう気分になるのかと、そんなことを考えた。


 


 目覚めてからしばらくして病室にやってきた医師の説明によると、睡眠不足や疲労、ストレスその他諸々によって、俺の身体はぼろぼろになっているらしい。一週間ほどで退院は出来るが、これまでと同じ生活を送ればまた病院のベッドに逆戻りしかねないと医師から穏やかな口調で告げられる。つまりは、自分の体が大事なら今の会社を辞めた方がいいと暗に言っているのだった。


 


 入院してから二日目、ベッドの上で物思いに沈んでいると外から控えめなノックの音が聞こえてきて、頭を上げる。「どうぞ」と外の人物に向かって声をかけると、静かにドアが開けられ、くたびれたスーツを着て眼鏡をかけた中年男性が部屋に入る。


「失礼します」


「川辺さん……」


 上司の川辺さんだった。


「悪い、連絡もなしに突然押しかけて。これ、よかったら食べてよ」


 そう言って渡されたのは、高級そうな見た目の箱に入れられたプリンだった。


「あ、ありがとうございます」


「今、体調はどう?」


「少し体がだるいぐらいで、その他はほとんどいつもと変わりません。入院が大袈裟じゃないかと思えるくらいです」


「そっか、それならよかった。……いや、よかったって言うのもおかしいか。君のいつも通りが健康な状態を指すとは限らないからな。でも、命には別状がないようで安心したよ」


「先日は色々お騒がせしてすみませんでした。この忙しい時期に仕事も出来なくなってしまって、本当に申し訳ないです」


「いいや、田中君が謝ることは一切ないよ。謝りたいのは僕の方だ。君みたいな若い子が擦り減っていくのを、今まで何回も見てきた。それなのに、上司として何とかすべきなのに、何もすることが出来なかった。すまない。……って、こんなこと言われても今更なんだって感じだよな」


「……川辺さんには、十分すぎるくらいお世話になっていますよ。今日来てくださっただけでも、本当に嬉しいしありがたいと思っています。だから、そんなに自分を責めないでください」


 うなだれる川辺さんに、心から思ってそう言った。しかし川辺さんは、こんな時に気を使わせてごめん、と力なく笑う。それがなんだか酷くもどかしくて、悲しかった。


 


 もしも過酷な労働の末に部下が職場で倒れたら、自分なら、どうするだろう。少なくとも、これ以上犠牲を増やさないためにも現状を変えようと尽力する、なんて行動には移れないことだけは確かだった。それはたぶん、ほとんどの人がそのはずだ。だから川辺さんは何も悪くない。俺が倒れた責任を感じる必要はない。そう考えるのは、わざわざケーキ屋でプリンを買って見舞ってくれた川辺さんを悪い人だと思いたくないからだろうか。どこまでが本心なのか自分のことなのにわからなくなる。ごろんと寝返りを打って窓の外に目を向けると、今にも降りだしそうに重く雨雲が垂れ込めていて、ふと、洗濯物をベランダに干しっぱなしにしてきてしまったことを思い出した。


 退院したら、まずは何をするべきだろうか。


 これから考えなければならないことは山ほどあった。


 


 川辺さんはその後も忙しい合間を縫って見舞いに来てくれた。一方の俺は、退職届を書いた。川辺さんは然るべきところに訴えるべきだと言ってくれたが、そうするだけの気力がなかったし、なんだかもう面倒くさくなってしまったのだった。封筒に『退職届』と書いてペンを置いた瞬間、ほっと全身から力が抜けたのをよく覚えている。自覚がなかっただけで、俺はずっとこの会社を辞めたいと思っていたのかもしれない。残業続きの毎日で、自分の時間なんて考える余裕すらなかったこの数年間。それでも、職場の人たちのことは好きだった。そのことで退職する意思が揺らぐことはなかったが、ただ何ともいえない寂しさに、胸がぎゅっと締め付けられた。


 


 退院してから一月後。働いていないという状態に落ち着かない気持ちになった俺は、就職先を探すことにした。まだ休んでいた方がいいんじゃないか、と俺の話を聞いて川辺さんは心配そうな顔をしたが、仕事を紹介してくれたりと色々と手助けしてくれた。川辺さんには本当に頭が上がらない。そして、なんとか無事に中小企業に就職することができたのだった。


 


 そうして再び働き始めてから三年目の秋。


 その日俺は、風邪を引いていた。


 足が重い。頭がぼーっとする。立って歩くのがしんどい。それでも会社に向かったのは、今日中に仕上げなければならない書類があったからだ。


「うわっ、なんですかその恰好。山にでも登るつもりですか」


 ダウンジャケットにマスクという重装備で会社に来た俺の姿を見て、同期の山田が目を丸くする。


「わ、田中さんその格好どうしたの?」


 ゆるく束ねた栗色の髪を揺らして、山田の隣にいた木村さんが噴き出す。


「ちょっと風邪を引いてしまって……」


「ええっ、それなら何で会社に来ちゃったの。声もガラガラだし。もしもインフルだったらとんだバイオハザードを起こしかねないし、今すぐ帰って休みなさい」


 これは私がやっておくから、と俺の机の上に置かれた書類を手にとって木村さんはさっさと自席に戻っていった。


 その後もまだ帰らずぐずぐずしている俺を見て、神田部長が「今日はもう帰っていいよ」と俺の肩に手を置く。


「しかし……まだ仕事が……」


「いいから四の五の言わない。有給が溜まってることだし、これを機に十日くらいゆっくりしておいでよ。無理されて会社でポックリ、なんてことになったら洒落にならない」


 そういうことなら、と頷くと、「それでよろしい」と満足そうな笑顔を浮かべた。


 


 帰る途中、ただの風邪だろうとは思ったが、念のため病院に行く。病院に来るのは、前の職場で倒れて以来だろうか。待合室には老若男女様々な人がぎっしりと座っている。その誰もが熱っぽい顔でぐったりしているのが異様だった。診断した医師にこのことについて尋ねてみると、目許に疲労を滲ませながら「最近、風邪を引く方が増えてるんですよね。季節の変わり目は体調を崩しやすいので、そのせいでしょう」と答えた。そういうものなのだろうか。それにしたってこの数は異常なのではないかと少し引っかかったが、すぐに忘れてしまった。


「高熱がずっと続くようならまた来てください」


 胃が荒れるので必ず食後に飲むようにと釘を刺されながら、解熱剤などを処方される。病院を出る時も、来た時と同じくらい、いやそれ以上の人が自分の番を待っていた。道中にあったコンビニでスポーツドリンクやレトルトのおかゆを買う。家に着いて携帯を開くと、山田や木村さんから体調を気にするメールが届いていた。俺が仕事を気にかけて中々帰ろうとしていなかったからだろう、仕事のことは気にしなくていいと書いてある、その優しさに胸がじんと温まる。受け取ったメールのひとつひとつに返信したかったが、どれも返信不要とあったので、よしておく。


 その後、食欲はなかったが、胃が空っぽのままでは薬を飲めないので、食べるというより流し込むようにしておかゆを口にする。それから薬を飲み、寝間着に着替えて布団に転がると、そのまま気絶するように深い眠りに落ちて行った。


 


 強烈な喉の渇きを感じて、目を覚ます。ふらつく足で台所に向かい、冷蔵庫のよく冷えたスポーツドリンクをがぶ飲みしていると、はたと気がつく。なにやら外が騒がしい。ヘリコプターのバリバリ空を割るようなプロペラ音に、サイレンの唸り声。外でただ事ではないことが起きている様子が伝わってくる。パトカーが近づいたり遠のいたりする度に無線で何か叫んでいるのが聞こえたが、はっきりとは聞き取れず、意味を成さないただの騒音でしかない。頭に響いて痛い。気になることは気になったが、外を見るのも億劫で、もうとっくに日は昇っていたが、カーテンを閉め切って頭の上まで布団にくるまった。そして、再び微睡の中へと沈んでいった。


 


 気が付いたら、会社の会議室に立っていた。脈絡のなさに、これは夢だと瞬時に理解する。こういうのを、明晰夢というのだったか。長机を囲んで複数の人物が会話しているのが聞こえるが、肩から上の部分だけ擦りガラスを通して見たかのようにぼんやりとしていて、彼らがどんな表情をしているのかが全くわからない。


「まさか、こんなことになるとはな。人生、何が起こるかわからないものだ」


 この声は、部長だろうか? 腕を組んで、深いため息を吐く。


「でもよかったですよ。田中さんはなんともなくて。それだけがせめてもの救いです」


 それに対して励ますように明るく返したのは、木村さんだ。同意するように山田が何度もうんうんと頷く。


「本当に。今まで大変だったんですから、こういう時こそ無事でいてくれなきゃ神も仏もあったもんじゃないですよ」


「そうだね。でも、寂しくなるなぁ。これでお別れだなんて」


 お別れ? 彼らの会話が意味することを、何一つとして理解できない。だけど、このままだと俺一人残して皆どこかに行ってしまうという予感だけがして、向こう側に近付こうと足を踏み出す。しかし、どれだけ歩いてもその距離は縮まらない。反対に近付こうとすればするだけ彼らとの距離は絶望的なまでに離れていく。そして、俺はどこまでもどこまでも真っ暗な空間に、ただひとり、取り残されたのだった。


 


 がくん、と高所から落下するような感覚に襲われて、意識が現実に舞い戻る。目を擦り、夢でよかったとほっと息を吐く。だが、やたらと意味深で不吉な夢に、胸はざわざわとして落ち着かないままだった。


 そういえば今は何時だろうと携帯を手に取る。すると、会社から電話がかかってきていた。それも一回や二回ではない。電話をかけなおしたが、繋がらない。祈るような気持ちでもう一度かけてみると、プルルル、という電子音が突然途切れ、それきり無音になる。画面を見ると、充電が切れている。ちゃんと充電器に挿しておいたはずなのにどういうことだと充電器に目を向けると、コンセントが抜けていた。


 なんでこんな時に限って、と苛立つ気持ちを抑えて、テレビを点けた。とにかく何か情報が欲しい。昼のこの時間帯ならどこもニュース番組をやっているはずだ。しかしそこで目に飛び込んできたのは、テーブルに突っ伏したまま動かない、女性アナウンサーの姿だった。予期せぬことに困惑しながらも、これは何かの間違いかもしれないと少しの間待ってみたが、テレビの画面が切り替わることはなく、どこからどう見ても放送事故だとしか思えない光景を無口に映し出したままだった。チャンネルを次から次へと変えてみたが、他の番組も大体同じ状態だった。ワイドショーの画面右上のテロップに踊る『起き上がる死者たち 感染症か?』という文字があまりにも現実離れしていて、笑ってありえないと一蹴したいのに、それを許してくれない状況にぞっと背筋が凍る。


 俺が寝ていたわずかな間に、一体、何が起きたんだ?


 


 いてもたってもいられなくなって、着るものも適当に外に飛び出す。そして、そこで目にした異常な光景に、呆然とする。


 道路のそこかしこで、衝突事故が起きていた。


 歩道にまで散乱したフロントガラスに紙くずのようにひしゃげたバンパー、そして車内から滴り落ちる暗赤色の液体。目を背けたくなるような惨状に、冷や汗が背中を伝い、鳥肌が立つ。車の中を覗き込む勇気はなかった。


 


 誰か自分以外に無事な人がいないかとさまよい歩いていると、目の前に不安定な姿勢で歩く女性が現れた。怪我をしているのだろうか。とにかくあの人に何が起きたのか尋ねてみようと駆け寄ろうとしたその瞬間、女性が鈍い音を立てて転倒した。


「だいじょうぶですか!」


 急いで近づいて、助け起こす。女性の異常さに気が付いたのは、そのときだった。全身が、氷水に浸かっていたかのように冷えきっている。呼吸を、していない。その女性は間違いなく死んでいた。だが、まるでなにかに操られているかのようなぎこちなさで動いていた。口の中がカラカラになる。ガクガクと膝が笑ってうまく立てない。声にならない声を上げながら、無我夢中になってそこから逃げ出す。その間、後ろは一切振り向けなかった。


 


 いまだ震える足でうろついていると、どこかから誰かの声が聞こえた。道路の向こう側で、学ランの高校生くらいの少年が叫んでいたのだった。


「誰かー! 誰か、無事な人はいませんかー! 誰でもいいから返事してよ! おーい!」


「ここに一人いるぞー!」


 半狂乱になって叫んでいる姿が居たたまれなくて、大きく手を振りながら返事をする。すると、「うわー!」と悲鳴とも歓声ともつかない声を上げて、少年は飛び上がった。


「急に学校の皆がなんか魂抜けたみたいになって、もう、この世にはオレ一人だけなんじゃないかと思ったら、不安になって……うう、よかった~……」


 横転したトラックを迂回して合流すると、少年は崩れ落ちそうになりながらぐすぐすと鼻を鳴らした。


 


 その後、他の生存者とも会うことが出来た。まだ自分以外にも無事な人が残っていることにかすかに安堵して、何が起きたのかを尋ねて回る。聞いた話によると、今日の朝から昼にかけて、さっきまで何ともなかった人たちが突然、先ほど見かけた女性のような状態になっていったのだという。しかもそれは局地的な話ではなく、世界中で同じ現象が起きているとのことだった。


「さっき家に帰ったら家族皆お、おかしくなってて、なんで、なんで私だけなんともないの……?」


「うわ、タイムラインの流れがこんなにゆっくりなの何年ぶりだろ……。つか、こんな状況でもネットとか繋がるんだ」


「衛星やなんやはまだ生きてますからね。まあ、それもいつまでもつかはわかりませんが」


「来年公開される映画を楽しみに今まで仕事も頑張ってきたのに、あんまりだわ……わたしの生きる希望が……」


「これってテレビで言ってたみたいに感染するもんなのか? 無事な奴はどのくらい残ってるんだ?」


「この世の終わりってのはもっとこう、天使がラッパを吹き鳴らしたり巨大な隕石が落っこちてきたり劇的なものだと思ってたんだけどなぁ……。これからどう生きていけばいいんだろう……」


 口々に好き勝手なことを言い合いながら、その場にいる者は皆一様に途方に暮れた顔をしていた。


 


 この世の終わり。


 確かにわずか一日で人類のほとんどが歩く死体に変貌するなど、とてもこの世の出来事だとは思えない。フィクションの世界でだって、もう少し猶予というか手心があるというか、段階を踏んで世界は滅びるものだろう。この先どうしていけばいいというのだろうか。あまりにも不条理で、訳が分からない。それでも、生き残った俺たちは、死にたくないという思いがあるうちは、このどうしようもない世界で生きていくしかないのだ。


 


  現状を確認した人々にもたらされたのは、明るい未来につながる希望ではなく、更なる困惑と、どうしようもない現実に対する深い絶望だった。誰かの名を呼んですすり泣く声が、怒りの咆哮が、呻き声がそこかしこから聞こえる。


 そのときだった。凛とした佇まいのある一人の女性が群集の真ん中に立ち、口を開く。


「皆さん、どうか希望を捨てないでください」


 突如響いた声に、しん、と辺りが静まり返る。


「今起きていることはとても悲しいし、受け入れがたいことは確かです。もしこれが夢であるのなら、どうか早く醒めてほしい。でも、私たちはまだ生きている。そこに何か、作為的なものを感じませんか。みなさん、私たちは選ばれた存在なんですよ」


 いいや、違う、と彼女の言葉を聞きながら思う。


 選ばれたのではない。俺たちは、選ばれなかったのだ。


 しかし、強く握りすぎて白くなっている彼女の手を見ると、自分は幸運だったのだと思わなければやってられない、だからそう言って自分自身に言い聞かせている、そのように感じられて、何も言えなかった。


 


  彼女の言葉を他の人がどう思ったのかはわからない。だが、大勢を前にして堂々と演説をぶつだけの度胸と行動力があるというのは、こういう緊急時にとても頼もしく感じられるものだ。はやくもここにいる人々のリーダーとして彼女の立ち位置は定まりつつあるようだった。


 その中で俺は、これからどうしたものかと考える。両親は共に亡くなっていたし、親戚とはもう十年以上会っていない上に生きているという保証もない。つまり、俺には彼らについていく他どこにも居場所がないのだった。


 ……ただ一か所、会社を除いては。


  こんな時でも会社のことを考えてしまうのは、あの日佐々木が言ったように、俺が社畜だからなのだろうか。会社に行ったところで一体どうなるというのだと冷静に思う自分がいる。それでも、彼らとこの先協力し合いながら生きていくという想像が上手くできず、行動を共にする気にもどうしてもなれなかった。今後の方針について話し合っている輪の中からこっそり抜けて、一人、その場を後にする。そのことに気付いた者は一人もいなかった。


 


◆ ◆ ◆


 


 朝。ピピピッピピピッと鳴り響く目覚まし時計のアラームを止めて、のそのそと起き上がる。缶詰のパンとコーヒー、それから念のためのサプリメントで簡単な食事を摂る。それらのものはすべて、スーパーやドラッグストアで入手した。あとは災害時用に会社の倉庫に備蓄されていたものも有難く使わせてもらっている。寝間着からスーツに着替える。全体的に少しくたびれてきたような気がする。明日にでもデパートに行こうと考える。スーツの替えは紳士服売り場にいくらでもあった。


 


 居住空間として利用している会社の応接室から徒歩七秒。職場に到着する。


「おはようございます」


 ドアを開け、そこにいる〝彼ら〟に挨拶をしても、もちろん返事は返ってこない。それでもいつかは返事をしてくれるのではないかという期待を捨てられず、あれから毎日こうして職場に来ては挨拶をしている。その後、〝彼ら〟の身になにか異変が起きていないかを確認してから自分の席に着く。


 


 現在、会社にいるのは俺を除いて六人。神田部長。事務の木村さん。先輩として色々教えてくれた植田さん。掃除のおばちゃんこと小林さん。それから名前を知らない警備員さん。あの日、会社に着いた時からこの顔触れは変わっていない。山田はどうしたのだろうと彼が住んでいるあたりまで探しに行ったことがあるが、結局見付からずじまいだった。どうか今も無事でいてほしいと思う一方で、あの日見た夢の内容から考えて、彼もすでにこの世の人ではなくなっている気がした。その他の人がどこに行ったのかはわかっていない。


 


 椅子の背もたれにからだを預け、机の上に積んだ本の中から適当に一冊選び、ページをめくる。紙とインクのにおいが一瞬立ち上る。この瞬間が割合好きだった。


 世界中が目茶苦茶になってしまって以降、会社ですることといえば、もっぱら読書だった。これらの本は近所の書店で調達しているのだが、〝元〟店員さんがレジ付近をうろついているので、無銭で本を持ち去ることに毎回少しの後ろめたさを感じる。なので、意味はないとわかっていながらも、「お疲れ様です」と一声かけてから出ていくようにしている。まぁ、気分の問題だ。当初は生活の役に立てられないかとサバイブルブックをよく読んでいたが、当然のことながら、緩慢に滅びつつある都市の中で生き抜く術が載っている本はその中にはなくて、今は適当に興味が湧いたものだけを読んでいる。同様の理由でゾンビものの本は読まなくなっていた。


 


 今後作る予定が全くないスイーツのレシピ本をぱらぱらと眺めながら、職場内を見渡す。生ける屍となった人々にはどうやら生前の行動を繰り返すという特性があるようで、たとえば掃除のおばちゃんは、掃除道具が積まれた荷車を押して廊下を延々と行ったり来たりしている。また部長は、コピー機の前に直立し、時折風に吹かれたかのようにふらふらと揺れる。木村さんは電話の子機を取ろうとしているが、指が動かないので表面を撫でるだけで一向に掴みあげることが出来ずにいる。もっとも、もうとっくの昔に電気が止まっているので、持ち上げることが出来たとしても通話することは不可能だ。静かな空間に、無機質な音が不規則に響く。ガチャ、ガチャガチャ、ガチャン。


 


 昼。職場の給湯室に持ち込んでおいたカセットコンロでお湯を沸かしてフリーズドライの炊き込みご飯を作る。作るといっても、お湯を注いでかき混ぜて数分待つだけのことだ。手軽に作れて味も結構いけるので気に入っている。栄養バランスを考えた方がいいとは思っているが、以前から職場での昼食は大体こんな感じだったのでたぶん死ぬことはないだろうと楽観視している。もし倒れたとしても、その時はその時だ。


 


 隣の席の植田さんは、朝からずっと、つめたく強ばった指でキーボードを叩いていた。


「植田さん、ちょっとは休憩した方がいいですよ」


 このまま叩き続ければ指が取れてしまわないかと心配になってそう呼びかけても、その手を止めることはない。仕事ってのはな、期日内に作業をこなしつつ、どれだけサボれるかが肝要なんだよ、と豪語していたことをふと思い出して、喉の奥に何かが詰まったように息苦しくなった。


 もう慣れたと思っていても、些細な瞬間に、本当の意味で彼らはここにはいないのだと思い知らされて、気が狂いそうになる。いや、もうすでに正気は失っているのかもしれない。姿かたちは同じでも、彼らはもう人間ではないのだ。それなのに生きていた頃と同じように扱って、俺は、一体何がしたいのだろう。その答えは明白だ。まだ離れたくないという子供じみたわがままで、別れの時をずるずると先延ばしにしているのだ。


  


 皆生き生きとして、社畜根性が抜けきらず、しょっちゅう無理をしていた自分を優しく叱ってくれていたあの日を思うと、今の生活のなんと味気なく、やるせないことか。だが、無味乾燥な日々であっても、この生活を手放すことが出来ない。たとえどうしようもなく変わり果てていたとしても、愛する日常の残滓を捨てて生きていけるほど、俺は強くないのだった。


 


 これ以上職場にいると頭がどうにかなってしまいそうだったので、外に出て、会社から少し離れたところにある住宅地を歩き回る。すると、今まさに散歩に行こうと犬小屋から出てきたタロウと遭遇した。


 


 タロウは、中型の雑種犬だ。タロウというのは初めて見かけたときから勝手に俺がそう呼んでいるだけであって、その犬の本当の名前が何なのかは知らない。道を徘徊する他の人々と同様に、風雨に曝されたタロウの目は汚れ傷つき、どろんと濁っている。あの日生ける屍と化したのは、人間だけではなかったのだ。あの目では、きっと何も見えていないだろう。それでも不思議なことに、タロウが電柱にぶつかったり道を間違えたりすることはない。それは目を瞑っていても歩けるほど飼い主と散歩していた証のように感じられて、なんだか切ない。


 お前のご主人様はお前を置いて、一体どこへ行ってしまったのだろう。


 ぼろぼろの散歩紐を引きずってよたよた歩くタロウに、心の中で呼びかける。その答えはきっと、犬小屋があるこの家の、半分開きかけているドアの向こうにある。散乱した靴に、放り投げられた鞄、財布、携帯電話。そして廊下の奥から微かに聞こえる、何かを引き摺るような物音。だけどそれを確認する気にはなれなかった。


 


 目的地も決めずぶらぶらと歩き続けながら、もうこうなったら今日デパートに行ってしまおうかと考えていた時のことだった。バサバサバサ、と騒がしい羽音を立てて、頭上を鳥の群れが過ぎ去った。ぎょっとして視線を上げると、鳥たちは会社のある方向とは反対の方へ、まるで何かに急き立てられているかのように飛んでいく。何があったのだろうと気になって後ろを振り向くと、どこかから盛んに煙がのぼっている。


 ……火事?


 胸騒ぎがした。まだ火事になっているのが会社かどうかもわからないのに、思考はどんどん最悪な方へ向かっていく。知らず、会社に向かって駆け出していた。


 


 十分後、息を切らせて走った俺を出迎えたのは、思い浮かべてしまったのと寸分違わぬ最悪な光景だった。


 


 真っ黒い煙を空に向かって吐き出しながら、ごうごうと炎を上げて、会社が、燃えていた。


 


 建物の中で何かが焼け崩れる音がする。ガラスが割れて、道路に散らばる。炎が派手に噴き出す度、全身が炙られて熱くなる。


 その光景を前にして、俺は、ただただ立ち竦むことしかできなかった。


 火元は何だ。一体いつ燃えだしたんだ?


 ……いや、そんなことはどうでもいい。彼らは自力でドアを開けることができないのだ。早く、早く助けなきゃ、手遅れになる――。


 「駄目だよ」


 会社に向かって走ろうとしたその瞬間、腕を強く掴まれて、勢いのまま前につんのめる。後ろを振り返ると、そこには漫画に出てくる博士のようなもじゃもじゃ頭と立派な髭を口元に蓄えた初老の男性がいた。


「おにいさん、あんた生きてる人間だよね? まだ生き残りがこの街におるとはねぇ」


「あの、俺、行かないと、放してくれませんか」


 のんびりとした口調で喋る男性の腕を振りほどこうと身をよじったが、反対により強い力を籠められて、どうすることもできなかった。


「だから駄目だって。あんなに燃えてる中突っ込んでいったら、あっという間に焼けて死んじゃうよ」


「…………そう、ですね」


  その通りだった。今更行ったって、俺にはもう、何もできない。火事を前にして、俺はどうしようもなく無力だった。


「……思い入れのある場所だったのかな。まあ、うん、お気の毒だったね……。もしかして、ここに住んでた?」


「え、はい、まあ。この会社で働いていたので……」


「あっ、そうだったんだ。いや、それにしたって自分の職場にはよう住まんでしょ。今もスーツ着てるし……。本当に会社が好きなんだね」


「……はい。大好きな、会社でした」


  そう言った瞬間、身体の一部分が抜け落ちたかのような喪失感に襲われて、うずくまる。男性は「そっか」と言ったきり、俺の隣にしゃがんで何も言わなかった。その後、炎の勢いが弱まるまで、二人並んで燃える会社をじっと見続けた。


 


「……これから先どうするか決まってる?」


 長い沈黙を先に破ったのは、男性の方だった。


「いえ……まだ何も」


「じゃあさ、一緒にT町に行こうよ」


「T町って、あの、山の中にある町のことですか? 以前行ったことはありますけど、確か、何もないところだったような気が……」


「前までは、ね。 あれ? ひょっとして、ラジオ、聞いてないの?」


「えっ、ラジオ? いまもまだ放送されてるんですか?」


「物好きな人がおったみたいでね。町に新しく局を作ったそうだよ。そっちのほうだと人も多いし自給自足していて食糧にも困らないみたいなんだけど、ここから結構離れてるでしょ? だから、行きたくてもなかなか行く勇気がさ、出なくて。一人だと心細いし。一緒に来てくれると助かるんだけど、どう?」


「……いいですよ」


 少し考えて承諾すると、「わー、ありがとう! 本当にありがとう!」と満面の笑みを浮かべてそれはオーバーに喜んだ。


「じゃあさっそく出発しようか!」


「え。あ、はい……。わかりました」


「いや、その前にあれがいるかな。ちょっと待ってて。今いいもん持ってくるから」


 言われた通りおとなしく待っていると、向こうからいかついバイクを引いてやってきた。目を丸くする俺を見て彼は、


「最初は自分の車で行こうかと思ってたんだけど、ほら、道路は車で埋まってるでしょ? でも徒歩や自転車で行くのもしんどいからさ、どうしようかな~と思ってたところにこれを見つけて。しかも運がいいことに鍵がささったまんまときた。だから……パクっちゃった」


 そう言って、照れ臭そうに笑った。その笑顔にふっと気が緩んで、つられたように笑う。あれ、こうして笑うの、いつ振りだろう。生きている人間と会話すること自体久しぶりなことに気が付いて、ふいに、声をあげて泣き出したいような気持ちになる。


 ああ、俺、今まで寂しかったんだ。


 会社での生活は、一人ではなかったけれど、孤独だった。そのことに、今になって気が付いたのだった。


 


「はいこれ、ヘルメット。ささ、後ろに乗って乗って」


「あ、ありがとうございます。……あの、なんとお呼びすればいいんでしょうか」


「そういえば自己紹介がまだだったね。木下です。どうぞよろしく」


「田中です。よろしくお願いします」


 渡されたヘルメットを被ってバイクの後ろに跨ると、ブルルン、と勇ましいエンジン音を轟かせて、道路を走り出す。感傷に浸る間もなく、あっという間に会社は見えなくなった。


 


今まで、お世話になりました。


 心の中で、そっと呟く。あの世があると本気で思ったことは一度もない。それでも今は、無邪気に天国の存在を信じていたいと、そう思う。俺の好きな人たちが天国にいてくれたなら、それで俺は十分なのだ。


 会社で過ごした日々を思い返して、ぎゅっと胸が締め付けられる。耐え切れず、木下さんの後ろでそっと涙を拭う。だが、拭っても拭っても涙が溢れ出て、頬が風で乾く暇もない。俺はこんなに泣けたのかと、泣きながら、声を出さずに笑った。


 


 太陽は既に地平線の向こうに沈み、辺りは闇と静寂に包まれている。その中を、一台のバイクがひた走る。そこに社畜は、もういなかった。


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