第49話 宣戦布告
十五歳の少年が手にするナイフを目にすると、野次馬は軽いパニックを起こし、警察はまだかと悲鳴を上げる。
少年は、ジャケットの内側から引き抜いたナイフを相手にかざし、放り投げた鞘がどこかで硬い音を立てるのを聞く。真っ直ぐ相手に向かい合うと、乱暴に右腕で顔の血を拭った。上着の黒に紛れるように、鮮血が染み込んだ。
「やっと、復讐できる」
全ての人に聞こえるように、聞かせるように。静かな彼の声がなぞるのは、「復讐」という穏やかではない言葉。一言一句聞き逃さない彼女は、彼がそんな物騒な言葉を発音したのだと俄かに信じられなかったが、不思議なことに彼の声はいつだって、発した言葉を正しく脳に伝えるのだ。
「ぼくのこと、覚えていますか」
刃先を向け、言葉より確かな敵意を剥きだす彼に、叔父は怒りに顔を赤くした。少女のただの協力者だとのみ耳にしていた男たちも、今の状況には些かの困惑を隠し切れないでいる。桜庭菜々の叔父と凶器を手にする少年に、何かしらの関係があるなどと予想できるはずがない。
歯噛みする叔父は、正反対に冷めきった瞳を前髪の奥へ宿す彼へ、生意気にと吐き捨てた。
「人の姪を誑かして、調子に乗りやがって。新聞配達のバイトの分際で、ちっと構われただけでいい気になりやがったんだろが。どうせろくでもねえこと言って、ここまで唆しやがったんだろ!」
自分の所業は記憶から一切排除し、都合の悪い少年の存在だけを憎む男は、刃物さえなければ今にも飛び掛からんばかりの様子で激昂する。
「あの時、とっとと轢き殺しちまえばよかったのか、ああ? 人の親戚に勝手に手出しやがって、ガキのくせに駆け落ちでも考えやがったのか、クソガキが!」唾を飛ばし、いかにも悪人は彼なのだと周囲に知らしめるように叔父は声を荒げる。
それを見る彼は至って冷静で、叔父に加え野次馬のすべてが敵になろうとも一向に気にする様子などないまま、静かに、深く長い息を吐いた。それは、見当違いの答えに呆れてしまった風な、その相手に言い聞かせるような、大人びた仕草だった。
「十六年前に、あなたが犯した罪で生まれたのが、ぼくなんです」
唐突な台詞に周囲や男たちはざわめき、身に覚えのある叔父は、まさか本人が目の前に現れるとはと口の端を戦慄かせる。彼をよく知る少女も、自身が望まれなかった命であるという巨大な劣等を、彼が大衆の面前であらわにするなど微塵も想像しなかった。
だが、彼は続けた。
「彼女でなくても良かった。ぼくの復讐に付き合って、あなたをおびき寄せる種になるのなら、誰でもよかったんです」
少女に、悲しい理解が及んでくる。彼は自身のすべてをもって、桜庭菜々を庇おうとしている。
「母を傷つけ、今も苦しめる、あなたの存在は許せなかった。刑期なんてもので世間が許しても、生き続けなければならないぼくは、許せなかった」
つまり彼は、こう言っているのだ。
桜庭菜々は、自分にとって、巧みな言葉で簡単について来てしまった真っ赤な他人。愛情や友情などかけらも存在しない、ただのアルバイトの客先相手。
この計画の全ては、自分が長年ため込んできた恨み憎しみ、即ち果たすべき復讐のためなのだと、つまりはそう言っているのだ。
対する男は充血した目を少年に向ける。突如現れた、自分の片割れ。道理に従うならば、反省か、謝罪か、却って血の繋がりとよぶ情でも良い、そんなものが彼に対して働いても不思議ではない。
だが、少年も少女も身をもってよく知っていた。この男には、道理や倫理や道徳など、はなから存在しない。その証拠に、敵意を向ける年端もいかない存在に、これ以上ない逆恨みを燃やしている。
「あの女が勝手に産みやがったんだ」
二人の少年少女は、優しい人間だ。どれほど理不尽な目に遭っても、無情に涙を流す状況に陥っても、「それでも」とどこかで思ってしまうのだ。裏切られると分かっている期待を、それは裏切りと呼べるのかもわからない感情を、捨てきれずにいてしまう。だが男が口にしたのは、そんな脆い強さを持つ二人ですら、絶句し、優しさで庇いきれなくなる台詞だった。
「散々嫌々言いやがって、本気で嫌ならとっとと堕ろせばいいってのによ。結局産んだんなら、あの女にも責任ってもんがあるだろうが。逆恨みだ。おまえが俺を恨むんなら、知らねえ間に勝手に出て来やがったおまえを俺が恨んだって文句はねえだろ」
恨むべきは自分であるなどというあまりに勝手すぎる台詞に、ナイフを握る少年の左手は、ゆっくりと下がっていく。
「十六年っつったな。あの女がぎゃあぎゃあ騒がなけりゃあ、今頃はとっくに時効になってたんだ」
「クズめ」
少年が唾棄した。歯を食いしばり歪める顔は、少女に見せるどころか、人生で一度も浮かべたことのない、人生で初めての嫌悪と侮蔑の表情だった。
「よりにもよって開き直りやがって」
いつも思慮深く、考えすぎるほど自分の言葉の意味を探ってしまう丁寧な彼が、口汚く吐き捨てる。それだけに、どれほどの怒りや、嫌悪や、悔しさや、やるせなさ。そういった感情が彼の中で激しく沸き立っているのかがわかってしまう。「それでも」という言葉など、今となっては、いつだって全てを許し自分を責めてしまう彼ですら、持ち得ることはできない。
「あんたには、本当に救いようがない。死んだって変わらないだろうな。それならせめて、血の繋がったぼくが、責任もってこの手で殺してやる」
異様に静まり返った空間で、彼ははっきりと言い切った。深い海の底には、既に愛する生き物たちの姿はない。赤黒く滲み鋭くとがった憎しみは、前髪に隠れることなどできないまま、自分を作った人間を睨みつけている。
それでも、心に引っかかる彼特有の優しさが、全ての判断を鈍らせた。元は自分のものですらない刃物を、彼は瞬時に振るうことなどできなかったのだ。
たった十五の憎らしい少年が吐き捨てた台詞に、怒りに我を忘れた男が飛び掛かった。
伸ばした左腕でまだ細い少年の首を握り締め、背からアスファルトに叩きつけると、その腹を左膝で押さえつける。くぐもった声を漏らす彼を地面に縫い付け、男は首を絞めつける。
あまりの苦しさに、少年は左手からナイフを取り落し、両手で男の太い左腕を握りしめた。だがいくら両腕を酷使しても、すでに喉を掴まれた後では、まだ彼の力は足りなかった。
血のこびりついた顔に、更に切れた口の端から血と唾液を細く零し、少年は詰まった声を必死に上げる。彼に圧し掛かる男には、もはや周囲どころか少女の姿すら目に入っていない。
「その目が気に食わねえんだ!」
垂れる前髪の向こう、苦しげに細めながらもはっきりと自分を捉える彼の瞳に、男は怒鳴りつけた。
その右手が、落としたナイフを握るのに、少年は懸命に身をよじって逃れようとする。しかし膝で押さえつけられた身体は、自分より大きな身体の下から這い出ることなど不可能だった。
新品のナイフの切っ先。
「俺が見えなくなりゃあ、ちっとは気が晴れるだろうが!」
男は、口の端を歪め、堕落した大人の笑みを浮かべる。人を人とも思わない、傷つけることに傷つく心など持ち得ない、痛みに共感する感覚さえ存在しない。
だから男は、少年に向けて、ナイフを振りおろした。
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