第50話 彼の深海


 掠れた少年の叫びは、夜の空気を引っ掻く。

 彼の深海は。深海の瞳は。

 潰されてしまった。


 左目から溢れる血液の量に、ナイフの先で彼の瞳を潰し目じりへ薙いだ男も、流石に一度その手を引っ込めた。だが醜く膨れ上がった自尊心が、その引きつった笑みを忘れさせない。痛みに苦しみ、首を絞める腕を握り締めたまま悶絶する少年を、男は余裕をあらわに見下す。

「どうだ」

 痙攣する呼吸。不随意に上下する痩せた腹。その顔からはだらだらと大量の血が流れ落ち、その左目が二度と機能しないことを訴えている。眼窩はただただ赤く、その目の形すら存在を見て取ることはできない。こめかみへ長く裂かれた傷からも絶え間なく血が溢れている。

「どうせこうなったら」

 生涯初めての激痛に喘ぐ少年の頭側へ身を乗り出し、首を絞める手に一層力を入れながら、男は笑う。おまえのせいだと。全ては、生まれてしまったおまえが、馬鹿な真似をしたせいなのだと。

 男の手の下で、潰れた喉が必死に動こうとする。呼吸のためか、叫びのためか。酸欠に少年の両腕は震え、片方残った右目を守ろうと、せめて首だけでも懸命に動かそうとする。

「何も見えねえほうが楽になれるだろ……っ!」男の声が詰まった。

 少年の顔の横に、男の手から滑り落ちたナイフが落ちて高い音を立てる。

 彼が全力で曲げ、思い切り蹴り上げた左足は、男の鳩尾に突き立っていた。

 突如の苦しみに、男は彼の右手側へゆらりと身体を傾かせ、咳き込みながら蹲る。痛みを与えることに慣れていても、与えられる痛みに男は慣れていなかった。思わず彼の首から手を離す。

 その隙に震える手で少年が握りしめたのは、顔のすぐ脇に落とされたナイフ。息を切らし、酸素を求めながら、柄を握り締める。強く、強く。そして仰向けのまま、間髪入れずに左手を振り切った。

 鋭い刃の侵入を拒む脇腹へ、少年は全力で刃を埋める。油断すれば柄を握る手首をひねってしまいそうなほど、人間の体は懸命に抵抗する。それでも彼は手を離さなかった。

 崩れた男がびくりと痙攣するのに、少年は固く握りしめたナイフを引き抜いた。永遠に指が解けないのではと錯覚するほど強く握った凶器が腹から抜けると、傷口からどくどくと大量の血が溢れ出した。それが致死量に達するのか否か、少年にはわからない。

「殺してやる……」

 彼自身、左目を潰され、鼻や口から血を溢れさせる顔は凄惨だった。男の下からようやく這い出ると、血と共に呻き声を吐き出し、残った右目で瞬時に周囲を把握する。狭い視界の中で、誰かが呼びつけた青い制服の数人が向かってくるのが見える。

 離れないナイフを握り締めたまま、少年は膝立ちになる。先ほど自分が転がされていた地面に蹲る男の背を、右手で押さえつけた。相当に傷が深かったのか、呻く男にはまともに動く様子さえ見られない。

 二人分の血液を浴びた刃からは、今も赤が滴っている。

「殺してやる!」

 喉が裂けてしまいそうな大声を、少年は全ての人に聞かせた。「ころしてやる」の六文字をはっきりと発音し、耳にする人々にその意味を理解させた。

 そうして背の中央に向け、ナイフを振り上げた腕を、彼は下ろすことが出来なかった。

 骨が折れそうなほど強い力で腕を掴まれ、肩を、背を押さえつけられる。少年は抜け出そうともがいたが、ナイフを握り続ける固まった指さえも解かれた。ナイフが取り上げられ、「少年を確保!」と耳元で聞いたことのない声が、かけられたことのない台詞を叫ぶ。

 一人の男をナイフで刺した凶悪な殺人未遂の犯人が捕まるのを、少女はただ見ているだけだった。

 しかし、握りしめる彼の手の温かさや、抱きしめた時の大人になれない背中の感触を思い出せば、もうやめてくれと声を上げたくなった。そんなに押さえたら、彼は壊れてしまう。まだ中学生の優しい男の子なんだ。大人三人で潰してしまえば、本当に死んでしまう。

 彼は、やり切った。凶悪犯になり切った。桜庭菜々を騙し切った。だから二度と、気のある仕草は見せてくれない。

 不器用な少年の策略を全て悟った少女には、肩に手をやって優しげな口調で何かを問いかける警官の存在など眼中にない。ただただ見つめる先にいるのは、流れる血と溢れる激痛に苦しげに顔を歪め、もがくことさえできなくなってしまった、彼の姿。

 だが、救急車のサイレンが近づく中、一瞬、ほんの刹那、いつもの瞳が彼女の方を向いた。見慣れない生き物たちを住まわせる、残された右目の深い瞳。あの夜、星空を映したのと同じ彼の深海の瞳は、毎朝見せてくれるのと同じ穏やかさで、笑った。

 彼の動作の意味など、誰にもわからない。左手のこぶしを軽く右手で撫でる程度の、傷を庇う動きにしか思われない仕草。それでも彼が長い距離を泳ぎ切り、海の底で出会った少女に向けた確かな言葉であることに、間違いはなかった。

 集まる人々の中、ただ一人、その意味を理解した少女は、思わずその場に力なく膝をついた。どうしたと問いかける周りなどどうでもいい。彼はもう、こちらを見てくれない。それでも、最後に言ってくれた。


 大好き


 あの日教えた手話で、照れ屋で恥ずかしがり屋の彼は、恥ずかしがらずに笑ってくれた。

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